自称、空気が読める女
いつもより少しだけ長めです
『ただいま帰りました』
ドアのカギをかけてチェーンを下ろすと、その場でパパッと入力してそのまま送信する。
すっかり日課になったそのメッセージは、靴を脱いで向きを揃え、乾燥消臭剤の袋をふたつ突っ込んだところでスマホが震えた。
『おかえり。透子さんが遅番だとカフェで会えないのが残念だな。透子さん、今日の晩御飯はどうするの?』
朝、起きたらベッドの中で目をこすりながら『おはようございます』と、休憩の時には『今休憩です』と、夜には『ただいま帰りました』と馨宛にメッセージを送るのが習慣となった。だが、馨はもっと雑談がしたいと少し不満のようだ。そう言われても、学生の頃は、携帯はお金持ちが使っているイメージがあった世代である。透子自身、持つようになったのも働き始めてからだし、そのためか用事がある時しか連絡しないし、無精なのだ。そうと知ってか、最近は返信の際、挨拶返しと一緒にこうした一言二言が添えられている。
「ご飯。ご飯ねぇ……」
メール画面を見ながらひとりごちる。
その表情が微笑んでいるのは、無意識でのことだ。
意外と押しの強かった馨の猛アピールで、流されそうになったもののすんでのところで“オトモダチ”で留まってもらった。
こうして透子の日常に、積極的に関わってくる馨のメールに戸惑いもあるが、最近は嬉しさの方が勝ち、胸にくすぐったさが込み上げる。
あれから時々カフェで会ったり、こうしたメッセージのやり取りが主だが、透子の中では馨の存在が日に日に大きくなっている。あの熱っぽい告白の後、カフェで会った時はさすがに少し身構えたが、馨は非常に紳士的で、しかも聞き上手ですぐに緊張していた空気は穏やかなものとなった。それ以降も、強引に距離を縮めようとするそぶりすら見せない。正直、あの告白は夢ではなかったかと思えた位だ。それほどに、自分のどこが良いのか透子には分からない。
噂になった位だし、職業柄女優をはじめ美女と接する機会は多いと思う。それなのに、なぜ自分なんだろう……それは馨の告白の日から何度も何度もよぎる思いだった。
だが馨が信じられないというよりは、自分が信じられないと言った方が正しいかもしれない。
そんなことを考えながら、ベッドによりかかるように置かれた二人掛けのローソファの上にバッグを置くと、返事が無いことに焦れたのか、手の中のスマホが震えた。
『どうしたの? 疲れたのかな。それでもご飯はちゃんと食べるようにね。明日はお休みでしょう? 会いたいな』
どうして自分に? そんなことを考えていたばかりだから、休日を確認して『会いたい』と約束を取り付けようとする文章に、透子は落ち着かない気分になる。
「どうしよう……ええと……」
『明日は休みなんですが、買い物があるし、図書館に本を返しに行かなければいけないんです』
既に、一日のある程度の予定を立てていたことを、正直に書く。
時間が不規則な仕事柄、遅番が続くと日用品の買い物が溜まってしまう。だから遅番明けの休日は、日用品の買い物や銀行の用事などに当てているのだ。それで一日の大半を使うため、休日気分ではいられないのだが、明日は図書館に本を返却がてら、何か良いものがあれば借りようと考えていて楽しみにしていた。
『そう……。図書館って東口の? まだ行ったことないんだ。じゃあ俺も行こうかな』
思わぬ申し出に、スマホを片手にしばし考える。
これまでは早番の後は帰りにカフェで大好きなドーナツを頬張り、スーパーに寄って自炊する。中番の時はカフェでドーナツの他軽食を食べて夕食代わりに。遅番の時は部屋の掃除など家の用事をしてから仕事へ向かい、終わったらどこにも寄らずに帰宅。休日は前日のシフトによるが、日用品の買出しや、友人達とランチに行く位で、このように透子の生活リズムはほぼ決まっていた。
馨はそこにスルリと入り込もうとしている。
これまでと同じリズムではいられないんだ……と、透子は今更ながら馨の存在の大きさを知った。
『でも、借りる本決まってないんです。物色しながらその場で読み始めてしまうこともあって』
人を待たせたり、顔色を窺いながら、本を選ぶのは嫌だ。図書館での時間は、いつもひとりで大好きな本に囲まれ、好きな所に思考を飛ばせる特別な時間なのだ。そこに誰かが一緒に居るなど、透子は考えたこともなかった。
『俺が一緒じゃ、迷惑?』
気を使いながら本を選ぶのは嫌だが、こうもストレートに聞かれると答えにくい。そもそも、本当に図書館に行きたいのだろうか?
『あそこの図書館は蔵書が多いって聞いたよ。書店ではもう手に入らない資料があるか確認したいと思っていたんだ』
なんと答えたものかと少し悩んでいる間に、すぐさまメールが届いた。答えあぐねていることが分かっているかのようなその文章に、透子は少し悔しい思いをした。
* * *
「それは何の本ですか?」
透子の目は興味津々に輝いて、馨の手元に注がれていた。
「ん? あぁ、これは『建築に見る異国文化』だよ。今度書く脚本で、海外が前半の舞台になる予定なんだ」
「そうなんですか。凄いですね!」
意外にも、馨との図書館の時間は楽しかった。
本全般が好きな透子だが、読むのは小説や漫画など物語が多い。それに対して馨は、その“物語”を作る側として、専門書をたくさん手に取っていた。その違いが透子には目新しく、楽しい発見が色々とあったのだ。透子の視点はあくまでの“読み手”のものであり、馨の視点は“作り手”のものだ。それを知ると好奇心を抑えることが出来ず、様々な質問をした。
透子が好きな作家や漫画家も、こうして物語を構築していくのだろう。これからは物語に入り込む時、少し違った気持ちで入れそうだ。
「透子さんはどんな本を借りるの?」
「ええと……これは明日香に薦められたんですけど、老舗の料亭に生まれた女の子が、フランス料理の世界に飛び込む話なんですよ。言葉や文化の違いを乗り越えて、小さなお店を出すために奮闘する話なんです」
「へぇ。それも面白そう。今度感想聞かせてくれる?」
「でも私、入り込んじゃうから感想熱いですよ? いいんですか?」
「勿論。透子さんがどう感じたか聞きたいんだから」
透子は速読派では無い。ゆっくり、ゆっくりと物語の中に入り込むため、読むのは遅いし入り込んだらなかなか抜け出せない。読み終わった後もそれは続くため、愛用している五年日記に感想を綴って区切りとしていた。日記帳は殆ど読書日記と化していたが、それだけ日常に変化が無いというのが分かるというものだ。
人に感想を語ったら止まらなくなるのだが、馨は聞いてくれると言う。透子はそれが嬉しくて笑顔で頷いた。
「じゃあ、次は買い物だね。どこに行くの?」
「ええと、今日は東口のショッピングセンターに行きたいんです」
「そう、じゃあ行こうか」
その言葉に歩きながら、借りた本をバッグに仕舞いこんでいた、透子の動きが止まった。
「え? あの、馨さんも一緒に行くんですか?」
今更のような質問に、流石の馨も苦笑して振り向いた。
「あのね、透子さん。俺、これデートのつもりなんだよね」
「え? えぇ? だって……図書館で資料見たいって……」
「そうだよ。それは本当だけど、わざわざ今日を選んだのは、透子さんと一緒に居たいからじゃん。デートに誘いたくて休日を聞いたのにさ、あれこれ用事が詰まってて、俺のために割く時間なんてありませーん。って雰囲気だったし? 悔しいじゃん。でもいいんだ。所謂デートコースっていうのもいいけど、こういうのも透子さんのこと知れるし。だから一緒に行きたい」
「面白くありませんよ? 日用品買うだけだし、レンタルDVD返すだけだし……」
「面白いよ。そうだな、まずは透子さんはどんなDVD見るの?」
そうしてさりげなく手を繋いでくる。
あれ以来、軽く手を繋いで並んで歩くのが常となったが、それでもやはり慣れない。透子の方から繋ぐ事はないため、いつも馨がさりげなさを装い透子の手を包み込むのだが、その度にピクリと手が反応してしまう。
「え、ええと……洋画なんですけど……所謂ハリウッド大作はあまり見ません。ミニシアター系って……言うのかしら。今日返すのは『ロビンソン夫妻の離婚旅行』です。長年連れ添った夫婦が、結婚五十周年で離婚の危機に陥るんですよ。それで財産をどう分けるかという話から、いっそ最後に豪華クルーズ旅行に出かけてパーっと使ってしまおうと世界一周旅行に出るんです。そこで何十年ぶりかでお互いのために着飾ってディナーをしたり、様々な人達と同じ船で長く接したり、様々な国を巡ってその土地の生活を見ている内に、段々二人の心がまた寄り添うんです」
「台詞が極端に少ない作品だったでしょう?」
馨の言葉に透子は驚いた。マイナーな作品は、店頭に並んでいても、棚にひっそりと一枚か二枚並んでいるだけだ。新作だからといって、大きくコーナーが作られるわけでもなく、透子が見つけられずに店員に聞いた時だって、タイトルを聞いてもピンとこなかったようで、かなり手間取っていた。
「馨さん、知ってるんですか?」
「うん。俺も見たよ。俺の好きな脚本家の一人なんだ。少ないけれど、印象的な台詞が特徴的でね。寡黙なおじいさんの口癖のさ、『そうか』の使い分けが凄かったなぁ」
「あ! 私も思いました! 最初自宅でのシーンは奥さんの話は上の空で『そうか』って言うんですよね。でも、だんだん感情が言葉に乗ってくるっていうか……最後の方で、奥さんが『愛してるわ』っていうと、じっと奥さんを見詰めて『そうか』って返すシーンが感動しちゃって。その後また自宅でつつましく過ごす生活が、初めと全然違うんですよね」
意外にもまた話が盛り上がり、いつも機械的にカゴに放り込むだけの買い物すら楽しく時間が過ぎていった。
それがまたなんとも透子の胸をくすぐったくさせる。さすがにつまらないのではないかと思い、そんな馨に気を使って買い物をするのは嫌だと思っていたのだが、それは杞憂に終わった。
――だからと言って、生理用品を買った時、レジの店員が別で紙袋に入れたのを不思議そうに見詰めるのは止めて欲しかったが……居心地の悪さを感じたのはその時位だ。
「じゃ、ご飯でも行かない?」
全てをエコバッグに詰めると、馨はそれを持とうと手を伸ばした。
語尾を伸ばした女の声が聞こえたのはその時だった。
「あらぁー? 馨、馨じゃない?」
名前を呼ばれ、馨の手が空で止まる。
その独特の声色に、透子はピクリと反応するとサッとエコバッグを肩にかけ、隣の店の商品を見る振りをしながら、さりげなくその場を離れた。
「――橘? あぁ、久しぶり。そうだな、最近クラブは行ってないんだ。元々あまり好きじゃないしね」
「えー。どうしちゃったのぉ? 時々は遊びましょうよぉ。そうだ、今度ホームパーティーするの。来るわよね? 亜里沙がぁ、馨に是非来て欲しいって言うのよぉ」
ねっとりした声が透子の耳にまとわりつきムズムズしたが、そ知らぬ振りをしてそのまま買い物をしている風を装った。
さすがにこんな地味な年上女が隣に居ては、馨の評判にも傷がつくというものだ。うまく距離をとり、“その他買い物客”になれたことだし、馨はきっとうまく立ち回るだろう。
「いや、止めておくよ。俺は亜里沙とどうなるつもりもないし。それに――あれ? 透子さん? 透子さん、そこで何してるの?」
さりげなく離れた自分、グッジョブ! と思っていたのに、馨の呼びかけで一瞬で登場人物に名を連ねてしまった。
橘、と呼ばれた少々化粧のキツい美女が、驚いたように透子を見ている。
だがここでズイと前に出れようか、否、出れない。
「今はこの子と一緒だし……彼女は……」
「先生! 荷物なら私が持って先に次の店に向かいますから、どうぞお気になさらず!」
そう一気に話すと、すばやくその場を去った。名付けて、“雇われてるアシスタントですけど何か?”作戦である。
「え? ちょっと透子さん!」
後ろから馨の驚いた声が聞こえるが、せっかく演じたアシスタント役をどうか活かして欲しいものだ。
早足で向かった先にトイレマークを見つけ、透子はそこに飛び込んだ。
(次の店に先に……とか、言っておきながらトイレって! でもここなら追って来れまい!)
トイレコーナーの一角に設けられている、パウダールームの椅子に荷物を置くと、大きな鏡に映る自分に目をやった。
ゆったりしたAラインのワンピースに、楽という理由だけで選んだポンチョ。その上に乗る丸い顔に手をやると、透子はきゅっと自分の頬をつねった。
「駄目だよ、調子にのるな! 私!」
力なく椅子に座ると、バッグの中でスマホが震えた。
『魔女は追い払ったから出ておいで』
確認するまでもなく、馨からだ。ヨイショ、と大きなエコバッグを肩にかけると、そっと外を窺う。馨は向かいの壁に腕を組んで寄りかかり、こちらを睨み付けていた。
とっさに回れ右したくなった透子だったが、馨の「こっちに来なさい」という言葉に抗えず、のろのろと歩く。
「もしかして……怒ってます?」
「怒ってる」
「私、もしかしてうまく誤魔化せませんでした?」
「誤魔化す?」
ピクリと片眉を上げて聞いてくる、馨の視線が怖い。口元にはうっすらと笑みを浮かべているのに、怖いとは一体どういう事だろう。
「どうして、透子さんの存在を誤魔化して、アイツに伝えなきゃいけないの」
「え、ええと……大丈夫ですよ。私結構空気は読める方だと……」
「それで? もしかして俺が透子さんの存在を、恥ずかしく感じているとでも思ってるの?」
開けかけた口を、とっさに閉じた透子の反応を見て、馨は更に笑みを深めた。
(笑顔なのに、恐ろしさがアップしたんだけど!)
透子はすっかり身体を縮こまらせている。だが馨は構わずに話し続けた。
「透子さんは俺の気持ちがそんなにも小さくて、すぐに消えるものだと思っていたの? 友達からでも構わないけど、俺が透子さんを好きって気持ちは覚えていてって言ったよね? それなのに、アシスタントの振りとかするんだ」
「ご、ごめんなさい。でも知られない方がいいかと……」
「どうして? 透子さんは分かってない。本当に、分かってない。もっとゆっくり口説こうと思ってたけど、これからはそうもしてやれないからね。透子さんにはちゃんと分かってもらわないと」
「わかりました! ちゃんと分かったからっ……」
「ダーメ。もう遅いよ。俺は透子さんしか見ていないのに、透子さんは周囲ばかり見ている。そんなことできない位、俺でいっぱいにしてあげる」
肩から外された荷物は、軽々と馨の肩に移動した。そうして今まで緩く絡められるだけだった指は、拘束するようにぎゅっと強く握られ、ふたりの手の平はピッタリと合わさった。
その時になってやっと、透子は自分の行動が間違っていたと気付いたのだった。
文中に出てくる本や、映画は実在しません。
万一同じタイトルのものがあったとしても偶然です。




