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戦え! プリンセス  作者: 井川林檎
第四部 永遠のまほろば
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ゼロ以下からのスタートでも

 マジカルジョーク××県支店。

 わたしがハローワークに求人が出ているのを見つけた時、もう相当数の希望者が面接に臨んでいたらしい。

 日付を見ると、ごく最近出された求人らしい。やはりマジカルジョーク社という名前に、みんな殺到するのだろう。


 募集は営業事務職だった。

 よく内容を見ると、それほど良い条件でもない。給料も社名に反して異様に安い。なにより、支店にいる社員の人数が、1名だけなのだ。


  「なんでもやらなくてはならない仕事ですよ」

 ハローワークの窓口の人が、疑わしそうにわたしを見ながら言う。これまで何人も面接を受けて、失望して自分から蹴っているという。マジカルジョーク社という名前に惹かれて応募するけれど、期待しているような華やかさも、好条件もない。

 朝の掃除からお茶くみ、電話の応対、必要な消耗品の買い出し。ありとあらゆる雑用を任せられるという。


 「大丈夫です、ここで働きたいです」

 ずらずら並べられる悪条件を聞いたうえで、わたしは答えた。

 それで、窓口の人は溜息をつきながらやっと、電話をかけてくれたのだった。ハローワークです。募集を見られて面接希望の女性の方が一人おられるのですが――ぼしょぼしょと漏れ聞こえてくる穏やかな話し声に、胸が温かくなる。


 この電話の向こう側で、あの昭和昭和したオフィスで、あのひとは一人で今日も働いている。

 ぬるいお湯の入ったポットでお茶を飲んで、淡々と。


 あのオフィスが求人を出しているなんて意外だった。黒山氏は支店長だけど、やはり本社を通さねば求人を出すことは叶わなかったのではないか。大きな会社だから、営業事務の募集一つ出すにも結構な手数だったと思う。

 黒山氏のあのオフィスが人手不足とは思えない。どう見ても忙しそうではなかったし、男一人で不便だろうけれど、内勤を雇うほどではない。

 (まあ……事務の女の子が欲しいのは当然だろうなあ)

 

 この条件の悪さを見ているうちに胸がじんわり熱くなった。

 本社から許された条件が、これだったのだろうか。だとしたら、黒山氏は不憫だ。この条件で来てくれる営業事務があるなら、まあ好きに雇えばと突き放されたようにも思える。

 

 (この金額で、正社員扱い)

 パートでも良い位の月給だが、僅かに扶養の域を超えているから実に中途半端だ。なにより、ボーナスがないと明記してあった。但し書きとして、経験を重ねてゆく中で条件が変わることはあり得る、とあった。


 腐ってもマジカルジョーク社。

 こんな、人を馬鹿にしたような条件でも、応募が殺到しているという。

 ぐわっと押し寄せて、次々に面接して、そしてあのオフィスと黒山氏の様子を見て勝手に失望し、自分から辞退して去ってゆく女の子たち……。

 (気の毒な、黒山さん)



ハローワークの人が電話口でわたしの年齢や氏名を黒山氏に伝えた時、ちょっとドキドキした。だけど、よく考えたら黒山氏は、わたしの名前すら知らなかったはずだ。

 (面接に行って顔を合わせてビックリって感じか)

その瞬間を想像すると、笑いたくなってしまう。

 いや、もしかしたら黒山氏のことだから、淡々と、ああ、君でしたかようこそ、位で終わるかもしれない。


 (なんにしろ、たぶん、こっちが辞退しなければ雇ってもらえる感じだなあ)

 ハローワークの人の話を聞いていると、どうもそんな感じだ。

 なによりわたしと黒山氏は既に顔見知りだから、ほぼ確実に内定はもらえると思われる。


 (また、働く……)

 面接の日時が決まり、ハローワークの建物を出た時、青空が眩しかった。

 わたしはもう一度、社会に出ようとしている。一度くじけてヒキコモリニートになったけれど、また再スタートを切ろうとしている。

 

 黒山さんとの仕事は、どんな感じだろう。

 あの人が上司になる――嫌な感じではない、わたしは黒山氏の下でなら働きたいと思う。

 

 (だけどもしまた、ヒキコモリニートになってしまったら)

 社会に出たい。自分の足で歩きたい。働きたい。

 そう願っている反面、常に不安がある。また心が折れたらどうしよう。


 いやいや、と、わたしは自分を叱咤する。

 やるのだ。


 ハローワークで黒山氏の募集を見つけることができたのは奇跡だと思う。タイミングを逃したら、もしかしたらもう誰か別の人に決まっていたかもしれないのだ。

 これはチャンスだった。

 

 


 自室で作業すると、また悪い癖が出てきてテレビを見てしまいそうだった。

 それで、台所のテーブルで履歴書作成にいそしむことにする。かりかりしこしこと履歴書を書いていたら、たまたまその日、仕事が休みだったオカンが買い物から帰ってきて、どっかんとテーブルにエコバッグを置いた。

 野菜やら肉やら、冷蔵庫に入れてゆく。


 何か言うかと思ったが、始終無言である。

 わたしも黙って履歴書を書き続けた。

 希望理由の欄のところで手が止まった。御社を希望した理由――ううんと唸ってしまった。その時オカンが、あんたリクルートスーツ入るのと言ってきた。


 リクルートスーツ。

 どれだけぶりか、腕を通すのは。

 「大丈夫、なんとか入るみたいだから」

 と答えると、ふうん良かったねとオカンは言った。ごとごとと流しに野菜を並べている。煮込み料理をするつもりだろう、今から夕食の支度か。


 ヒキコモリに入ったのも唐突だったが、ハローワークに行きはじめるようになったのも突然だった。

 さぞ驚いたろうと思うが、オカンはわたしの変化を無言で見ていた。アンタ一体どうしたの、何があったのとは聞かなかった。

 ちなみに、あのマジカルジョークワールドに行っていた期間は、こちらでは時間の流れが止まっていたようである。何事もなかったかのように、またもとの生活に戻っていた。

 失踪したとか、神隠しにあったとかいう騒ぎにはなっていなかった。

 ちゃんと、現実世界には、わたしの戻る場所が待ち受けていたのである。


 まだ日差しは明るい。こんなにからっと晴れた天気である。

 どうやらわたしと同じことをオカンも考えていたらしい。アンタ、布団を干したらとオカンは言い、ああそうだねとわたしは答えて立ち上がった。書きかけの履歴書をそのままに二階に上がり、がらっと窓を開いた。

 

 何年もヒキコモリしていた部屋である。

 ヒキコモリ臭が抜けるまで、何度も換気を繰り返さねばならないだろう。現に、まだあの部屋はそこはかとなくのりしお味臭い。

 

 ダストボックスの臭いを消してゆかねばならない。

 布団をベランダに出したついでに、部屋の窓を全開にしてきた。がばあ、とカーテンが風をはらんで膨らむ。

 

 時刻は夕方の四時。

 (働きはじめたら、この時間にここでのんびりしていることは、もう、なくなる)

 そう思ったら、不意にこの時刻の、この部屋の風景が懐かしく感じられた。


 寝転がり、不健康なものを食べ、オカンからの小言に耳をふさいだ日々。

 ヒキコモリの日々は、良いものではなかった。けれど、確かにわたしはこの場所で自分を休ませていたのだと思う。


 自分の中にため込んだ膿や傷を、徐々に吐き出して捨ててゆき、部屋の中はわたしから出たゴミで一杯になっていった。思えばヒキコモリニートの時期は長い休養時間だった。だらだらと不毛に見えたけれど、決して無駄ではなかったのかもしれない。


 (さらば、だらだら寝転がっていた時間よ)

 穏やかな夕方の光に満ち溢れた部屋を見回し、わたしはヒキコモリ時代に別れを告げたのだった。



 

 明日は十時半にあのオフィスに行って、面接を受けてくるのだ。

 

 台所に向かい、階段を降りている最中、不意に胸がわくわくしはじめた。

 仕事をする。

 また、仕事をしながら生きてゆく。


 責任と、義務。

 かっちりとしたドライな世界。

 そうだった、わたしは仕事が好きなのだ。ずっと、実は、仕事をしたかった。


 (もし面接に受かったら、あそこで仕事をすることになったら)

 わくわくは止まらなかった。

 ああしたい、こうしたいと思うことが泉のように沸き出してきた。


 まず、毎朝換気をして、お掃除をして、何よりきちんとお湯を沸かそう。

 賞味期限の切れていないお茶パックを用意して、せめて美味しいお茶を飲んでもらおう。

 コピー機周りも整理して。

 


 仕事を得ることがこんなに嬉しいことだったなんて。

 水を得た魚と言うのはこんなものかもしれない。足取りも軽く台所の扉を開くと、オカンはトントンと野菜を刻み始めているところだった。


 途中になっている履歴書。

 御社を希望した理由の欄。


 自然と微笑みが零れた。希望した理由か。それどころじゃない、もはやわたしは、マジカルジョークワールド××支社で、黒山氏の部下として働く運命だとしか思えない。これは希望するからというより、そうなるべくしてなることだ。

 そうだ。わたしは、ぜひともあのオフィスで働きたいと思う。

 あの、昭和昭和して時間に取り残されたようなオフィスを、誰よりも愛することができる自信があった。



 

 ゼロ以下からのスタートでも構わない。

 まず、乗り出すことからすべては始まるだろう。そして、そのうち夢や希望も生まれてくるかもしれない。

 もしかしたら、こんなこともあんなこともという楽しい予感も生じてくるかもしれない


 黒山氏の下で働くことになったら、もしかしたらまたマジカルジョークワールドに行くこともあるかもしれない。

 あそこにはデフォルトプリンセスと、彼女に護られ教育されているプリンスがいるはずだ。


 オカン女王は、相変わらずオカンの姿なのだろうか。それとも別の姿なのだろうか。


 まだ面接も受けていないというのに、一瞬わたしの中に生じた楽しい予感。

 それは、いつかマジカルジョークワールドにもマジカルジョーク社の支店が立ち上がり、世界初の異次元支社として話題を集めることもあるかもしれない――などという、荒唐無稽なものだった。


 

 「明日、午前中に面接」

 わたしが言うと、オカンは一瞬、包丁で野菜を刻むのを止めた。今にもオカンが泣くのではないかと思ったが、濃厚な沈黙の末、オカンが言い放ったのはこんな言葉だったのである。


 「朝ゴハンちゃんと食べてきなさいよー」

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