迎撃態勢
プリンスはマジカルジョークワールドを創った時、企画用のサンプルではあるが、一応、この異次元の管理主として、「鍵」を作ったのだという。
「コンピューターウィルスの侵入を防ぐための、いわばスパイウェア対策ソフトのようなものです」
と、黒山氏は言う。
黒山氏は勝手知ったる他人の家と言わんばかりに、先に立ってプリンセスルームを目指していた。
まだ午前の明るい日差しが天井のステンドグラスを通して通路に色彩を落としている。初めて見る人なら、誰もが立ち止まり、見惚れてしまうような優雅で幻想的な風景だが、彼はまるで興味を示さない。
古びた革靴で、淡々と歩いてゆくだけである。
若干猫背気味、中年の哀愁漂う背広の背中で、黒山氏は穏やかに説明してくれる。
マジカルジョークワールドを管理する場所は二か所あり、そのうちの一つはプリンスのパソコンである。
「あの当時は、開発部のパソコンを使っていましたが、退職してからは、拠点を自宅のパソコンに移したはずです……」
カーテンが締め切られ、暗くて埃っぽい汚部屋の中で、パソコンの画面を見つめ続けていたジャージ姿が目に浮かんだ。「レイチェル」人形の山の中に埋もれ、現実から逃避し続けて、何日も洗っていないようなジャージと、すっかりたるんで醜くなった体を丸めて、パソコンと向き合い続けている。
あのパソコンが、このマジカルジョークワールドの管理の拠点か。
カーテンの隙間から細く入り込んだ日差しが、暗い部屋の中を浮遊する細かな埃を照らし出す。
ちらちらと踊る埃はえんえんと降り積もる。ディスプレイを青く光らせるパソコンと、それを操作するプリンスと、無数に積み上げられた「レイチェル」人形の上に。
(……今もプリンスは、あの部屋に埋もれている……)
目の前に、汚い部屋の埃が舞い飛ぶような錯覚に襲われていた。はっと我に返る。黒山氏の単調な語りは続いていた。
「マジカルジョークワールド管理の拠点は、もう一つあります。それは、こっち側、つまりここに設けられているのですよ」
この城の中に、マジカルジョークワールドを管理する場所がある……。
「それが」
プリンセスルーム。
わたしがこの異次元に迷い込み、最初に目覚めたあの場所。
あの部屋が、マジカルジョークワールドを管理する拠点。
「開発部の例の二人なら、この企画サンプルに張り巡らされた簡単な護りなど、いともたやすく突破してくるでしょう。何度も繰り返してしまいますが、あくまで企画サンプルですし、この世界の『スパイウェア対策ソフト』も子供だましみたいなものなんです。おまけに……10年前に作られたままの状態ですからね」
あれからこういった技術は劇的に進化した。この世界の護りなど、大昔の技術で造られたものでしかない。
「大林さんと麻柄さんなら、すぐにこちらに侵入できるでしょう。だけど、わたしたちには強みがあるんです」
こつこつ。
眠たくなるような呑気な足音を立てながら、黒山氏は春の日差しのように穏やかで優し気な声で言うのだった。
「一つは」
マジカルジョークワールドを管理する「鍵」はこちらの手の内にあるということ。これからプリンセスルームに立てこもり、そこを拠点に侵入者を迎え撃つことになるが、「鍵」がこちら側にある限り、大林も麻柄も、この世界の管理権を手にすることができない――つまり、彼らの狙いのデフォルトプリンセスに指一本触れる事ができない。
「もう一つは……分かっていることです」
彼らが、どこに現れるのか、わたしには分かっているんです。
黒山氏は言うと、こつんと足を止めた。
いつの間にか、プリンセスルームの扉の前に来ている。
通路に建ち並ぶ棺の部屋とは全く異なる見た目の、キュートでプリティ、優雅な見た目の扉。
ここが、マジカルジョークワールドを管理する場所。ここが、これから戦いの砦になる。
(羽根布団とロケンロールとバストイレがついた砦だよ)
何ら不便はない。これからどんな戦いが起きるのやら見当もつかないが、立てこもる場所にするなら、これ以上ないリッチな部屋だろう。
黒山氏は扉を開いて中に入った。わたしも続いて入室する。
結構な音量のメタルビートが鳴り響いている――ドギュイィイィイン、ベキャバリドカチカベキバリチュドーン――黒山氏は何も言わなかったが、わたしは自主的にボリュームを下げた。リモコンビスクをぶちぶちとつついて操作する。
薄っすらロックが鳴っているだけ、穏やかな静けさが訪れた。
黒山氏はもこもこの絨毯に革靴を半分以上うずめ、部屋の真ん中に立ち尽くしている。
あちこち、天井やら壁やらに目を凝らし、何度か眼鏡を外して白いハンカチで拭いてはかけなおし、何かを探しているふうだった。
しまいには絨毯の上にはいつくばり、必死になってなにかを見つけようとしている。
ううん、違う、ええとどこだったか――口の中でぶつぶつ呟きながら、記憶の綱を必死に引きよせている。
何を探しているんですと聞いたら、十秒ほどの間を置いて、「鍵の差し込み場所を探しているんです」と返事が返ってきた。
何のことやら、である。
「『鍵』って、このビスクドールの事ですよね」
わたしは腕の中で目玉をぎょろつかせているビスクを見た。さっきから様子がおかしいビスクは、また「にゃー」と言った。
まともな発語がない。黒山氏がチョップを落としてからこうなったような気がするんだが。
(壊れたか、ビスク……)
黒山氏は、あっと言った。何かを思い出したらしい。
絨毯をはいつくばっていた姿勢からいきなり立ち上がり、「いっ」と腰を押さえた。急な動作で体を傷めたらしい。黒山氏、相当からだがなまっている――わたしも人の事は言えないが。
腰を押さえながら、黒山氏はこちらを振り向いた。
「その人形を、ここにおさめてください」と言う。片手は腰を押さえ、片手は何もない宙を指さしている。
「どこにおさめるんです」
わたしはもたもたとビスクを差し出した。「そこです」と、腰が痛くて体が伸びないらしい黒山氏が、また何もない宙を指さした。
本当になにもない空中である。
黒山氏の頭より少し高い場所、ちょうど天井に下がる、小ぶりなシャンデリアの真下だ。
さわっ――柔らかな風が窓から飛び込み、レースのカーテンが揺れる。
シャンデリアの細かな装飾も揺れた。ふわふわとプリズムの輝きが壁に舞い飛び、わたしの目の前にも光の粒子が過った。
なにもない、この宙に、ビスクを「おさめる」 ?
「にゃにゃにゃにゃーん」
ビスクがけたたましく鳴いた。うるさいよお前、いい加減その猫の真似をやめんか。
しかし黒山氏は、ビスクの鳴き声を聴いて、さっと眉をひそめたのだった。伸びない体を堪え、苦しそうにしながら、「早く、早くしてください、敵が第三シールドまで突破してきたようです」と、何かのバトルアニメみたいなことを叫んだ。
何が第三シールドだ?
ビスクは鳴き続けている。うにゃにゃん、うにゃにゃん、にゃおおん、にゃごおおん――アニメ声がだんだん本物の猫っぽくなってきているじゃないか、これはもしかしたら、危険を知らせる警報なのか。
なあああおん、うああああおん。
(なんか、夜に近所の発情した猫が、こんな声をたてていたような)
嫌な鳴き方をするビスクを掲げ、とにかくわたしは、示された場所にビスクをはめこもうとした。
何もない空中である。ビスクをおさめようにも、どうすればよいのか、訳が分からない。
黒山氏が指示したあたりにビスクを抱き上げてやると、ビスクが「くわっ」と白目を剥き、「ぱか」と口を開いて、ベージュのドレスを纏った体を大の字に開いた。怖い。あまりの気色悪さに思わず手を離したら、ビスクは落下することなく、宙に浮いたままくるくる駒のように回転を始めた。
仰天である。
「敵来襲、これより迎撃態勢に入ります」
くるくる回りながら、ビスクは喋った。やけに響く。
部屋の外が急にあわただしくなったようだ。ばたばたと走り回る足音が聞こえてきて、おまけに庭園の方からは、「整列、捧げ銃」とかいう、やけに鋭い号令が飛んできたのである。
ざっざっざっざ。ものものしい行進の足音が城の周囲を囲んだ。
どうん、どんどん――大砲の音まで聞こえてきたので、わたしは飛び上がったのである。
「マジカルジョークワールドが、迎撃態勢に入ったようです」
プリンセス仕様の鏡台に手をつき、腰をさすりながら、黒山氏は言った。
「万一、連中があそこから飛び出してきたとしても、取り押さえられるはずです」
あそこ?
黒山氏は光る眼鏡をこちらに向けた。真顔である。呑気で穏やかな空気は変わらないが、彼なりに緊迫しているのかもしれない。
「さっき、彼らがどこに現れるのか分かるといいました。彼らが現れるのは、ダストボックスの中です」
ダストボックス。
デフォルトプリンセスのいる、あのダストボックスから、奴らはここに侵入してくると言うのか!
まずいじゃないか?
デフォルトプリンセスといきなり遭遇してしまうぞ?
しかし黒山氏は落ち着いている。何ら、慌てている様子がない。
それどころか、腰に手を当てたまま、盆踊りでもおどるかのように、片手を上にかかげて「さっ」と宙を薙ぎ払ったのだった。
「デフォルトプリンセスは、鍵付きのフォルダに避難させます。応急処置にはなるはずです」
黒山氏が薙ぎ払った空中に、透明なシートのような画面が現れた。まるでipadでも操作したかのようだ。
その透明な画面が、真っ暗な場所を映し出している。見覚えがある。それは、あのダストボックスの中の闇だった。
闇のカーテンが何重にも落ちている中、白くたおやかなデフォルトプリンセスが座り込んでいるのが見える。
黒山氏は画面上のデフォルトプリンセスの上に人差し指を当てると、「すっ」と、右横にスライドさせたのだ。
「鍵付きのフォルダに避難させた」のだろうか。
一瞬のうちに、闇の中で蹲っていたプリンセスは消滅し、ダストボックスの中は濃厚な闇が落ちているだけとなった。
「現れますよ、そら」
画面を見上げながら、黒山氏は言った。
そして、その通りとなった。黒山氏の言葉とほぼ同時に、その闇の空間の中に、ぬうっと人影が現れたのである。
人影はふたつ。
ひょろっとしたのと、ごついのと……。
(ついに来た)




