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イザという時は肝が据わる

「馨さん。馨さん?」


 アトラクションに並びながら、楽しく話をしていたと思ったら、急に馨の声が途切れた。

 名前を呼んでも、なぜだかぼんやりとしており、視線は遠くを見ている。

 仕事の疲れが残っているのだろうか? 透子は心配そうに、馨の顔を見上げた。

 海外から帰ってきてからも、馨は打ち合わせや執筆作業で忙しくしていたようだ。

 ゆったりめに計画していたこの旅行だったが、それでも初日にテーマパークというのは、大きな間違いだったかもしれない。


(やっぱり、まずは仕事の疲れを癒すためにも、最初に温泉とかの方が良かったんじゃ……)


 そこまで考えて、透子は慌てて頭を振った。


(いやいやいや! 別に、やましい考えじゃなくて! そうじゃなくて!)


 正直、後半に温泉が計画されて、透子はホッとしたのだ。

 結局、旅行中はホテルを移動することにした。大阪と神戸、そして有馬温泉だ。ホテルも一室でいいよね?と、確認されたから、正直Xデーは今日か明日かと気が気ではないが、それでも温泉よりは気が楽だ。温泉は浴衣姿で街を歩いたり、湯上りすっぴんの姿を晒す機会も多く、なんとも無防備な感じがする。それもあって、馨は最後の日程に組み込んでくれたのだろう。どこまでも気の利く人だ。

 でも疲れた顔をして突然黙り込んでしまった馨を見て、透子は少し後悔していた。


(私も昨日まで仕事だったけど、馨さんの方が忙しかったんだもんね。こっちにばかり気を使わせちゃった……)


 透子の方が7歳も年上だというのに、こうも気を使われては、年上の威厳もなにもあったものではない。思えば、最初から押されっぱなしだ。気が付けば馨のペースで、いつの間にか馨の腕の中に捕らわれていた。


(腕の中って! 腕の中って! そうじゃなくて! そういうのじゃなくて、言葉のあやというか!)


 再びブンブンと頭を振ると、いつの間にか現実世界に戻ってきていた馨が、透子をじっと見つめ、不思議そうに尋ねてきた。


「どうしたの? 透子さん。虫でもいた?」

「う、ううん。なんでもない」

「そう? ねえ……透子さん、俺に――」


 言いかけて、口を噤む。

 なに? と視線で先を促したが、馨は少し目を細めただけで、話題を変えた。


「――列、動いたよ」

「あっ、うん。楽しみですね」

「そうだね。楽しみだね」


 楽しみ――本当に?

 口に出しておきながら、そんな疑問が湧く。それだけ、今日の馨は変だ。どこか表情が虚ろで、そうかと思うとじっと透子を見つめたりする。そんな時、いつもなら目が合うと笑顔を返してくれた馨が、今日に限ってはスッと目を逸らすのだ。

 列を進もうと歩きだした馨の腕に触れると、馨は驚いた顔をして振り向いた。


「――! ど、どうしたの」


 なにをそんなに驚くことがあるのだろう。

 どうしたの?と言いながらも、一瞬で視線を外した馨に、透子は「帰りましょう」と言った。


「え? 帰る……?」


 馨は、なぜだか苦しそうな顔をして問い返した。


「そう。だって馨さん、元気ないですよ。最近あまり休めてないんじゃないですか? ね? ホテル戻って休みましょう」

「ああ……なんだ、ホテルか」


 ホッとしたように息を吐き出すと、馨は静かに首を振った。


「ううん、大丈夫。せっかく来たのに、勿体ないよ。俺は、透子さんとのこの時間を楽しみたいの」

「……そう、ですか? でも、無理しないでくださいね?」

「うん。――透子さんもね」


 ぎゅっといつもより強く手を握られ、透子はドキリと胸を高鳴らせた。

 私は別に無理なんてしてないけど――口には出さず、透子は笑顔で頷く。馨の様子が気になるが、旅先ということもあり、いつもと違って見えるものなのかもしれない。


 だが、閉演間近まで様々なアトラクションに乗り、ショーも見たものの、結局馨は終始ぼんやりとしていた。

 片手にテーマパークの派手なショッピングバッグを持ち、片手では透子の手を握って、馨は黙ったまま歩いていた。

 馨は気づいていないようだったが、その足取りはいつもより速い。透子は少し急ぎ足で、馨の隣を歩いていた。


(どうしたんだろう……。やっぱり、今日は変だ)


 大阪の街は夜も賑やかで、たくさんの人が通りを歩いている。馨はその中を縫うように歩く。透子はそんな馨についていくのがやっとだった。

 ホテルに着いてからも、馨の口数は少ない。カードキーを受け取ると、視線は透子に向けられることなく、エレベーターへと急ぐ。

 透子の背中を、冷たい汗が流れた。


(こここここれは……! 今夜って、ことですか!?)


 頭の中は大パニックだ。そうこうしているうちに、無情にもエレベーターはフロアにふたりを送り届け、カードキーもすんなりとドアを開錠した。


「きょ、今日は、たくさん歩きましたね。疲れてないですか?」


(この期に及んでなにを後ろ向きな……!)


 そう自分で思いつつも、どうしても積極的にはなれない。

 怖いのだ。

 馨は、そんな透子の胸の内さえも分かっているようだった。


「先にお風呂使っていいかな」

「お、お風呂!? え、ええ。勿論。うん、どうぞ!」


 お風呂という言葉に飛び上がらんばかりに驚いた透子だったが、今このタイミングでひとりになれるのは有難い。それに、女性には色々と準備があるのだ。

 引きつった笑顔で馨を送り出すと、透子は大急ぎでキャリーバッグに向き合った。

 一週間の日程とはいえ、さすがに荷物が多すぎる。だが、アレコレ考えてしまって、色々持っていこうと思ったらキャリーバッグになってしまったのだ。これを店で買う時は、店員に海外旅行だと勘違いされてしまった。片や馨の荷物は少ないものだ。こんな時、男性はいいなと思ってしまう。化粧品や、スキンケア用品などはかさばるのだ。


(それにしても、パジャマはいらなかったかな……)


 こんな時、お風呂の後はどうしたらいいのか、透子にはわからない。

 昨日、悩みながら荷造りしていたら、気が付いたら深夜になっていたのだ。パジャマについての意見を聞こうにも、明日香も里奈も寝ている時間だった。結局、持ってきてしまったのだが、初めての彼氏との旅行でパジャマというのはどうなのだろう。しかも、デザインがAラインの膝丈のものに、同じ生地のズボンがついたものだ。つまり、着る時は頭からかぶるタイプである。ということは、脱ぐ時もそうなる。もしこれが無難な前ボタンタイプだったら、色々とコトは簡単だったのではないか――そんな考えが頭をよぎり、恥ずかしさに突っ伏した。


(嫌だ! 私、なんで脱ぐ前提でパジャマのデザインまで悩まなきゃいけないのよ!)


「どうしたの? 透子さん」

「えっ!? あ、ううん! なんでも……」


 なんでもない、と言いながら振り返ると、そこには濡れた髪が額にはりつき、妙な色香をまとったバスローブ姿の馨が立っていた。


「ば、バスローブ……」

「うん、ここに用意されているよ」

「そ、そうなんだ」


 動揺に気づかれないよう、後ろ手でパジャマをキャリーバッグの奥へと押し込む。

 馨は冷蔵庫を開けると、ミネラルウォーターを取り出し、喉に流し込んだ。


「バラのオイルがあったから、お風呂に入れたんだけど……透子さん、平気だった?」

「う、うん。バラは好き、です。じゃあ……わ、私もお風呂いただきます、ね」


 透子は化粧品の入ったポーチと、下着をいれた巾着袋をひっつかむと、足早にバスルームへと向かった。



 * * *



 バラのオイルは、控えめな品の良い香りだった。

 肌がしっとりとし、軽く拭いてからも、火照った身体からはほんのりとバラの香りが漂う。

 全身をくまなく洗い、ムダ毛のチェックをすると、透子はようやくポーチを開けた。

 先日、馨が馬油やカタツムリの化粧品は止めてほしいと言ったので、椿のシリーズで揃えてみた。香りはグリーンティーシリーズの方が爽やかで好きだったのだが、いかんせん透子はもう35歳だ。爽やかサッパリよりも、しっとり潤う方を選んでしまうのである。

 ボディクリームも指先までしっかりと塗りこみ、下着をつけようと巾着袋を開けた透子は、ショックのあまり袋を落としてしまった。


(な、なんでここに、ベージュの地味ブラとパンツが入ってるの!?)


 下着は、馨の目に触れないようにと、1セットずつ小さな巾着袋に入れていた。スケスケパンツとはいかないが、厳選した上下お揃いの品の良いレースの下着を入れたはずなのだ。それが一体どういうことなのか、手元にあるのは、ここ何年も愛用していた、無害で不愛想、安心安全で地味なベージュ下着だ。


(え……、だって……昨日、荷造りした時、この下着とはお別れだな~って……)


 だな~って思って、その後どうした? そう。捨てようと思って、袋に入れたのだ。ゴミ袋に――。


「間違えたっ!!」


 なんてことだ。入れる袋を間違えた。項垂れる透子に、叫び声を聞きつけた馨が声をかける。


「大丈夫? 透子さん、なにかあったの?」


 なにかあったもなにも、大ありだ。

 失敗してはならないこんな大事な時に、よりによって地味パンツを持ってきてしまうなんて――!


「のぼせてない? 本当に大丈夫?」

「う、うん。大丈夫……た、たぶん」


 仕方ない。ここはもう、なんとか誤魔化すしかない。透子はホテルのバスローブを着ると、しっかりと結び、バスルームから出た。


 馨の決めたホテルは、所謂高級ホテルで、ベッドのサイズもセミダブルがふたつ並んだゆったりとした部屋だった。

 もしもバスローブを脱いだ馨が、ベッドに入って待っていたらどうしよう……。そんなことを考えてビクビクしていた透子だったが、予想に反して、馨はバスローブのままベッドの端に座っていた。


「大丈夫? 叫び声が聞こえたけど」

「う、うん。大丈夫です」

「そう……」


 透子が答えると、馨はすぐに視線を逸らしてしまった。

 やはり馨は疲れているのだろうか。

 心配した透子が「馨さんこそ、大丈夫ですか?」と声をかけると、まるでなにかを決意したように、顔をあげた。そして、なにを思ったのか、ベッドにあがりそこに正座したのだ。


「透子さん」


 急に声色が変わり、真剣な顔をで名前を呼ばれた透子は、思わず背筋を伸ばした。


「は、はい!」

「座って。大事な話があるんだ」

「は、はい……」


 透子もまた、おずおずとベッドに上がると、馨の前に正座する。

 後から思い返せば、なにも同じベッドに正座することはなかったのだが、この時の馨はすぐ目の前に座らなければいけないような、そんな空気をだしていた。


「透子さん、俺に、なにか言うことはない?」

「え? ……言うこと、ですか」


 強いていえば、パンツを間違えたので荷物を漁らせて欲しいが、そんなこと言える雰囲気ではないし、さすがの透子にもまだ恥じらいはある。その他には特に思い当たることもなく、首を傾げると、馨は静かに問いかけた。


「透子さん、……昔、好きだった人に、再会したよね」

「え? 馨さん、どうして知っているの?」

「一緒にいるのを……たまたま、見かけて……」

「そうなの。昨日、訪ねてきてくれて――」

「透子さん、笑ってた」


 透子の言葉を遮るように放たれた言葉は、いつもより鋭く、咎めるような響きがあった。


「あんな笑顔……俺は、見たことがない」


 違う。それは違う。あれは郷愁ともいえる感情だった。亮二を見て思ったのは、ただ純粋に幼馴染に対する懐かしさだったのだ。それなりに年齢が刻まれた顔に、「あの時はお互い若かったね」そう笑えたのだ。それは同時に、透子の心の中に巣食っていた恋愛へのトラウマが、綺麗さっぱり無くなったということでもあった。それは勿論、馨のおかげだ。それなのに、当の馨は苦しげに顔を歪めている。


「俺は、やっぱり透子さんの一番にはなれないの?」


 透子は頭を強く殴られた気がした。

 馨の目は力がない。そうさせているのは自分だと知り、ショックだった。


(バカだ……。私は大ばか者だ)


 傷つくのは嫌だと、自分のことばかり守ろうとしていた。

 馨のように素敵な人が、自分に気があるはずがないなんて、なかなか信じようとしなかった。

 そのままでいいと言ってくれていたのに、自分に自信が持てなかった。

 自分が築いてきた日常を壊すことが、怖かった。

 全ては、自分本位な考えだった。

 35年生きてきて、自分を好いてくれる人ひとりすら、受け止められていない。

 馨はどうだろう?

 積極的に、透子を知ろうとしてくれた。

 透子の日常に、自分の居場所を作ろうとしてくれた。

 透子をまるごと、受け止めてくれた。


 それなのに、透子は馨を笑顔にすることすらできていない。


(バカだ。私が本当に大切にしたいのは、馨さんなのに!)


「透子さんが、もしも彼を忘れられないって言うなら、俺は――」


 絞り出すような声に、透子はたまらず馨を抱きしめた。


「と、透子さん?」

「私、わたし本当に馨さんが好きです。過去の辛い恋が、カサブタのように乾いて取れちゃう位、馨さんが、好きです」


 透子の決死の告白に、馨が肩を震わせる。


「――本当に?」


 くぐもった声が鎖骨のあたりから聞こえる。それがどうにもくすぐったくて、でも愛おしさが勝って、透子は何度も頷きながら、抱きしめた腕に力をこめた。


「本当、です。確かに、亮ちゃんとお見合いの話があったのは本当です。でもそれは、海外の仕事が一段落して帰国したタイミングで、向こうのお母さんが亮ちゃんに日本に留まって欲しい一心で、幼馴染の私に話を持ってきただけです。でも亮ちゃんは、また海外で仕事を決めて……それで、向こうに発つ前に、私を巻き込んだこと、謝りに来ただけです」


 馨がフーっと長い息を吐く。そして、ゆっくりと透子の腰に手を回した。


「不安、だったよ」

「――ごめんなさい。不安にさせて」

「本当に本当に、俺が好き?」

「……はい。本当です」


 そう答えた透子は、腰に違和感を感じ、身体を起こそうとした。だが、急に力が入った馨の片腕にガッチリとホールドされてしまい、それはかなわない。


「あ、あの……か、馨さん? 手、手!」

「ん?」


 いつの間にか馨の片手が、バスローブの中に入り込んでいるではないか。

 ゆっくりと、静かに脇腹から背中へと移動する。


「透子さん……下着、つけてない」

「そ、それは……その……!」


 悩んだ結果、地味下着をつけずにバスローブだけを着たのだ。まさかこのような展開になるとは思っていなかったから、タイミングを見て別の巾着袋を持ってバスルームに戻ろうかと思っていたのだ。それが裏目に出た今、馨は素肌の感触を確認するように、背中を撫でまわす。


「透子さんの勝負下着、楽しみにしてたのにな」

「あの、それは違うっていうか、その……!」

「ま、いいや。俺が本当に欲しいのは、透子さん自身だし。正直、下着なんてどうでもいいんだ」

「きゃっ……! ちょ、ちょっと、馨さん……っ」


 透子を抱きしめていた手が動いたと思ったら、ぐっとバスローブを下げられてしまった。

 かろうじて肩に引っかかり、むき出しになった鎖骨に、馨が吸い付く。チリッとかすかな痛みの後、馨の柔らかな唇が、そこを慈しむように優しくついばむ。


「か、馨さん……! 立ち直るの、早くないですか!?」

「ん? 刺激したのは、透子さん、でしょ」


 言葉の合間合間に唇が落とされ、熱い吐息が素肌を撫でた。

 まだ濡れている馨の髪が、透子の火照った肌には冷たい。透子は思わず馨の髪を掴んだ。すると、馨がやっと顔を上げ、熱情にけぶる瞳で透子を見上げた。


「透子さんから、キスしてよ」

「えっ……」

「透子さんから、俺にキスして。言葉だけじゃなくて、今の気持ちを俺に示してよ」


 透子は一瞬瞳を泳がせたが、顔を近づけると、そっと唇を重ねる。

 それを合図に、馨は透子のバスローブを一気に引き下ろした。





 

 

 


 

 


 

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