さいしょに触れる場所
「ねえ。おつりもらってないと思うんだけど……」
「えっ? も、申し訳ございません!」
慌ててレジから小銭を出すと、それは勢いよく手を飛び出し、床に落ちてしまった。
「申し訳ございません。250円のお返しです。ありがとうございました」
頭を上げると、明日香が落とした小銭を拾ってくれていた。
「大丈夫?」と心配そうに声をかけるが、目が好奇心に輝いているのは気のせいだろうか。透子は頷くと小銭を受け取った。
「ありがと。ちょっとぼーっとしちゃって」
「みたいね。十中八九、馨さんのことだと思うんだけど?」
「な、なんでよ」
透子の目はせわしく泳ぐ。
ポーカーフェイスが下手なんだから……。それでもここまで仕事に支障をきたしたことはない。まったく、馨は一体透子に何をしたのやら……。今日はとことん聞かなくちゃ。明日香はふふっと笑うと「追及は後にするわ。じゃあ、休憩入るから」と言い事務所に向かった。
呼び止められたのは、事務所に入る直前だった。
「すみません。ちょっといいですか」
「はい?」
問い合わせの客かと思い、笑顔を貼りつけて振り向くと、そこにいたのは意外な人物だった。
* * *
「で? 何があったのよ。馨さんてば、透子に一体何したわけ?」
「……な、なんで馨さんと何かあったって決めつけるのよ」
早く帰りたがっていた透子だったが、店を出たところで明日香に捕まり、無理矢理くまのカフェに連れてこられたことを怒っていた。追及されたくないからさっさと帰ろうとしたのに、明日香はそう甘くはなかったということだ。だからといって、簡単に認めるのも癪に障る。だが、明日香は透子のささやかな抵抗を鼻で笑った。
「なんでって、透子わかりやす過ぎよ。このカフェ、透子いつも座る席決めてるじゃない。そこが空いてるのに、ここに座ったのはどうして?」
「……え、空いてた? ごめん見てなかったわ」
「しらじらしい。店に入ってすぐに確認してたくせに。いつも座る席も。その隣も」
見てたのか。
明日香の観察力はまったく侮れない。
明日香に、どこかで話そうと言われ、本当はこのくまのカフェは避けたかった。
馨がいる可能性も考えられたからだ。だが、内容が内容なので、結局テーブルが離れて周りに話が漏れづらいこのカフェを選んだ。いつもの席に馨がいなくてホッとしたのに……。
透子は諦めて、話すことにした。いずれ、話そうとは思っていたのだ。経験不足の自分では、ひとりで悩んだところで、その考えは堂々巡りだ。結局吐き出す先といえば、明日香か里奈しか思いつかない。
「わかったわよ。話すわ。実は……」
最後まで聞いた明日香は盛大に顔を顰めた。
目の前に座る透子は昨晩のキスを思い出したのか、手で唇を隠している。
「のろけ? のろけよね。そうでしょ?」
「ち、違うわよ! 何がどうなってそうなったのか、本当にわからないの。ただ私は混乱してて、ひとりになりたかっただけなのよ」
本当に困っているのに、明日香はのろけの一言で済まそうとしている。透子には信じられなかった。混乱していたところに、いきなり壁に押さえつけられてキスされたら、わけがわからなくなって当然だろう。なのにのろけってどういうことだ。
「まあまあ。そういうことにしましょ。で? その写真の男って、何者?」
「……亮ちゃんは、幼馴染なの。お姉ちゃんの同級生で……。初恋の人」
「付き合ってた人でもある?」
「……」
その問いに、透子は曖昧な笑みを見せた。
「うーん、質問を変えるわ。透子が恋愛に億劫になったのに関係してる?」
「……億劫になんて……」
「じゃあ……その亮ちゃんと透子はキスした?」
少し時間をあけて、透子はコクリと頷く。
「もしかして、えっちもしちゃった?」
「……うん」
「じゃあ、付き合ってたんじゃないの? 日本に帰ってきたってどういうこと?」
「亮ちゃんは、小さな頃からの憧れで、私の方が好きで好きで仕方がなかったの。高校の時思い切って告白して……OKしてくれた時は飛び上がるくらい嬉しくて。時々キスをして、でもそれ以上はなくて。怖さもあったけど、友達の中にはその……もう済ませてる子もいたから、私はどうして求められないんだろうって思って……。亮ちゃんが大学を中退して海外に行くって聞いてのはそんな時」
亮二はカメラの勉強をしていた。だが、大学3年生になったある夏、尊敬する教授が大学を去り、海外に活動拠点を移すこととなった。それを知った亮二は、師と共に海外で修業したいと言い出したのだ。
透子は大きな衝撃を受けた。手を出さないのは、自分がまだ高校生だからだと、自分にいいように理由づけしていたのだ。
亮二と同じ大学生になったら、ふたりは本当の恋人同士になるのだと、そう信じて疑わなかった。だが、そんな時に亮二が別の未来を見ていることを知った。透子は、自分に手を出さなかったのは身体の関係に発展してしまうと、後が面倒だったからではないかと思い打ちひしがれた。
「それで……彼の気が変わるかもしれないと思って、私……自分から迫ったの。今考えると本当に恥ずかしいんだけど……。本当の恋人になったら、亮ちゃんはずっと一緒にいてくれるんじゃないかって思っちゃったのよ。笑うでしょ?」
「……透子……」
「でも、亮ちゃんは夏休みの間にさっさと退学手続きをとって、オーストラリアに行っちゃった。一緒にいられなくてごめんな、ってだけ言って。ずるいよね。最後まで好きとも愛してるとも言わなかった」
「それで、またその亮ちゃんが目の前に現れて、混乱して馨さんを遠ざけようとしたの? 透子の想いはまだ亮ちゃんにあるってこと?」
すると、透子は目を丸くして「は?」と素っ頓狂な声をあげた。
「違うよ! さすがにもう恋心はないよ! どちらかというと……馨さんが……」
「え? なによ。言いなさいよ」
「私も亮ちゃんに対しては、若気の至りというかなんというか……色々やらかしてるから、苦い思いはあったの。なんだけど……写真、見るまで見事に吹っ飛んでて。私の中で、馨さんがすごく大きくなってたの。それに、気づかされて……混乱して。絶対うまくいかないって思ってたはずなのに、飽きたら離れるだろうなって、少し距離おいてたはずなのに……。大事で苦くて切なくて、色んな感情が詰まってた亮ちゃんとのこと、私の中で大きかったはずなのに、写真見ても愛しさよりも苦さよりも、馨さんが大きかったのよ。馨さんに写真見られた!って思いがまず先にきて。そんな自分に驚いて……落ち着きたかったのに、追ってきて……」
明日香は本格的にあきれ返っていた。のろけだ。これは絶対にのろけだ。
確かに透子は馨に対して少し距離を置いているところがあったが、最近ではとても自然体になっていた。まさか、無意識だったとは……。
「馨さんのことが好きだって、気づいちゃったのね?」
透子が顔を赤らめて頷く。
「そうみたい……。亮ちゃんのこと忘れちゃうくらいなのに、俺を見てとか、意味がわからないわ。見すぎて困るから、一人になりたかったのに!」
「……それは完全に逆ギレでしょう。馨さんは、透子の気持ちがまだ亮ちゃんにあると思って、私にまで助けを求めたんだから」
「亮ちゃんを? いや、さすがにそこまで引きずって……え? 明日香に助けを求めたって、どういうこと!?」
「馨さーん。出たくてソワソワしてるんでしょう? もう出てきてもいいですよ」
「は?」
すると、テーブルを仕切るパーティションの後ろから、馨が顔を覗かせた。
その向かい側からは熊埜御堂が現れ、「ごめん!」と手を合わせた。
「今日、店に来たのよ。ちょっと厄介なことになってるから、今の透子の話を聞いて欲しいって言われてね……。いや、でもまさかこんなうまくいくとは思わなかったわ!」
「思わなかったわって……! ちょっと!」
「透子さん、俺のこと好きって言ったよね?」
「え!」
まさかこんな会話が聞かれていたなんて、透子は恥ずかしさで死にそうだった。自覚したばかりで自分の中でも持て余していたこの感情を、まさか本人に聞かれていたなんて恥ずかしすぎる。
「ええと……俺、仕事あるから……」
「私も、馬に蹴られたくないから帰ろうっと。あ、ここ、馨さん払ってくれますよね?」
「勿論! 伝票ちょうだい」
馨は満面の笑みで頷いた。
その笑顔を見て、明日香は少しだけ透子が可哀想に思えた。だが、このままここに留まるなんて、とてもじゃないができない。
透子は視線を泳がせてオドオドしているが、明日香から伝票をひったくった馨はというと、透子の手をがっちりと掴んでこちらにはチラリとも視線をよこさない。完全に透子しか目に入っていない。
明日香は小さく手を振ると、逃げるように店から出ていった。
それから、どうやって店を出たのか、覚えていない。
いつもなら歩幅を合わせて歩いてくれる馨も、今日は随分急ぎ足で歩くため、ついて行くのがやっとだ。せめて手を放してくれたら、自分のペースで歩けるのだが、お願いしてもスルーされてしまう。振り払おうにも、いつの間にか鞄さえも馨が持っていてはどうしようもない。
透子のアパートにたどり着くと、馨は手にした透子の鞄から鍵を取り出し、さっさと開けてしまった。
ドアを押さえて透子を先に入れてくれたが、当然のように後から自分も入ってくる。
これは……流れ的に、かなりやばいんじゃないだろうか……? そう透子が気づいた時には、既にドアは閉められ、チェーンもかけられていた。
「透子さん……。やっと二人きりになれた」
後ろからギュッと抱きしめられ、透子の心臓が飛び跳ねる。だが、頭はもの凄いスピードで働いていた。
(ぱ、パンツとブラお揃いじゃないし! ていうかムダ毛の処理……大丈夫だったっけ? いやいやまさか今日すぐそうなるとか……! ど、どうしよう!)
恋愛から離れていたこの18年。楽な方に逃げて、女を磨いてこなかった自分が悔やまれる。だがもう遅い。耳に馨の熱い吐息がかかり、透子がピクリと反応すると、「……弱いの?」と囁き、今度はわざと息を吹きかけてきた。
(ひぃぃぃぃぃぃ! 耳が強いとか、そんな人そうそういないでしょ! これは無理でしょ!)
再びふうっと息がかかると、そのまま耳たぶを舐めあげられ、透子は立っていられなくなってしまった。
(やばい! やばいって! み、耳掃除いつしたっけ? ぎゃあ! 舌入れるなぁぁぁ! 今日仕事で汗かいたのに! それにパンツも実用的パンツだよ! レースなんてついてないパンツなんだけど!)
「……何考えてるの?」
少し怒ったような声が聞こえたと思ったら、身体が反転し、気が付いたらドアに押し付けられていた。
「俺じゃないこと、考えてたでしょ。何考えてたの?」
(言えません! 実用的パンツのことだとか耳掃除とか言えません!)
答えようとしない透子に焦れて、馨が更に距離を詰める。透子の頭の両側に肘をつき、ふたりの顔はほんの数センチの距離となった。
(ち、近いよ! 目が寄っちゃうよ! 私の鼻息かかりそうなんだけど!)
そのまま今度は身体も近づける。息苦しさを感じるほどになると、馨の腰が触れた。
透子の腹部に。
(は、腹が先につくってどういうこと! 胸もそこそこあるのに、先に腹がつくってどういうことぉぉぉぉ!)
透子は絶望した。




