プリンセスの決意
黒山氏は語り終えると、しばらく無言であたりを見回していた。
天上のステンドグラス、ずらりと並んだ棺の部屋の扉、通路の照明――相変わらず表情が読めない男である。
この人は、どこか、ひとを苛々させるところがある。
マイペースだからだろう。そして、全体的にゆっくり、ゆったりとしており、カメを思わせた。優し気だし、決して頭が悪い人ではないのだろうが、ものすごく損をしている感がある。
てらっと剥げた頭頂部とか、みすぼらしいスーツとかも、この人の印象を損なわせている。
見た目や雰囲気でバカにされやすい人種である。
(この人がどこまで頼りになるのか分からんが、見た目とか、多分肉体的な強さとかでは、あいつらに負けているなあ)
わたしは思った。あいつらとは、大林氏と麻柄氏のことである。
黒山氏なんか、あの二人の肉食野郎にかかったら、ばりょばりょ頭の先からつま先まで喰われてしまいそうだよ。
わたしの心中などまるで感じない様子で、黒山氏はやがてゆっくりと、わたしに視線を当てたのだった。
「……で」
と、唐突に問いかけられる。わたしははっとした。
そうだった、まだ黒山氏の問いに答えていないままだ。
このまま現実世界に戻って、こんな厄介なマジカルジョークワールドとおさらばしてしまうか、あるいはマジカルジョークワールドを悪漢二名から守るために留まるか。
一瞬、あの住み慣れたうちと、朝、出勤して行くオカンの物音が記憶の中で生々しくよみがえった。
「あんたちょっともう、いい加減に今日こそハローワーク行きなさいよ。それとも見合いでもして、早く安心させてちょうだいよね。もう母さん仕事行くからね、いいね、わかったね……」
玄関の戸が閉まる音と、車が走り出してゆく気配。
あとはしいんと静まり返った家の音と、ヒキコモリ部屋の埃っぽい世界だけが残るんだ。
(ああ、本当に早くなんとかしないといけない……)
あの部屋の中で、古いテレビを一日中ぼうっと眺める、布団を被ったわたし。
ここからもう出たくない、出られない。わたしは「必要ないもの」、ごみなんだ。
張り詰めていたものが唐突にプツンと切れた後は、果てしない弛緩の時間が流れる。その出口のない弛緩の中で、わたしはひたすら、現実から逃げていたのだった。
自らをごみと決め、ダストボックスのような部屋の中に引きこもっている。
ゴミ箱の中に沈殿している間も、外の世界は時間が流れ続けている。わたし自身の時間も止まらない。
ああ本当に早くなんとかしないといけない。オカンの匂いや表情や、あの声を思い出すと、いてもたってもいられない気分になる――決して嬉しい現実ではなかったが、あの現実に戻れないと思ったら、十年間、ずうっと心の奥に押し込めて蓋をしていた焦りがムクムクと首をもたげてくるのだった。
なによりわたしは、ダストボックスで萎れているデフォルトプリンセスや、完全なるゴミと化しつつあるプリンスに、己の姿を重ねてしまっていた。
(ゴミとか言ってんじゃないよ、何がゴミなんだ、誰が決めたんだよ畜生)
今すぐ帰って、その足でハロワに行き、なんでもいいから職を探してオカンを安心させたいという思いに突き動かされそうになる。今ここで、即行、わたしを現実世界に。あの汚いヒキコモリ部屋に。オカンのいる世界に。
押し入れの中にしまいこんだリクルートスーツ。多分キッツキツだけど、なんとしてでもあれに体を押し込むんだ。
……。
息を吸った。吐いた。
そして、目の前の黒山氏を見つめた。
表情の読めない顔のまま、ただただ穏やかに、ホトケのようなのどかさで、黒山氏はぼうっと立っている。
わたしは決めた。
「マジカルジョークワールドを護るお手伝いをさせてください」
あの、のりしおの匂いが漂うダストボックスの中のデフォルトプリンセスを明るい場所に引き戻して。
あの、救いようのないプリンスを引っぱたいてでも。
ゴミ箱から、引きずり出してやる。
「わたしは、自分自身をゴミ扱いしているのが、見ていて気分が悪くて仕方がないんです」
これこそ、自分のことを棚にあげた言い分であるが、とにかくわたしは思ったままを吐き出したのだった。
「プリンスあの野郎、ちょっと何とかすればいいだけなのに、ひとつ予想外のことが起きてうまくいかなかったら、勝手に絶望して逃げてしまった。諸悪の根源はあいつだと思うんです」
吐き出し始めたら、口が機関銃のように言葉を放ちだした。
ホトケのように立っている黒山氏に向かい、わたしは苛烈な言葉を吐き続けたのである。
「デフォルトプリンセスも、プリンスが決めたルールだからって、最初から自分をゴミ扱いしてる。自分なんかただのデフォルトなんだって、捨てられる存在なんだって。なんとかしようという気概がひとっつもない」
レイチェルだかなんだか知らんが、綺麗な姿のくせに、中身は弱っちい、薄っぺら。
ああ本当にゴミじゃないですか、あんなのゴミですよ、だけど何でだろう、そういうの腹が立って仕方がないんですよ。
パンプスのつま先で地団太を踏んでいた。
胸に抱いたビスクが振動で目を開き、また「にゃー」と言った――やっぱり変だ、お前一体どうしたんだ――ビスクについての違和感に気をとられかけ、いやそれどころじゃないんだと、わたしはハッとする。
わたしが腹を立てているのは、本当はプリンスでもデフォルトプリンセスでもなくて、自分自身に対してなんだ。
ああお前は本当にゴミだよ、仕方がないな、このゴミ。だけどゴミのままでいるかどうかなんか、自分次第なんだよ。自分で勝手にゴミに成り下がっているだけなんだよ、こん畜生……。
「……プリンスが大事にしていたマジカルジョークワールドが、あの二人に乗っ取られるのを防ぎます。戦います」
その戦いが終わったなら、わたしは晴れて現実に戻ることができる。
ええ、戻るんです。戻って、またやり直すんです。
息が弾んでいた。
少し泣いていたのかもしれない。
はあはあと肩に力を入れ、片足を前に踏み出した姿勢で、わたしは黒山氏を見つめていた。
黒山氏は、じいっと黙って聞いていたが、やがて静かに、分かりました、と言った。
「では、手伝ってください。よろしくお願いします」
黒山氏は軽く頭を下げた。そして、のろのろと体の向きを変えると、ゆっくり歩きだしたのである。
行きましょう、と黒山氏はこちらを振り向いた。
「この世界はバグだらけであり、基本、スカスカです。現実から侵入することなど簡単にできることです。だから、彼らは間もなくこちらに潜入し、我々の前に姿を現すはずですが」
絶対に、マジカルジョークワールドの管理権を渡してはならない。
今日は良い天気ですねというような感じで、黒山氏は言った。
「マジカルジョークワールドを管理する鍵を、死守しなくてはならないのです。スカスカのマジカルジョークワールドの中で、唯一完璧な場所があるのですが、それがプリンセスルームなのですよ」
プリンセスルーム。
すなわち、わたしが寝たり起きたり身支度したりする、あの素敵な部屋である。
黒山氏は、あの部屋を砦にしようと言っている。
ところで、マジカルジョークワールドを管理する鍵って何だ?
振り向いている黒山氏を、わたしはつくづく眺めた。鍵を死守する、プリンセスルームで死守する……。
黒山氏の眼鏡の奥の目は、眠そうだがきっちりと、こちらを向いている。だが彼が見ているものはわたしではない。
(え、鍵って……)
黒山氏は、わたしが抱いている、リモコンビスクをじいっと見つめているのだった。




