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恋愛における、勝負下着の意味

 『リア充爆発しろ』って言葉がある。

 現実世界での生活が、公私ともに充実しており、ネット世界や漫画などの二次元の力を借りるまでもなく、幸せオーラをまき散らしている人々だ。

 爆発しろ、とまでは思わないながらも、透子だって苦々しく思う側の人間だった。

 透子自身、仕事でも恋愛でも後れをとってきた人生だったからだ。

 仕事も、本当は出版社で働きたかった。

 小さな頃から本が好きだった透子は、いつかそれを作る側になりたいと思っていたのだ。

 だが、現実はそううまくはいかない。

 経済的な事情から、私立の短大を出た透子は、出版社の書類選考すら通ることができなかった。

 結果、学生時代からアルバイトをしていたこの書店で、社員となった。

 大好きな本に囲まれた仕事だったから、居心地はよかった。でも妥協して、私にはこっちの方がお似合いだよ、なんて自虐的な言葉で、くやしさを押し隠していた。

 恋愛もまた然り。

 高校時代に全てを捧げた恋をしたが、残ったものは深い深い心の傷だった。

 私には、恋とか愛なんて贅沢なんだよ。そう自分に言い聞かせて、二度と傷つかないように心を守ろうとした。


(でも……)


 いつからだろう。

 店にやって来る、出版社の担当営業を見るたびに、羨ましく思うようになったのは。

 いつからだろう。

 仲睦まじいカップルを見るたびに、好きな人に好かれる奇跡がまぶしく見えるようになったのは。

 自分には、なにが足りないのだろう。

 過去に戻ることができたなら、違う未来に進めたのだろうか。

 仕事にも慣れ、生活もそこそこ安定し、なんでも話せる友人もできた。

 街にも人込みにも慣れたし、それなりに都会生活を楽しんでいる。それでもやっぱり、自分は落伍者なんだという意識がぬぐえなかった。


「いらっしゃいませ」


 笑顔を貼りつけた透子の目の前に、若い男が立った。

 手を差し出すも、男はカウンターにバサッと乱暴に雑誌を置く。

 商品になんてことを……! と思ったが、顔には出さずにバーコードを読ませた。

 そこに、若い女性が駆け込んでくる。


「あっ。まーくん。これもぉ」


 手にしていたのは、人気のラノベだ。アニメ化も決まり、関連雑誌でも表紙を飾るようになっていた。

 商品を受け取り、バーコードを読ませる。


「こちら、カバーはおかけしますか?」


 そう尋ねると、「いらね」と、なぜか男が応えた。


(あなたに聞いてないし!)


 心の中でツッコミを入れながらも、言われた通り、カバーをかけずに袋に入れる。


「3点で、2,345円でございます」

「……あ~、ミサ。払っといて」

「えっ。あ、まーくん」


 男はさっさとその場を立ち去り、戸惑った彼女だけが取り残された。

 こういう場合は、なにも言わない方がいい。彼女をじっと見守っていると、渋々財布からクレジットカードを取り出した。

 結局、ラノベよりも高い2冊の雑誌も、彼女が払って行った。


「や~な男」


 隣で明日香がボソリと呟く。


「あぁいう男っているよね。偉そうな態度で乱暴に商品置いたかと思えば、彼女のことでも偉そうに口出しして、それなのに、支払いは彼女。女を支配したがるヒモ系男。それでも付き合うかね~?」


 支払いの時は困っていたような彼女だったが、今はもう笑顔で手を繋ぎ、店を出るところだった。

 レジカウンターから出口までの距離で、一体あの男は彼女にどんな魔法をかけたのだろう。


「ま、結局それを許してる女も女なんだけどさ」


 小さく肩を竦めると、明日香は「休憩行ってくるね」とカウンターを出て行った。


 透子も正直、あのような男性には嫌悪感を覚える。

 だが、今は少し違うことも感じるようになった。


(それでも彼は、恋愛という超絶ハードルが高いミッションをこなしてる……!)


 それだけでももう、透子にとっては、尊敬に値するのだ。


 馨の姿を見ただけで、心臓がバクバクする。

 手を繋ぐタイミングがわからない。――離すタイミングも。

 見つめられても、同じように返せない。

 デートや食事にどう誘ったらいいか、わからない。そもそも、適したファッションがわからない。

 上下お揃いの下着を着けた日は、なにもなくてもソワソワする。下着を新調したことが馨にバレたら、下心を疑われそうでハラハラする。

 もっと一緒にいたいのに、どう伝えたらいいかわからない。

 一緒にいる時間が、とても早く感じるのは、自分だけのような気がして怖い。


 右を向いても左を向いても、前に進もうにも、透子には試練が襲ってくる。

 楽なのは、くるりと後ろを向いて、前いた場所に戻ることだ。あの場所は、きっとまだ透子を優しく温かく迎えてくれるに違いない。

 ただ、違うことがあるとしたら、たったひとつ。その場所には馨がいないということだ。それは、辛い。考えただけで、胸が締め付けられそうになる。だから、透子は後ずさりはできないのだ。


 恋愛って……本当に難しい……。


 いままで避けてきたのだから、そのブランクも相まって、もはや別次元の世界に飛び込んでしまったかのようだ。

 皆、これをちゃんとこなしているのだ。

 里奈も、明日香も、そして馨も。

 自分だけがうまくできていないような気がして、透子は大きくため息をついた。

 リア充爆発しろ、なんて今はもう思わない。彼らは戦士だ。勇敢で、優秀な、戦士だ。常に襲って来る無理難題に果敢に飛び込み、そして瞬く間に制圧してみせる。今の透子にとっては、尊敬すべき存在なのだ。


(そのスキルを……少し分けて欲しい……!)


 さっきの尊大な男は、一体どんな魔法で彼女を笑顔にしたのだろう。

 あんな態度で、しかもお金払わせて、それでも笑顔に変えることができるって、とんだスペシャリストだ。




 * * *




 仕事が終わり、明日香と共にいつものカフェに向かう。こんな時は、話を聞いてくれる明日香の存在がありがたい。


「来週、いよいよ旅行なんでしょ? どこに行くことにしたの?」

「えっと、神戸に」

「へぇ~。いいじゃない」

「うん……。正直、どんなところがいいか分からなくて、温泉もテーマパークも世界遺産も行ける距離にあるから、困らないかなって」

「――どんな決め方よ……。それより、ちゃんとアッチも覚悟できてんでしょうね?」

「アッチって……あ!」


 カフェに着いたところで、店から出てきたのは馨だった。一瞬で胸がトクンと大きく鳴る。急に息苦しさを感じ、それなのに顔が笑ってしまう。

 向こうも透子に気づいたようで、笑顔を見せた。


「あ~あ……一気に空気がピンク色になった……」


 やれやれ、と小さく肩をすくめると、目の前にやって来た馨に向かってペコリと頭を下げる。そんな明日香に馨も「こんばんは」と挨拶を返したが、すぐに視線は透子に戻った。


(へーへー。私はオマケですからね~)


 その時、明日香のイタズラ心がムクムクと姿を現した。さっきの透子の様子だと、そこまで考えがまだ及んでいない気がした。これは、手助けという名のお節介が必要なのではないだろうか。そう自分に言い訳して、明日香は馨に声をかけた。


「馨さん、いよいよ来週ですね」

「え? ああ、うん。透子さん、ちょっと独占しちゃうけど、ごめんね」

「仕事のことなら、大丈夫ですよ。この子、ずっと有給取ってなかったから。それに――透子、勝負下着買ったみたいなんで、どうぞお手柔らかにお願いしますね」

「え?」

「え?」


 明日香の言葉に、馨も透子も同じようにポカンと口を開ける。だが、その次の表情は正反対だった。

 馨は照れくさそうな笑顔がこぼれたのに対して、透子は困ったように眉を下げた。


(あれ? なんだか、透子の様子がおかしい……)


 もっと怒ると思ったのに……明日香は意外に思った。

 顔を赤くして怒って、でも最終的には、馨との仲を深めることに向き合う、いい機会になると思ったのだが……。


「透子さん、本当?」

「えっ……。ええと……ハイ。それはやっぱり……用意しなくちゃって……」


(やだ。透子ったら意外と大胆! やっぱり恋は女を変えるのね)


 明日香が感心していると、馨は嬉しそうに笑顔を弾けさせ、勢いあまって透子を抱きしめた。

 「外でこんなことするなんて!」と、透子に文句を言われていたが、馨の表情は幸せそのものだった。明日香も、いいところで、いいパスを送ったんじゃないかと、自画自賛していた。思ったよりも、透子はちゃんと向き合っていたのだ。自分は恋愛に縁がない、そう決めつけていた透子だったから、心配していたのだが、これで安心だ。


「それにしても、透子ったら意外と大胆ね」

「え? だ、抱き付いたのは私じゃないし!」


 旅行までに仕事を片付けなきゃ!と、やけに機嫌よく言う馨と別れた後、ふたりはカフェでディナープレートを前に、向き合って座っていた。

 透子はまだ顔が火照っているようで、手であおいでいる。


「そうじゃなくて……。勝負下着の件。冗談のつもりだったんだけど、すんなり認めちゃってさ。しかも馨さんの前で」

「それは……。だって、やっぱり初めての旅行だし、気合を入れなきゃと思って」

「うん。――気合?」

「そう。だって、勝負下着って、気合を入れたい時に着けるんでしょう?」


 気合……。気合……?

 そういう言い方もあるのだろうか。その言葉を使うと、一気に色っぽさが薄れてしまうのだが……。明日香は首を傾げた。


「気合って……例えば?」

「前に、明日香言ってたじゃない。ちょっといいレストランなんかに行く時は、服だけじゃなくて下着もいいもの着けるって。外からは見えなくても、中も綺麗でいたいって時があるって」

「――あ~……うん。そういう、意味もあるかも……ね」

「え? だって、他の意味もあるの?」


 ふたりの間で、一瞬、会話が止んだ。


「……マジか」

「な、なに!? なにが!? 明日香の顔怖いんだけど!?」


 明日香は心の中から反省した。

 以前、確かに透子から下着についての相談を受けていた。だから、当然この手の話もしたと思っていた。


「あ~……。ごめんね、透子。私、さっき余計なこと言っちゃったかも」

「下着のこと? そりゃあ、ビックリしたよ! あんな軽く出る話題じゃないから」

「じゃなくて……」

「……なに?」


 明日香が伝票を取り、「ここはおごらせて頂きます」と言った時、透子は眉を顰めた。

 明日香の口調といい、なにやら嫌な予感がする。


「え~と……、勝負下着って、確かにそういう意味も、あるよね。ホラ、アスリートだと大事な試合の日にはこの下着、みたいなさ」

「う、うん……」

「でも、恋愛に於いての勝負下着っていうのは、実は『あなたの誘いを期待してる』って意味もあるんだよね」

「は? え? 今、何て?」

「だから……馨さんは、透子が一線を越える覚悟ができたって……思ったと思う……。ゴメン。まさか、透子がその言葉を勘違いしてるとは思わなくて……ええと……」


 明日香の言葉が透子の中にじわじわと染み込み、ようやく理解できた時には、顔から火が噴き出しそうだった。

 では、透子は馨に心だけでなく、身体も馨の物になるという宣言をしたことに、なるというのだろうか。

 透子自身、まだなんの覚悟もできていないのに?

 そして、馨のあの笑顔。

 馨はそれを、喜んでいる――!?

 透子の中で、なにかがパーンと弾けた。


「い、イヤァァァァァァァァァァァァァ!」


 広い倉庫カフェの中、透子の絶叫が響き渡った。

 

 


 


 


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