開発部
うさぎの穴に落ちてゆくアリスのシーンを思い出す。
あんな楽し気な感じも、余裕も一切ない。髪の毛が乱れ、ジャージドレスがまくれる勢いで闇の中を落下し、目がくらみそうな眩しさを覚えた瞬間、どさばきべきゃと尻の下に衝撃を覚えた。
「あうーん」
と、アニメ声でリモコンビスクが呻いているのが聞こえた。わたし自身、尻の痛みで変な呻きしか出てこない。うううう、ええええ――自分の唸り声にハモるかたちで、もっと野太い声が聞こえて来た。
「いてえええええ」
はっとする。
突き刺さる、視線、視線、視線。
ここはどこだ――天井には丸い蛍光灯が規則正しく並んでいて、スーツ姿の男の人たちが目を見開いてわたしを見つめている。
ブラインドが上がった窓が見える。都会の街並みと晴れた空が見えた。高層ビルの一室らしい。
してみるとここは、オフィスか。
かたかたかた。背後でパソコンのキーボードをたたく音が聞こえて首をひねって振り向いた。
なんだか知らないが、ファイルが建てられたブックエンドを挟んで、やせた眼鏡の男が顔色一つ変えずにノートパソコンをいじくっている。こいつもスーツ姿だ――ただし、こちらをちらりとも見やしない。
その男くらいだ。この狭い部屋の中にいる男共の中で、わたしを見ていないのは。
他の連中は皆、机から立ち上がって口をあんぐり開いていたり、コーヒーマグを持って固まっていたり、言葉も出ないほど仰天してこちらを眺めているのだった。
「ううう」
尻の下から声がして、ぎょっと下を見た。
ジャージドレスを纏った尻が押しつぶしていたのは、恰幅の良いおっさんである。
幸いなことにノートパソコンは脇にどけられて閉じられており、破損はまぬがれている。ただし、おっさん本人が机に顔をおしつけられる格好で、わたしに潰されているのだった。
(こいつが大林……)
慌てて机から飛び降りたら、ジャンプしそこねた。うめいている大林氏の脇腹のあたりに、パンプスのかかとがヒットした。ぐう。大林氏、体を丸めて変な音を立てる。
「……うん、こうやって出てくるんだから、いくら良くできているといったって、サンプルはサンプルだったんだよ」
底冷えのするような淡々とした平坦な声で言ったのは、わたしのキックを脇腹に受けて悶絶する大林氏ではなく、さっきからパソコンをいじっている隣席の痩せた男の方だ。
何もない宙に突然現れて降って来た変な恰好の女――わたしなんだけどさ――に、全く驚きもせず、仕事をする手を休めることもなく、彼は言葉を吐いている。
床に尻もちをついてしまったわたしは、まだ悶絶している大林氏の椅子の背を掴んで立ち上がった。
すると、わたしに注目して固まっていたスーツの人たちが、一斉にふうと息を吐いた――生きてる、本物だ、うおお、こんなことって本当にあるんだな、空から女の子が降って来るなんてなあ――お坊ちゃんカットの色白、牛乳瓶底眼鏡、ぽっちゃり体型エトセトラ、言葉遣いといい、ここにいる男性軍は全体的にオタク臭がする。
もはやわたしは確信していた。
ここは、マジカルジョーク本社の開発部なんだろう。
大林健一はつまり、未だに開発部に残っているというわけか。
(ここにいる何人ぐらいが、当時の開発メンバーなんだ)
ちらちらっと辺りを見回したら、目が合った男どもがみんな、順番に声をあげた。わわ目があった、こっち見た、あれドレスだよなあ、だけどどうしてあんなにジャージっぽいんだ――煩い連中だ、秘儀、アウトオブ眼中。
かたかたかた――隣席の男は、相変わらずキーボードを叩き続けている。
わたしが立ち上がると、ちらっと眼鏡の下の目を動かした。爬虫類みたいな無感情な目である。
「驚くことはないだろう。いつかこういうことになる可能性があると、分かっていたはずだ」
彼が言うと、場はしいんと静まり返った。
ううう。大林氏のうめき声だけが響いている。
電子機器の立てる微かな音が空気の中に溶けていた。
「この子は、例のマジカルジョークワールドに迷い込んだんだろうな」
なんだって、今になってかよ。
男が言うと、ざわついていたギャラリーの中から、震える声で言い返した奴がいた。
「あの企画が立ち上がったのは、もう十年くらい前じゃないか。企画立案者はもう既に会社にいないし。っていうか、あの企画に連動して作られたテレビ、全部廃棄処分されたんじゃなかったのかよ」
眼鏡の男はキーボードを叩く手を留めなかった。画面を睨みながら、相変わらず無感情な声で言い返している。
「一度流通に乗ったものを、全部廃棄するなんて不可能じゃないかね。小売の側で、なんとか儲けようと思って破格の値段で売ったやつを、買ってしまった貧乏人がいるんだろう」
そこで奴は手を留め、じろっとわたしを見上げたのだった。
「君さ、テレビ買わなかった。マジカルジョーク社の。すごく古い型で、普通なら今はもう使わないような奴なんだけど、未だに部屋に持っていたりする」
尋問口調だ。
できればこいつとは喋りたくない、こいつは危険だと本能が告げている。
口をつぐんで、一歩退いた。そしたら、どすんと小山のような大林氏にぶちあたって、ひえっと飛び上がった。
もう悶絶も終わり、素に戻ったらしい大林健一が、柔和な顔の中で、ぎらぎら厭らしい目つきを三日月形にゆがめ乍ら、ふうんそうかそうか、なるほどそうなんだ、と呟いていた。
でぶった腹のせいで、足が閉じないんだろうな、大股開きで回転椅子にふんぞり返り、二重顎をくびれさせて、上から下までわたしを見分している。
「答えないんだ」
眼鏡野郎は冷たく言い放った。質問に答えない以上、もうわたしには興味をなくしたようだ。つくづく嫌な男である。
代わりにメガネが話しかけたのは、わたしの背後の大林氏だった。
「なあ大林君。今、こうやってこの子がここに落ちてきたと言う事は、あっちの世界では、例のプリンセスがダストボックスに入っているってことなんだろうな」
そう言った時のメガネの目が、狡賢さと厭らしさにぴかーんと光ったのを、わたしは見てしまった。
厭らしい。淡泊な感じのこの男が、生々しい厭らしさを見せた瞬間だった。
「大林君覚えてるだろう、あの企画書の中で、あっちの世界のデフォルトプリンセスの画像があったろ。あれなんていったっけ――レイチェルとかいうアニメのヒロインそのものだったよなあ」
むちん。ぼんきゅっぼん。甘い声。長い金髪。日本人離れした容姿。
レイチェル、と言った時、メガネの表情が、更に欲をむき出しにした。
(このメガネもプリンス同様、レイチェルオタクなのか)
唖然とするわたしである。
「……レイチェルそのものだって話だよなあ。なんというか、二次元が三次元に、この上もなく自然に生まれ変わったみたいな、最高の出来だって聞いたような気がする」
大林健一である。
恐る恐る振り向くと、今にも口から涎をたらさんばかりの顔つきになっていて、ぎょっとした。
レイチェル、うふふふ、レイチェル――膝の上に置かれた丸い脂ギッシュな指が、今にももみもみと動き出しそうだ――一体なにを揉みしだく気なんだ、お前は。
「ダストボックスにプリンセスがいるということは、こっちからもアクセス可能だな」
メガネが呟いた。
一体なにを言っているんだ?
わたしは会話についていけていない。
それにしても、このメガネは一体何者なんだ。名前をきいたら答えてくれるだろうか。考え込みそうになった時、足元がぐにゃっと歪み、唐突に風景がかすみ始めた。
「元のマジカルジョークワールドに戻りまーす」
ビスクのアニメ声がアナウンスを入れやがった。
唐突に現れて、また唐突に消滅しようとするわたし。
開発部の面子は皆、腰を抜かさんばかりである。大林健一と、このメガネ男は例外的に落ち着いているが!
現実世界からマジカルジョークワールドに引き戻される一瞬前、わたしは大林健一がメガネの男にこう言うのを聞いた。
「ってことは、レイチェル似の女をモノにできるってことだよな、そうだろ、麻柄君っ」
麻柄君。
麻柄栄治、通称きしめんか。
大林健一と並ぶ、手ごわい奴。しかも性格が最悪な野郎だ。
つまりわたしは、絶対に関わらない方が良い二人の野郎と、見事に関わってしまったという訳だ。
……。
(ダストボックスにデフォルトプリンセスがいたらアクセスできるって、一体なんのことなんだろう)




