年と共に減る勢い。年と共に増える余計な知識。
出発を翌々日に控え、透子は落ち着きがなくなり、上の空でいることが多くなった。
(ど、どうしよう! どうしよう!)
考えたところで、もう飛び込んでみるしかないのだが、ついつい考えてしまうのだ。
高校生の頃は、こうじゃなかったのになぁ……と、昔を懐かしく思う。
高校時代の恋を、懐かしく感じるようになるとは思っていなかった。
恋の痛みは恋が癒すと言うが、そんなものは綺麗ごとで、実際は棘のように胸に刺さったままだと思っていた。
あの頃は、一生懸命で、そして無鉄砲だった。
(身体を許したら、亮ちゃんを繋ぎとめておけるだなんて、よくも思えたものだわ)
仕事帰り、アパートへの道のりを歩きながら、苦笑する。
若気の至りという言葉があるが、あの頃の透子は、まさにその言葉がピッタリだった。
若さゆえの情熱、若さゆえの思い込み、若さゆえの勢い――。苦い想いがなくなったわけではないが、今振り返ると、あの当時の自分が少し羨ましい。
好きという気持ちに正直で、身体ごとぶつかっていけた。拒否されるかもしれないとか、親にバレるかもしれないとか、そんなことまで頭が回らなかった。そして勿論、今の透子の頭の中の大半を占める、下着のチョイスやムダ毛の処理、“恋人”としての振る舞い方なんてものも、あの当時は考えたことがなかった。
あの頃は、もっと色々なことが簡単で、単純だった。
好きだから、求めた。あの時、自分がどんな下着だったかなんて、正直覚えていない。女子高生のエチケットとして、脇や手足は事故処理していたけれど、Vラインなんてほったらかしだった。それでも、亮二がどう思うかなんて、考えたこともなかった。
今思うと、本当に無鉄砲だったと思う。
あの時は、離れたくないという感情が先走って、圧倒的に知識が足りなかった。
実際、そういうコトになった時、驚くような展開が待ち構えていたわけだが、それでも亮二と肌を合わせることに躊躇はなかった。
だが、今はどうだろう。
今は――余計な知識だけが増え、頭の中はパンパンだ。
そしてその知識は、18年間恋愛から目を逸らし続けた透子を、絶望させるに充分なものだった。
レース多めの上下お揃いの下着に、綺麗に整えられたVゾーン、自分の肌質を知り抜いたスキンケアに、抑え目なデキる女ネイル。決してよろめかないハイヒールの足取りに、ナチュラルに見せたしっかりメイク。勿論、白髪なんて1本も存在しない。
それが、デキる大人の女なのだ。
しかも、恐ろしいことに、以上の項目を世の妙齢の女性は複数項目クリアしているというのだ。無意識で。
無意識だ。
これが透子には衝撃だった。
そういえば、里奈は全て当てはまる気がする。明日香も、パッと思いつくだけでも半分はクリアだ。それを、意識的ではなく、無意識でできてしまっているのだ。この差は一体なんなのだ。
(いや、でも……馨さんは、無理しないでって言ってたし)
なんとかそう自分に言い聞かせ、帰宅すると、真っ先に化粧を落とした。
手さぐりでタオルを取ると、こすらないように気を付けながら、柔らかなタオルを顔に押し付ける。
ふぅ、と自然と出たため息と共に、鏡に映るスッピンの自分を見る。
得意ではない化粧だが、それでも透子にとってはオンとオフを切り替えるスイッチだ。化粧を落とすと、それだけで肩から力が抜け、リラックスできる。
化粧水を手に、手早くつけると、ふと手が止まった。
クレンジングも、化粧水も、ドラッグストアやスーパーで買えるものだ。狭いユニットバスに並ぶシャンプーも、コンディショナーも。トリートメントなんてものは、持っていない。
立ち直りかけた気持ちが、すぐにしぼんでいく。
(やだなぁ。すぐ気持ちがそっちに向いちゃう)
透子は、自分が同じ場所をぐるぐると回っているような気がした。
なにか気分転換になるものが欲しい。
買ったまま、まだ読んでいない本もある。読書でもしようかと、テレビの前の小さなソファに座った時、馨が脚本を担当した話題の恋愛ドラマのSPを録画していたことに気が付いた。
(ドラマ自体は見ていないんだけど、内容ってついていけるものかしら……)
気づいてしまった以上、やはり気になる。
透子は、読書をやめてドラマを見ることにした。SPドラマは2時間放送だったが、CMをスキップしたら1時間半ほどで見れるだろう。
透子は、リモコンを手にすると、録画リストを表示させた。
馨の脚本が上手なのか、初見の割には、世界観にすんなりと入っていくことができた。
地方出身の頑張り屋の素朴な女の子が、大学進学後に大企業の御曹司と運命の恋に落ちる、という話だ。
ドラマでは家が決めた婚約者だの、一足先に上京していたヒロインの幼馴染だのが出て来て、四角関係が構成されていたようだ。ヒロインの母の急病で、一時離れ離れになるなど紆余曲折があって、ふたりは結ばれる。そしてこのSPドラマでは、晴れて恋人同士になったふたりは、新たな局面を迎える。一家の王女様のような存在の、ヒーローの姉の結婚式に、ヒロインも招かれたのだ。場所は海外の古城。周りはセレブだらけ。庶民はヒロインひとりである。そこでもヒロインは、彼の姉に認めてもらえるように、とびきりのイイ女になると決意し、前向きに突き進むのだ。
所謂、庶民派ヒロインの下剋上だ。
一生懸命な彼女を常に見下し、なかなか認めようとしないプライドの高い彼の姉に、なんとかヒロインを認めて欲しい。これが明日香の言う、共感というものだろうか。透子もまた、ついついこの頑張り屋のヒロインに気持ちが入ってしまっていた。
主人公のふたりの立ち位置といい、少しだけ透子と重なるところがあったから、というのも大きいかもしれない。だが、そんな風に熱中して見ていると、中盤である違和感が透子を襲った。
* * *
「え~。SPドラマ、今頃見たの?」
明日香は驚いて聞き返した。
放送されたのは、少し前の話だ。その時には既に、馨と透子は付き合っていたから、当然チェックしているものだと思っていた。
翌日、中番の仕事が終わり、明日香と一緒にご飯を食べていた透子は、ドラマで感じた違和感を口にした。
「まぁ、いいや。旅行前にちゃんと見たっていうのは、努力は認める。馨さんの世界を覗くってことだものね。で、違和感ってなに? 私は特になにも感じなかったけど」
別に明日香に認めてもらわなくても構わないのだが――なぜか、明日香は恋愛の話になると、透子に対して強気だ。
「まず、都会の街にも不慣れだったはずの、地方出身庶民派ヒロインなのに、既にパスポートを持っていたでしょ。これって……普通のこと?」
「えー。そこ? ……どうだろ。言われてみれば……私も状況してからだわね」
「そうよね!?」
ちなみに、透子はまだ日本から出たことはない。パスポートを作るために、なにが必要なのかも知らない。大体、地方出身者にとっては、国際空港自体ハードルが高い。まずは国際空港がある都市まで、飛行機や新幹線で出向かなければならないのだ。都会人が地元から国際便に乗るのとは、わけが違う。国際便に乗るため前泊になるもあり、日程も前後1日は多めに必要だし、交通費も国内移動を入れるとバカらしい値段になる。一度だけ、海外旅行を夢見て調べたことがあるから、それは知っていた。
「まぁね……。私は北海道だから。海外旅行って、同時に国内旅行もプラスされるような大事件よね。東京来て便利だな~って思ったわよ。仕事帰りに羽田からピュンって飛べるもんね。飛行機の中で寝たらいい話だし。で……まだあるの?」
「第2の違和感は、ドレス選びに臆した様子がなかったってこと。いきなり、高級店連れて行かれた上に、奥の個室に案内されたら、興奮の前に恐縮じゃない?」
「――夢がないわね」
「うるさい」
透子のあまりに現実的な指摘に、明日香が顔を顰める。
世の女性たちは、明日香の言う通り、それが夢なのだろうか? 透子には分からなかった。
豪華な古城結婚式に出席するとあって、彼がヒロインにドレスをプレゼントしようとしたのだ。最初は断ろうとしていたのだが、お店に連れて行かれ、ドレスを見ると表情が明るくなり、言われるがままにあれもこれもと試着する。
ドレスは確かに華やかで繊細で、特別鐶がある。それ位は透子だって感じる。だが、嬉々として着せ替え人形になるのは解せない。出来れば、自分の手の届く値段のもので、自分に似合いそうなものを買いたい。
「そんなこと言ってちゃ、買えるのなんてせいぜいワンピースよ。それでも私たちの給料ひと月分飛んでいくわ。それは、夢もなければ可愛げもないってこと」
「可愛げ……」
「そうよ。相手に合わせることだって大事じゃん。ドラマでは“古城結婚式に参列するにふさわしいドレス”よ。特に、相手のお姉さんに認めてもらわなきゃいけないわけだから。彼氏も気合入るでしょ」
結果、ヒロインは式の後のパーティーで、裾を椅子で踏んづけてひっくり返り、ドレスを破るという大失態を犯す。だが、確かにその場面ではあのドレスでなければ印象的ではなかっただろう。
「つまり、あれは重要アイテムだったの。で、他には?」
「第3の違和感は、エステよ。さすがにゴールデンの地上波だから、肩から下は隠れたけど、その台詞からしてヒロインはエステ定番の紙パンツよ。それなのに、ゆったりと施術台に寝転がり、エステティシャンに身を委ねたのよ。「よろしくお願いします」って」
「……普通じゃない? お願いしますって言わない?」
「言う。言うけど、何度履いても慣れないわ。紙パンツ。しかも、毎回オドオドしてるし。よろしくもなにも、口をついて出てくる言葉は「すみません」よ! なんだか申し訳なくて! 自分でもあまり見たくない場所を人様に明るい部屋の中で晒すのって、そんなに余裕ぶっこいて「よろしく」できる!?」
大体、人前で肌を晒すことに慣れていない。その上、素肌を人に手入れしてもらうなんて、恐縮以外の何物でもない。
あの体勢は、思い出すだけで恥ずかしい。
赤くなったり青くなったり、顔色を忙しく帰る透子に、明日香は大きくため息をついた。
「ねぇ。それが馨さんの書く“普通のOL”よ? 透子、そのギャップを飛び越えて行ける?」
そうなのだ。
結局は、ふたりの価値観の違いを突き付けられたようで、その違和感が一晩経っても引っかかっていたのだ。
「ギャップ……そうよね」
「馨さん見てたら、どんな透子でもいいって言うはずよ。でも、透子がこうも怖気づいてちゃ、ふたりともしんどいわよ」
「……そうよね」
「旅行、明日からでしょ。楽しんできてね。お土産期待してるから」
大きな課題を押し付けておきながら、楽しめとはよく言う。だが、それも明日香の優しさなのだろう。違和感の正体に気が付かないまま、旅行に行っていたら、きっと苦しかったと思う。求められていないのに、勝手に彼女像を作ってそこに近づこうとして、無理をしただろう。
「なるようにしか、ならないって。透子は考えすぎ」
仕方ないではないか。
年を取ると、もっと理性的で落ち着いて、色々なことに余裕を持てるのだと思っていた。
けれども、実際は若さゆえの勢いを失い、頭でっかちになった女だった。
トボトボとアパートに向かって歩いていると、懐かしい声に呼び止められた。
「とぉこ」
独特の呼び方にハッとして声のした方を向くと、そこにいたのは、透子がかつて全てを投げ出した人物だった。
「亮ちゃん……」
日焼けした顔には、ほどよく年齢が刻まれている。懐かしそうに細めた目尻には、皺が寄っていた。
パーカーにカーゴパンツというシンプルな出で立ちで現れた幼馴染に、透子もまた笑顔になった。
「久しぶり……! 帰ってきたんだってね」
笑顔を見せる透子に対して、亮二は少し困ったように眉尻を下げた。
「――おう。帰ってきた。日本に来たら、無性にとぉこに会いたくなってな」
「え~と……うち、そこだけど、来る? 立ち話もなんだし」
「そうすっかな」
長く会っていなかったことなど嘘のように、透子と亮二の空気は昔に戻っていた。
地元の話や学校の話題、アパートに戻る間も、ふたりの話題は尽きない。
並んで歩きながら、時折互いの顔を見る。
その様子を見る人がいたら、恋人同士に見えただろう。
実際、そう見えた。
近くに車を停めていた、馨の目には。




