「1」はどんな数よりも重く男を苦しめる
透子の手をきゅっと握ったまま、馨は向かいの席に腰を掛けた。
二人の距離がぐっと縮まったことで透子が思わず仰け反ると、いつも穏やかな表情の馨が、眉間に皺を寄せて不満を露にした。
「どうして離れるの?」
「どうしてって……いきなり近づいたらビックリするのは、当たり前じゃないですか」
熊埜御堂が言った通り、馨が店に来たらすぐに気付けるようにと、壁を背にして座ったのだが、透子は今それを後悔していた。
元々倉庫だったカフェの店内は天井も高く、開放的な空間なのだ。――本来は。
なのに、なぜか透子は今、追い詰められたような感覚に陥っていた。
目の前に座る馨は笑顔だ。絡められた指は、優しい。なのに、先程までここに居た大きな熊埜御堂以上の、圧迫感を感じるのはなぜだろう。優しく細められるその奥の瞳が、全く笑っていないように見えるのはなぜだろう。
背中を、冷たい汗が流れる。
「ビックリするだなんて……傷つくなぁ。俺は透子さんを傷つけるようなことはしないよ? でも、なんでクマさんに、自分の恋愛観とか話しちゃってるのかなーってそれは気になるけど」
「クマさんと由香さんの馴れ初めを聞いてただけです。そんな……私の恋愛経験なんて、経験の内に入らないっていうか……」
「何人?」
「は?」
この流れから言って、今馨が発した「何人?」というのは透子が付き合った男性の人数を、聞いているのだろうと思う。が、この聞き方からして、やはり馨にも年齢=彼氏いない歴と思われており、まったく恋愛経験が無いと思われていたようで、それはちょっとムッとした。
恋愛に関する考え方や動き方は人それぞれだ。
人様の恋愛観に、アレコレ物言いをつけようなんざ透子は思ってはいない。
告られたから――ちょうど好きな人もいないし――どんな人が分からないけどヒトメボレで――そんな風に、フットワークが軽く恋愛に積極的な人も居るだろう。反対に、とにかく相手の人となりを知って、でも自分からはとてもじゃないけど告白なんて無理だから、何年もその思いを燻らせてて……あら気付いたら三十路……でも恋愛は数じゃないわー! という内気な、たった一人を待ち焦がれる女心も分かる。
けれど、異性に『恋愛経験無いだろうな』と思われるのは、恋愛に縁遠そうに“見える”わけで、それには力強く反論したいではないか。
それがたった一人でも、だ。
「――ひとり……」
当時の透子にとっては精一杯の恋だった。それでもきっと、女性には困らなかったであろう馨の前で言うには少し恥ずかしく、声は自然と小さくなった。
「ひとり……」
馨が難しい顔をして繰り返した。
三十五歳で一人しか付き合ったことが無いというのは、馨の中ではやはり経験が無いにも程があるという感じだっただろうか。
居心地が良いはずのこのカフェで、なぜこんな取調べのような会話をしているのだろうと、透子は情けなく思った。
チラリと視線をやると、馨はまだ気難しげに眉間に皺を寄せている。その様子に、透子はなんだか腹がたってきた。
なぜ自分が、こんなに居心地の悪い思いをしなくてはいけないのだ。
熊埜御堂と会話していた話の内容に馨が登場していたことを考えると、多少のバツの悪さは残るが、これは親しい友人同士の世間話の範囲内のことだと思う。それなのに、なぜかこの追い詰められた状況に置かれ、質問に正直に答えただけだ。ムッとしたいのは透子の方である。
「……年の割りに経験が少ないって言いたいんでしょう? 自分でも異性運無いってことは、これでも自覚しているんです。そりゃ、馨さんに較べたら全然だろうけど――そういえば、そんな馨さんは今まで何人の女性と付き合ったんですか?」
勿論、馨は透子が思ったような意味で難しい顔をしているのではないが、透子がそれを知るわけがない。
馨は透子の反撃に少し面食らったような表情を見せたが、すぐに考える素振りを見せた。
「五人? ええと……八人? 十人とか?」
透子の出す数字のどれにも、馨は静かに首を振った。
「私だって正直に答えたんだもの。馨さんも正直に答えてください。もしかして、もっと多い? ええと……」
「定義が曖昧だけど……もう少し……二十人位じゃないかな」
少し言いにくそうに答えた馨だったが、透子は馨の発言に眉を顰めた。
「定義? 恋愛するのに定義が曖昧ってどういう事ですか?」
「うーん……何て言うか……恋愛が始まるきっかけって、大抵がどちらか一方からの働きかけが必要でしょ? 俺の場合、向こうから言ってきてその時フリーだったらとりあえず付き合ってみるっていうパターンだったから。それなりに続く時もあったけど、続かない時だってあったしね」
馨の話は透子を驚かせるものだった。
こうも恋愛観の違う二人が、これから恋愛を始めようとしているのは笑い話にしか思えない。やはり何かの間違いではないか……いや、間違いであって欲しいとさえ思える。
「それは……言い寄ってきたから付き合ってみたけど、なんか違ったからすぐ振った、ってことですか?」
知らず声が硬くなった透子の変化に、馨は苦笑する。
「違うよ。大抵は向こうが勝手に寄って来て、勝手に理想を俺に着せて勝手に幻滅して勝手に離れてった。振られたのは俺の方」
「お互い知り合う時間を設けないからですよ……」
「よく知り合ったからって何が変わるの? 時間をかければ相手も同じ位、愛してくれるものかな」
すると、突然透子の顔から表情が抜け落ちた。
「――そう、ですね。時間かけたからって、想いが返ってくるなんて事ことは、無いですね」
「透子……さん? どうかした?」
このほんの一瞬の間に、透子の意識が自分から離れて、遠くに行ってしまったように感じて、馨は問い返した。だが、既に殻に閉じこもってしまった透子は、なんでもないという風に首を振るだけだった。
「それぞれに、気持ちのスピードは違うと思うから。だから、透子さんの言ってることも分かるんだ。時間がかかっても、ちゃんと俺の方を向いて欲しい。その上で、好きになって欲しいし、そのための努力は惜しまない。俺はさっさと次の段階に駒を進めたいけど、透子さんを待つ位何でもない」
透子の目が再び馨に向いた。だが、その目は少し遠くを見るように揺れていた。
「でもさ、勝手に結果を出して去るのは、こっちも待つ価値も追う必要も無いでしょ? だから自然と数が増えただけだよ。付き合うってそんなもんかなって思ったこともあったけど、そこに俺の気持ちだって無かったからなんだって今なら分かるし、仕方ない――透子さん?」
きゅっと寄せた眉が苦しげに歪むのを見て、馨が言葉を止めた。
透子はそれを誤魔化すように、珈琲の入ったカップを持ち上げるとそっと口をつけた。熊埜御堂がサービスしてくれたおかわりも、すっかりぬるくなって抵抗無くするりと喉を通る。
「やっぱり私には馨さんは勿体無いです。私は殆ど恋愛初心者で……馨さんが満足するとは思えないんですけど……」
「経験値じゃないよ。それに、勿体無いとかどうとか、俺がそう思ってないんだから。それに、俺は今その一人にものすごく嫉妬してる」
「嫉妬? え? どうしてですか? 情けない数だと思いますけど……」
透子は本当に分からないようで、首を傾げている。
「その一人に、透子さんを独占させるわけにはいかないの。俺が消し去りたい位――透子さん? どうかした?」
消し去りたい――その言葉に透子が僅かにピクリと反応したことを、馨は見逃さなかった。
「ううん。あの……私この後仕事なので、もう行きますね」
伝票に手を伸ばした透子の手をとっさに掴むが、困ったように微笑む透子に、馨はそっと透子の手から伝票を抜き取った。
「ええと……俺が払っとくよ」
その言葉に透子は逡巡したが、時間を確認すると呟くように小さくお礼を言って、早足で店を出た。
「あれ? 透子ちゃん、帰っちゃったの?」
のそりと現れた熊埜御堂は、トレーに馨が注文した品を乗せている。
そして逃げた時のすばやさはどこへやら、よいしょっと呟いて先程まで透子が座っていたベンチ席にどっかりと腰かけた。
「俺、二杯も注文してないけど」
「俺の分。なーんか空気悪くしちゃったみたいだし? 休憩ついでに話し相手になってやる」
そう言うと熊埜御堂は、テーブルの上の伝票を大きな手でクシャリと握り締め、エプロンのポケットに捻じ込んだ。
「で? 透子ちゃんは? 逃げられちゃったのか?」
「……今日は遅番だって。その理由なら仕方ないじゃないか」
「まぁなー。でなきゃ馨くん逃がさないって空気出してたし」
そう指摘され、馨は大げさに溜息をついた。
「彼女が恋愛に慣れていないのは、分かっていたんだ。分かっていたんだけど……」
「だけど?」
「――たった一人の男を、まだ引きずってる」
透子は、自分の恋愛経験の少なさを引け目に感じていて、馨のアプローチに逃げ腰だ。
からかわれている、何かの間違いだ。いくら言葉を重ねても、その疑念が消えない。
恋愛経験の数は関係ないと馨は考えていた。自身の経験が多いからといって、経験の少ない透子を簡単に落とせるなんて思っていない。
確かに女性受けする場所や食事、プレゼントは想像がつくし、それを馨は難なく選ぶだろう。それでも、それで『心』が伝わるとは思っていない。一時的に自分に関心を留める手段でしか無い。本当に大切なのはその先であり、それは本当に一人一人心の感じ方が違うのだ。それに経験値なんて何の役に立つだろう。
「そう思ってたのに……元カレは十人って言われた方がマシだったかもしれない」
「十人って言われたら言われたで、嫌なもんだろうけどね」
「それでも一人よりはマシだよ」
「えっ。さっき俺に言ってた話?」
「そう。あれが唯一だって。複数よりもタチが悪い。透子さんの心の中にはたった一人の男しかいなかったんだ。そいつが、ずっとずっと透子さんを独占してた。今もどっかりと居座ってる」
馨の心の葛藤が分かるのか、熊埜御堂も苦笑すると顎の無精髭を撫でた。
経験値は関係ないと言っても、二人と三人ではさほど変わらないが、それが一人となると話は別だ。
透子を抱き締めたのも、透子の想いを受け取ったのも、キスも、或いはその先も。透子の全てを知っているのはたった一人なのだ。逆に考えれば、透子もその男のキスしか知らない。
こんな時「1」という数字は、他のどの数よりも重く打撃を与えるということを、透子は知らない。
広いカフェの片隅で、いい年した男二人が、揃って盛大な溜息をついた。




