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恋は夢見るものではなく、日常に溶け込むものである

 相馬が打ち合わせのために、いつものカフェに足を踏み入れると、店の奥で原稿をチェックしている馨の姿が目に入った。


「いらっしゃ――あぁ、来てますよ」


 大柄な熊埜御堂(くまのみどう)の声は、その体格に比例してか低く、深い。

 初めはその威圧的な雰囲気に、入り口で躊躇する人も多いのだが、最近常連認定された相馬は「どうもー」と片手を挙げた。そしてそのまま奥の席に向かおうとしたが、足を止めカウンターに引き返す。


「クマさん、俺カフェオレと――ドーナツ、まだあります?」

「ええと……おい、お前。ドーナツまだあるか?」


 熊埜御堂がカウンター奥の厨房に声をかけると、小柄な女性が顔を出し「あるよ」と応えた。


「大丈夫ですよ。あれ、でも相馬さん、スイーツ系苦手じゃあ……」

「これ、前回食べたらハマっちゃって。ふわっとした食感たまんないっすね。甘さ控えめだし……」


 すると、強面の顔がにまっと笑顔になった。


「和三盆糖使ってますからね」

「そんなこだわりのドーナツなんすか。なんでメニューに載せないんすか?」

「勿体無くて。いや、それは冗談のようで冗談じゃないんですけど、ウチにお客さんとして来てるっていうより、寛げる自宅の一角みたいに思って来てくれる人に、楽しんでもらえたらそれでいいんですよ」


 商売っ気が無いというか何と言うか……随分勿体無い話だと相馬は思ったが、自分もその家族の一員として受け入れられた気がして、それ以上は突っ込まないことにした。

 それにしても、いくら倉庫を改装した店内は広いとはいえ、これだけ店主とカウンターで話していたら声で気付いてもいいようなものだが、馨は相変わらず顔を上げずに原稿に没頭している。

 いや、没頭しているのは何か他のものかな……それに気付き、相馬の頬は自然と緩んだ。

 それだけ、視線の先に居る馨は、今にでも鼻歌を歌い出しそうな程表情が明るい。

 今まで大成功を納めた作品でも、彼のこんな顔は見たことがない。これは……ピンときて相馬は足早に馨の元に向かった。


「お疲れさまでーっす」

「あぁ、相馬さん。お疲れ様です。SPドラマの脚本上げてきたからチェックを――ん? 何?」


 向かいの席に腰を下ろした相馬が、ニヤニヤと笑いながら自分を見ていることに、馨はようやく気付いた。


「何かいいことあったんすか、ディナーチケットの化石ちゃん」


 その言葉に馨は、驚いたように目を見開く。その一瞬あと、弾けたように笑い出した。


「……ははっ……分かります?」

「顔に出てるっす。なんつーか、楽しそうだなって分かったっす」

「うん。すごく楽しかった。実は、全然連絡もらえなかったこと、俺ちょっと焦ってたみたい。それで自分のテリトリーに彼女を囲い込もうとしてたんだよね。でもね、成功したかなって所で、見事にすり抜けられた」


 聞いてる分には、笑える状況ではないと思うのだが、目の前の馨はそれはそれは楽しそうに目を輝かせている。


「逃げられたって、ことっすか?」


 それに対しての答えは無かった。


「相馬さん、トイレットペーパーの袋ってさ、指に食い込んで痛いんだ。知ってる?」


 一瞬馨が何を言っているか分からずに口篭ったが、相馬はすぐにニヤけ顔を引っ込めた。


「知ってるっす。あれ、なんでギリギリ指で引っ掛けるしか、出来ないような袋なんすかね」

「なぁんだ。知ってるの」

「当たり前じゃないすか。よくウチの嫁の買い物の荷物持ちに駆り出されてるんすもん。でもなんでいきなりトイレットペーパーなんすか。ディナー行ったんすよね?」


 今テレビでよく見る人気の星付きの店は、予約無しでは入れない程だ。そんな特別感がある上に、建物もお洒落で食事は一流。しかも目の前にはこの神馬馨だ。――女性ならばうっとりしてしまう、そんな要素が詰まっている。


「行ったよ。美味しい食事に雰囲気の良い店……告白して、少し先の高台の植物園に夜景を見に行った」

「植物園? 夜もやってるんすか?」

「温室には入れないけれど、夜は建物がライトアップされていてその周りの展望デッキから見る夜景が綺麗なんだ」


 営業時間外だから、実は穴場なんだよ。と話す馨は流石としか言えない。

 彼の書く恋愛ドラマはどれも夢のようにロマンティックなものばかりだが、馨自身がロマンチストなのだ。


「まんま、神馬ワールドっすね。普通の女子は雰囲気にコロリとやられちゃいそうっすけどね」


 感心したように言うと、馨はまた楽しそうに笑い出した。


「それがね、トイレットペーパーになっちゃったんだよ」

「は?」


 当然のことながら、相馬の頭の中では、デートコースとトイレットペーパーが結びつかない。

 ポカンとして間抜けな返事をするしかなかった。


「なかなかいい雰囲気になったと思うんだ。とりあえずステップアップできたと思うから。でも相手が相手だし、次の日も朝から仕事があるって聞いてたから、遅くまで引き止めずに送ることにしたんだよ。でもまぁ、ダメ元でどこか寄ろうかって話に持って行ったら……買い物に行きたい、って言うんだよ」


 そこでようやく相馬の中で話が繋がった気がした。でもまさか、という思いがある。初めてのデートの帰り……しかもイケメンからの告白の後で、まさかアレを買いに行きたいだなんて……。


「まさか」

「ふふっ。そのまさか。希望通り店に向かったらさ、セール最終日だとか、一人二つの制限があるとかで、デカい塊を押し付けられた」


 思い出したのだろう。また楽しそうに笑う。


「24ロールで324円、逃したくなかったんだって。食事の時よりも夜景見てる時よりも嬉しそうに笑うんだ。俺のデートプラン、324円に負けたみたい」


 驚いた。まさか本当にそんな女性が居るとは……。だが、愛する妻に鍛えられた相馬は気になる言葉に食いついた。


「24ロール324円っすか。それは安いっす。どこのスーパーっすか」

「え? この一つ向こうの駅前スーパーだけど……」

「この近くかぁ……ウチからは遠いっすね。あ、でも24ロールだと無理かぁ……」

「え、何が?」

「ウチの奥さん、基本ママチャリ移動なんす。24ロールだとチャリのカゴに入らないんすよ。結構デカいでしょ。電車で来てもあの大きさは邪魔になるし指がなぁ……」

「そうなんだよね! 最初は軽い軽いって思ってたけど、すぐにビニールが伸びて指にどんどん食い込んでくるんだ。彼女の分も持ってあげたかったけど、かさばる大きさだったし、二人でそれぞれ二袋、両手にぶら下げてコインパーキングまで結構な距離歩いたよ。一気に現実に戻った感があったなぁ」


 そうしてまた「なんであんなに持ちにくい作りなんだろうね」と笑う。

 その流れでスーパーに行きたいと言い出した彼女も彼女だが、24ロールパックを持ったことがそんなに面白かった馨も馨である。


「……もしかして、トイレットペーパー自分で買ったこと、ないんすか?」

「そう言えば、無いんだ。今は時々来る家政婦さんが必要な生活雑貨買い足してくれるし……俺はその分払うだけなんだよね」

「はぁ……」


 どこまでも世間とはズレた男だ。

 相馬にしてみれば、馨の生活よりもデート帰りにスーパーに寄った彼女の気持ちの方が分かる。

 しっかり尻に敷かれている相馬は、トイレットペーパーのストックが少なくなれば、その内荷物持ちを命じられるな……と、自身のスケジュールをチェックする。

 仕事が詰まり、妻と予定が合わない時は、多少高くても帰宅途中にコンビニで買って帰るのだ。それはトイレットペーパーだけの話ではない。箱ティッシュ、醤油、油、砂糖に塩、そして米。妻が一人で買い物に出るには重い商品は、ストックの状況を確認して買って帰る。普段より割高になるその分は自腹だ。それでも、重い買い物を妻に押し付ける罪悪感と、後からネチネチ言われることに較べたら安いものだ。

 相馬にとって、神馬馨とはどこか浮世離れした存在だった。

 地に足が着いているようで、常に数センチ浮いていていとも簡単に障害物を飛び越え、水溜りに落ちて泥水で足を汚すこともない。そんな人間だった。それは羨ましくもあり、危なっかしくも、異星人のようにも思えたのだが、どうやら彼はほんの少し、“人間”に近づいたのかもしれない。

 だが、同時に馨の話を聞いていて、彼女と馨の恋愛に関する考え方の違いに相馬は気付いていた。

 それを言おうとして口を開きかけたが、それを馨自らが気付かなければ意味が無いと思いなおし、ドーナツを頬張って誤魔化した。



 * * *



「ねぇ。どうだったの?」

「……なにが……」


 デートの翌日も透子は早番勤務だったのだが、勤務中その時々に馨の台詞や表情が脳裏に甦り、頬が緩んだり溜息をついたりしていた。ミス無く仕事を終えられたのが不思議な程だ。

 やっと一息つける。と思って事務所に上がったところで休憩中の明日香に捕まってしまった。


「えーっ。昨日あんなにテンパッてたのに、今日はやけに落ち着いちゃってさ。触れない方がいいのかしらって思ったけど、シフトアウトってなった瞬間、顔がニヤけてるんだもの。気になるじゃないの。吐きなさいよ!」

「だからその……ええと……お友達から始めることになりました!」

「はぁ? じゃあ……今まで通りってこと? 昨日なにがあってそんな結果になるわけよ」


 明日香の追及からは、逃れられそうにない。今日うまく誤魔化したところで、それはどうせ後回しになるだけだ。


「だから……ディナーチケットがあるとかで、食事に行ったの。ほら、最近よくテレビに出るあのシェフの……それで、夜景の綺麗な丘に行って、あの……正式なお付き合いを申し込まれて……」


 話を進めるにつれて明日香の目が輝き、話の続きを促すのに対して、透子の口調は段々萎んで語尾が消えてしまった。


「なにそれー! 人気脚本家は違うわね! そのレストラン、予約全然取れないのよ。そこにスッと招待しちゃうなんて地位が無いと出来ないから! それで?」

「え、ええと……それでとりあえず、お互いをあまり知らないしお友達から始めるのが妥当だと思って……」

「は? なんで? そこまでお膳立てしてもらって、透子雰囲気にポーっとならなかったの? 勿体無い! 馨さんの彼女になったら、それこそドラマのヒロインみたいな夢の毎日が……」

「夢って……。明日香おかしいわよ。恋愛って、そんな浮き足立ったものじゃないでしょ。私は――恋愛って日常に溶け込むものだと思うから、そういうのは嬉しいけど、“特別”な時だけで充分だよ」


 困ったように微笑む透子のその言葉に反論しようとして、明日香は口を閉じた。

 明日香も思うところがあった。付き合っている恋人との希望や夢でいっぱいだった同棲生活も三年目になり、既に新鮮味は無い。

 互いに不規則な仕事をしているため、少しでも一緒に居られるようにと始めた同棲だった。が、帰って来た時はたとえ深夜でも起きて「おかえり」と言おうとお互いに決め、果たしてどれ位の期間実行出来ただろう。いつの間にか、起こさないようこっそり帰宅し、そうして帰宅に気付いても、起きなくなってしまった。いつの間にか一人での食事に慣れ、たまに二人一緒だと腕を振るおうというよりは、有り物で済ますことが出来ず、面倒だと思ってしまうこともある。

 愛しているのだと、思う。だが、情かもしれない、と思うこともある。要はときめきが少なくなったのだ。それだけ、夢と現実は違った。

 最初から無理せず、透子のように片肘張らずに恋とは日常に溶け込むものだと言えたなら、今の明日香達の関係も少しは違っただろうか。


「……それでも、夢見たい事だってあるじゃない。体ごと飛び込んだら、切り開ける新生活だってあるかもしれない! って、思っちゃ駄目かな。そう思える相手ってそうそう居ないよ? 馨さんはそれが出来ちゃう人だよ?」

「夢見る年でも無いってー、私。ねぇ、それより休憩時間、いいの?」


 時計を確認した明日香が「やばっ!」と短く叫び、大急ぎで鞄をロッカーに突っ込むと、椅子に掛けていたエプロンを乱暴に掴んだ。

 その様子を見ながら、追求から逃れられたことに、透子は心底ホッとしていた。

 自分が、矛盾していることを言っているのは、分かっているのだ。友達関係から時間をかけて、信頼関係を作って行きたいと言いながら、恋愛に夢を見る時間は無いというのは、矛盾したことだ。


「でも、想いが強くなり過ぎて体ごと飛び込む恋愛は、もう嫌なんだもの」


 明日香が慌しく出て行くのを見送ると、透子はそうポツリと呟いた。


 

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