モーゼの十戒(猫バージョン)
「ひょっとして、大林と麻柄はダストボックスに引き返し、そのまま現実世界に戻ってくれるのではないだろうか」
期待をしてしまうじゃないか。
それほど、お紅茶とクッキーは美味しかった。ベッドに腰掛けて頂いているうちに、ほわんとしてくる。
黒山氏は無言でぽくぽくクッキーを齧り、ごきゅごきゅとお紅茶を飲んでいる。自分でポットのお紅茶をお代わりして、相当気に入ったご様子だ。
(無理もない。現実世界じゃ、あの不味い紅茶だもんな……)
背中を丸めて甘いものを食べている姿を眺めていると、目頭が熱くなる。
不憫。
せめて奥さんでもいてくれればいいんだが、指輪はしていない。
(ここのお茶には叶わんが、ティーバックの安いお紅茶でも、あれよりは美味しく淹れてあげられるんだけどな)
不意に、あの昭和で閑散としたマジカルジョーク営業所の急騰コーナーで、出勤して朝一番に、お湯を沸かしている己の姿が目に浮かんだ。……ちょっと動揺する。
ふわふわと白いレースのカーテンが平和に揺れており、シャンデリアの小さな飾りが小さなプリズム光をばらまいく。このまま寝てしまいそうな程の平穏。
……件のビスクが変な鳴き声を立てつづけているのが、唯一残念な部分だ。
あおおおおお、エマージェンシー、あおおおおおお。
(犬の遠吠えじゃなく、賛美歌でも歌わせるような仕様に変更できんものか)
マジカルジョークワールドに侵入者があった時、ビスクの口から妙なる賛美歌が流れ出す。
白目から赤いビームを放ち、ぐるぐる回転しながら、賛美歌か。犬の遠吠えよりはましだ。
ぐるぐるぐるぐるコマのように回るビスクは、巻き毛とドレスを巻き上げている。その様は床屋の店前によく置かれている、あの青と赤のグルグルを思い出させた。
見ていると目が回る。わたしはお紅茶に集中することにする。
美味しい。
悪党二名は猫に襲われて身動きができないし、この至福の時間が永遠に続きそうである。
三つめのクッキーを口に入れた時、鏡台に座っていた黒山氏がかちゃんとティーカップを置いた。眼鏡が光っている。
「動き出しましたよ」
黒山氏はゆっくりと立ち上がると、痛い腰をかばうようにして立ち上がり、空中のディスプレイを見上げた。
動き出した?
あの状況から、悪党二名、どうやって動くことができるんだ。
わたしはカップと齧りかけのクッキーを持って、ベッドから飛び降りる。黒山氏の隣に立つと、ほわんと体臭が漂った――ああ、この匂い――残業が長引くと、会社に残っている社員のスーツからこんな感じの臭いが漂っていたものだ。
もちろん、わたしのスーツにも臭いはこびりついていた。しょっちゅうクリーニングに出せるわけでもないから、あの臭いはスーツに染み込んでしまう。
残業臭。
ふいに思い出した。
あのヒトが選んだ、ゆるふわ系のオンナ。あの女子社員は毎日、スーツというより、綺麗目なジャケットにフレアスカートといったいでたちで、良い香りをさせていたな。
残業臭なんか一切しなかった。
(定時で帰ってやがったからな……)
いつまでわたしは、この心の痛手を引きずるんだろう。
もう、あの会社から逃げてずいぶん経つのに、思い出すたび、未だに足元がストンと抜けたような心地になる。
認めてくれたと思った先輩。たぶん、わたしは先輩が好きだった。
けれど、先輩が選んだのは、必死でも真剣でもない、見てくれが良くて、多分性格も良いとされるような、ゆるふわ子だった。
……。
ぶんぶんと頭を振った。
いかんいかん。
わたしは黒山氏と並んで画面を見上げた。そして、唖然とした。
エマージェンシー、あおおおお、エマージェンシー、あおーん。
ビスクの警報はけたたましさを増すばかりだ。なるほど、さもありなん、これは大変な事である。
さっきまで猫弾丸にまみれて、にっちもさっちもいかなくなっていたお二人さんが、何がどうなったか、今は体に付着した猫どもを全て払落し、堂々と通路を歩いているのだった。
猫共はぎっしり通路にひしめいており、にゃあにゃあなあなあ鳴いている。虎柄、斑柄、さび柄、三毛、様々な毛色がにゅるんにゅるんと波打つ様は、猫の大海原だ。
どれほどの猫弾丸が放たれたのやら、通路は猫まみれである。
しかし、大林と麻柄が一歩踏み出すと、床にひしめいている猫どもが、魔法のように「ざー」と道を空けるのだった。その様は、モーゼの十戒のようだ。そればかりではない。
「……な」
侵入者二名を包囲していたはずの、マジカルジョークワールドの衛兵どもまで、「ざーっ」を道を空けているじゃないか――なにやってんだ、仕事しろ――あまりのことに、開いた口が塞がらなくなった。ぼろっと、手からクッキーが落ちてしまう。
「『プリンスの力』を使ったようです」
意気揚々と、まるで凱旋でもするかのように通路を歩いている二人を眺めながら、黒山氏は言った。
淡々とした口調である。焦りは微塵も感じられない。
大林と麻柄は、間違いなくこのプリンセスルームを目指していると思われる。うにゃーお、うにゃーお――猫どもは柔らかな猫なで声と、波打つ毛で、この侵入者二名に親愛の情を示しているようだ。衛兵たちに至っては、「捧げ銃」をして敬礼しているじゃないか。
「これが、『プリンスの力』ですよ」
黒山氏は片手を伸ばし、画面をクローズアップさせた。悪党二名の面が拡大される。
目くばせしあい、にやにやとして、本当に悪い顔してやがるよ。こいつら、ここに来て何をする気だろう。
黒山氏が簡潔に説明してくれたが、「プリンスの力」とは、プリンスに似せた力のことだという。
プリンスはこのマジカルジョークワールドを支配する者である。この異次元において、彼に逆らう者はいない。
疑似的ではあるが、プリンスの権威を持ち、マジカルジョークワールドで幅を利かすことができる。
「この異次元のシステムを知る者ならば、そう難しいことではないのですよ」
企画サンプルの、ごく簡単な作りですからね。なんでもできてしまうんですよ。
黒山氏は、ふうと大息をついて、ハンカチで額を拭った。さっきの一休みでせっかく引いた汗が、また噴き出してきたらしい。
ぷうん。
残業臭が濃くなった。
「えっ、じゃあ」
画面を見ながら、わたしは唖然とした。
王者のように悠々と歩いてくる大林と麻柄。貴公子みたいな恰好をしているから、余計に王者っぽい。
にゃにゃにゃー。道を空ける猫の海。
「敬礼っ」……捧げ銃する衛兵ども。
(だめだ、全然、だめだ……)
「じゃあ、この二人、この部屋まで来ちゃうってことですか」
わたしは言った。
弱っちい、貧乏たらしい、とろくさい黒山氏。猫背であごを突き出すようにして画面を見上げる姿は、どこから見てもイケてないおっさん。
この人が、大林と麻柄に叶うとは思えない。
(このままここに乱入されたら)
あおおおおお、エマージェンシー。あおおおお。
くるくる回るビスク。
こいつがマジカルジョークワールドの「鍵」らしいから、あいつらは間違いなく、ビスクを奪い取ろうとするだろうな。
ビスクが彼らの手に渡ったとして、それからどうなるのか、わたしには皆目見当もつかんのだが、良いことにはならないこと位想像できる。だめだ、絶対にここに入れてはいけない……。
「プリンセスルームの扉は、彼らには開けません」
黒山氏は言った。画面から手を離し、腕を組んでいる。
「彼らは扉の前までは来ることができても、部屋に入ることはできないんです」
この異次元のシステムは、ダストボックス経由で入り込んだ彼らの事を、ダストボックスの中身として認識している。ダストボックスの中のものは、プリンセスルームはおろか、あらゆる扉から弾かれてしまう。
だから、部屋の中にいる限り、奴らと遭遇することはない……。
(なんとなく、コンピューターの腹のたつ部分を見せられたような気分)
だばだばと紅茶を床にこぼしてしまった。慌ててカップをサイドテーブルに乗せる。
なるほど、それじゃあ、いくら「プリンスの力」を身に着けても、奴らの可動範囲はダストボックスの中から通路だけということか。
「なーんだ、全然大丈夫じゃないですか」
わたしは言った。
心底安心して言った。
「それはつまり、彼らがここに居続ける限り、我々は現実世界に戻れないまま、この部屋に缶詰状態ということです」
黒山氏が穏やかに言い、わたしは目を見開いた。
持久戦に持ち込まれてしまったらしい。
「エマージェンシーィイイイ、アオオオ、オーッホホホ……」
ビスクの警報が、更にレベルアップした。警戒度が高まったということか。何てこった。
わたしは茫然と、黒山氏の平べったい横顔と、てかった額を眺めたのである。




