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4.1 もっと生きたい

 昼夜逆転の生活をしながら、ヨウとのチャットは続けられる。


 夜が嫌いなのに、夜に活動する自分――。


 ある日、その矛盾に目が覚めるような鮮烈な衝撃を受けた。


「俺、今気づいた」

「なんで深夜のバイトをはじめたのか」

「自分のことなのに今頃理由が分かった」

「俺は夜に打ち勝ちたかったんだ」

「夜なんて怖くない、そう思えるようになりたかったんだ」


 それでも朝日を浴びると歓喜するこの心――。

 朝が来て、夜が消えたことを実感するとうれしくなるこの心――。


 これはもう習慣なのか、人としての習性なのか。


 朝日の下アパートに戻り、ベッドに倒れ込むようにして眠る日々。


 柔らかな陽光で満たされた室内には、歓喜のハーモニーが響きわたっている。この喜びを否定することなど――俺にはまだできない。





 夕方、刺すような西日を頬に感じて起きると、ヨウからの返事がきていた。


『コースケは今も夜が怖いの?』


 そうか。そこまで俺はヨウに話していたのか。


 そのことに気づき、であれば俺はすべてを語りたくてたまらなくなった。


「そう、怖い」


 ピロン、と音が鳴る。


『そこに死の世界があるから?』


「そう、そこに死の世界があるから」


 二人の応答の速さは最近ではなかったものだ。ちょうどヨウも授業を終え一息ついていたのだろうか。


『大丈夫』

『コースケは治ったんだから大丈夫!』

『そんなふうに心配しすぎるなよ』


 ガッツポーズをとるキャラクターのスタンプも送られてきた。


 明るい話題なのか、そうふるまっているだけなのか、画面だけを見ていると当事者の俺ですら一瞬分からなくなる。その隙を突くかのような不意打ちの激情が俺の親指を動かした。


「でもお前が言ったんだぞ」

「誰でも最後には必ず死ぬんだって」


 画面上の黄緑色の背景は若草を連想させるが、俺の生み出す言葉はその真逆、枯れゆく老いた樹木のようだ。


「すまない」

「ヨウを責めたいわけじゃない」

「俺が言いたいのは」


 衝動のままに続けていた。


「俺の命もいつかは尽きる、それを知ってしまったってことだ」


 そして逃げるようにこう締めくくった。


「じゃ、バイト行ってくる」





 今、俺は世界でもっとも嫌いなシチュエーションにこの身を置いている。


 そう、夜の浜辺で一人、どす黒い海のたゆたう様を眺めている。


 ヨウには嘘をついたが、実は今日は非番だった。かといって夕方に目が覚めるように体は改造されつつあり、目も脳もらんらんと冴えわたっている。


 だから俺は海に来た。


 もっとも嫌いな、もっとも憎むべき夜の海と真正面から対峙するために――。


 潮風が吹きつけてくる。肌寒さを感じ、ウインドブレーカーの襟元を合わせる。潮の香りは昼も夜も変わらないのに、今こうして肌をなでられるとなぜか鳥肌がたつ。それは寒さのゆえなのか、それとも――。


 こういう自分がすごく嫌だ。


 何かに意味付けをしてしまい、一人で勝手に結論を出してしまう自分が嫌いだ。


 この世界とは何なのか。


 朝とは昼とは夜とは何なのか。

 太陽とは月とは星とは何なのか。

 海とは山とは空とは何なのか。


 生とは死とは、人とは何なのか。


 ざざん、ざざんと波が寄せる音が聞こえる。黒々とした液体の集合体は、わずかな月光を反射してでろりと輝く。……なんて醜いんだ。醜くて醜くて仕方がない。


 空を見上げれば、白く細い月が雲の影で淡く浮かんでいる。星はほとんど見えない。そのどれもが空を覆う雲に隠れている。


 だけど、たとえここが満天の星々が降る南の島であっても、俺は夜を、夜の海を好きにはなれないんだろう。


 目に見えるものはどうだっていい。そんなものは状況次第で変わる。


 夜の本質とは、結局は闇だろう?

 夜の海とは、光のささない死の国の象徴だろう?


 分かっている。

 俺はよく分かっている。

 分かっているから、俺はこれまで夜を嫌ってきた。


 それでも俺は、今、こうして一人浜辺に座っている。


 負けたくない。

 いつか、いや、すぐそこまで来ている死に怯えたくない。


 今を精いっぱい生きたい。

 生きて――大切なことを大切だって堂々と主張したい。


 死の存在を何かの理由に使いたくない。

 大切に思うことを大切にしたい。


 大切にする権利が自分にもあるんだって――そう信じたいんだ。


 ヨウのこと。

 彼女のこと。


 俺にも大切にできる――?

 こんな俺でも大切に思っていい――?





 ひどく長い時間が過ぎていった。


 日の出の予兆は、海の向こうの空の色が微妙に変化してきたことで察せられた。

 寒さにかじかむ両手に息を吹きかけながら、俺はやけに興奮していた。


 これまで日の出をきちんと見たことがなかった。


 じわじわと群青色の空に明るい青みが戻り、さらに暖色系に染まっていく。

 頼りなげな星々の光は、気づけば向こう側には一つも見当たらない。

 細い月は輝きを失い、ただその白色だけで存在している。


 コールタールのごとき粘ついた波が、だんだんと本来のさらさらとした透度のある液体に戻っていく。見ただけで清浄そうなそのたゆたう世界――。


 気づけば、俺は立ち上がっていた。

 そして我を忘れて浜辺を駆け、海に入っていた。

 靴が水を吸って重くなったが、それでも向こう側を目指して進んでいった。


 ジーンズの裾が、ふくらはぎが、膝が、太ももが、腰が、濡れていく。ずぶずぶと、海に、生と死の狭間に侵入していく。


 少しでも近づきたい、少しでもあの向こうにある生者の国に近づきたい――。



 生きたい。


 生きたい。


 もっと生きたい!


 生きることだけを考えたいよ!



 胸の高さまで海に入ったところで足を砂にとられてよろめいた。


 と、後ろからばしゃばしゃと大きく水を叩く音が聞こえ、何者かに腕を捕まれた。


 掴まれたその勢いで体がそちらの方向へと傾く。足を一歩前にだし体勢を立て直したところで――俺はそこにいる人物の正体に気がついた。


 そこにいたのは彼女だった。


「……木下さん? なんでこんな朝早くに」


 空は半分以上が朝の色に染まりつつあったが、彼女の背後、西のほうはいまだ薄暗い。太陽はまだ俺の背の向こうで眠っている。


 俺を見上げる彼女は、眉間にしわを寄せ、ぐっと唇を噛んでいた。

 俺を睨みつける彼女の瞳に、零れ落ちそうなほどの涙が湛えられていた。


 俺の腕を掴む両手にぎゅうっと力がこめられた。


「……コースケっ」

「どうして」


 なぜここにいるのか、なぜ俺の名を呼ぶのか。

 それらの疑問に答えることもなく、彼女の瞳からぽろぽろっと涙がこぼれた。


「コースケ、コースケ、コースケ!」


 指が白くなるほど力強く握られている俺の腕は、血がにじむほどに痛い。だけど彼女はそれでも、これ以上はないというほどの力をこめてくる。


「だめだだめだ。これ以上行ったらだめだ。行っちゃだめだ!」


 ぽろぽろ、ぽろぽろ。際限なく涙が溢れてる彼女の瞳。

 その瞳が俺にまっすぐに向いている。


 怒りと悲しみでないまぜになった彼女の顔。

 内気で恥ずかしがり屋の彼女は、今ここにはいない。


 今ここにいるのは――ヨウだ。


「大丈夫、俺は大丈夫だから」

「大丈夫じゃない! 馬鹿なまねはやめろよ……!」


 真っ直ぐな長い黒髪が、海水に濡れて束のように彼女の体に張り付いている。それでも彼女はやっぱりヨウだった。言葉遣いもその表情も、チャットから想像するヨウそのものだった。


 白昼夢のように幻が見えた。


 俺は彼女を強く抱きしめていた。折れるくらいに強く彼女を抱きしめていた。限界の力で彼女を抱きしめていた。


 そして幼子のように泣き崩れていた。


「俺、もっと生きたい……! もっともっと他の奴らのように、楽しんで苦しんで、悩んで道を開いて、そうやってしわくちゃになるまで生きたいよ……!」


「こんなに楽しくてうれしいことがある世界にさあ、ずっといたいよ、いたいんだよ!」


「なあヨウ、俺はどうしたらいいんだ! どうしたらこんな気持ちで、こんなふうに冷めた目で世界を見るようになった俺で、生き続けることができるっていうんだよ!」


「助けてくれ、助けてくれよ……。いつもみたいに助けてくれよ……」



 はっとしたところで現実に戻った。


 俺は泣いていないしヨウを抱きしめてもいない。ヨウは俺の腕を掴み俺をじっと見上げている。


 束の間の幻だった。


 小さく息を整える。


「……死ぬために海に入ったんじゃないよ」

「じゃあどうしてっ!」

「海の中で日の出を見たかったから」


「……え?」


「死の世界にいても生を感じることができるのか……確かめたかったんだ」


 彼女の瞳が探るように俺の顔を見て、そしてようやくその両手の力が抜けていった。


「……そっか」

「うん。俺はこんなところでは死なない」

「……そう」

「あのさ」

「なあに?」


 小首をかしげた彼女は、すっかり俺の恋する女性に戻っている。濡れた衣服や髪や、いまだ涙の痕跡のある目の際、それだけしか彼女の変身前の姿を彷彿させるものはない。


 もうヨウはどこにもいなかった。


 プレイタイムはまたも再開されている。


 だから俺は彼女に告げた。


「好きだよ」


 直接見なくても、彼女を突如輝かせた光で、その熱で、生の王者がその姿をあらわしたことが感じられた。




 朝日が昇りはじめた。

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