4.1 もっと生きたい
昼夜逆転の生活をしながら、ヨウとのチャットは続けられる。
夜が嫌いなのに、夜に活動する自分――。
ある日、その矛盾に目が覚めるような鮮烈な衝撃を受けた。
「俺、今気づいた」
「なんで深夜のバイトをはじめたのか」
「自分のことなのに今頃理由が分かった」
「俺は夜に打ち勝ちたかったんだ」
「夜なんて怖くない、そう思えるようになりたかったんだ」
それでも朝日を浴びると歓喜するこの心――。
朝が来て、夜が消えたことを実感するとうれしくなるこの心――。
これはもう習慣なのか、人としての習性なのか。
朝日の下アパートに戻り、ベッドに倒れ込むようにして眠る日々。
柔らかな陽光で満たされた室内には、歓喜のハーモニーが響きわたっている。この喜びを否定することなど――俺にはまだできない。
*
夕方、刺すような西日を頬に感じて起きると、ヨウからの返事がきていた。
『コースケは今も夜が怖いの?』
そうか。そこまで俺はヨウに話していたのか。
そのことに気づき、であれば俺はすべてを語りたくてたまらなくなった。
「そう、怖い」
ピロン、と音が鳴る。
『そこに死の世界があるから?』
「そう、そこに死の世界があるから」
二人の応答の速さは最近ではなかったものだ。ちょうどヨウも授業を終え一息ついていたのだろうか。
『大丈夫』
『コースケは治ったんだから大丈夫!』
『そんなふうに心配しすぎるなよ』
ガッツポーズをとるキャラクターのスタンプも送られてきた。
明るい話題なのか、そうふるまっているだけなのか、画面だけを見ていると当事者の俺ですら一瞬分からなくなる。その隙を突くかのような不意打ちの激情が俺の親指を動かした。
「でもお前が言ったんだぞ」
「誰でも最後には必ず死ぬんだって」
画面上の黄緑色の背景は若草を連想させるが、俺の生み出す言葉はその真逆、枯れゆく老いた樹木のようだ。
「すまない」
「ヨウを責めたいわけじゃない」
「俺が言いたいのは」
衝動のままに続けていた。
「俺の命もいつかは尽きる、それを知ってしまったってことだ」
そして逃げるようにこう締めくくった。
「じゃ、バイト行ってくる」
*
今、俺は世界でもっとも嫌いなシチュエーションにこの身を置いている。
そう、夜の浜辺で一人、どす黒い海のたゆたう様を眺めている。
ヨウには嘘をついたが、実は今日は非番だった。かといって夕方に目が覚めるように体は改造されつつあり、目も脳もらんらんと冴えわたっている。
だから俺は海に来た。
もっとも嫌いな、もっとも憎むべき夜の海と真正面から対峙するために――。
潮風が吹きつけてくる。肌寒さを感じ、ウインドブレーカーの襟元を合わせる。潮の香りは昼も夜も変わらないのに、今こうして肌をなでられるとなぜか鳥肌がたつ。それは寒さのゆえなのか、それとも――。
こういう自分がすごく嫌だ。
何かに意味付けをしてしまい、一人で勝手に結論を出してしまう自分が嫌いだ。
この世界とは何なのか。
朝とは昼とは夜とは何なのか。
太陽とは月とは星とは何なのか。
海とは山とは空とは何なのか。
生とは死とは、人とは何なのか。
ざざん、ざざんと波が寄せる音が聞こえる。黒々とした液体の集合体は、わずかな月光を反射してでろりと輝く。……なんて醜いんだ。醜くて醜くて仕方がない。
空を見上げれば、白く細い月が雲の影で淡く浮かんでいる。星はほとんど見えない。そのどれもが空を覆う雲に隠れている。
だけど、たとえここが満天の星々が降る南の島であっても、俺は夜を、夜の海を好きにはなれないんだろう。
目に見えるものはどうだっていい。そんなものは状況次第で変わる。
夜の本質とは、結局は闇だろう?
夜の海とは、光のささない死の国の象徴だろう?
分かっている。
俺はよく分かっている。
分かっているから、俺はこれまで夜を嫌ってきた。
それでも俺は、今、こうして一人浜辺に座っている。
負けたくない。
いつか、いや、すぐそこまで来ている死に怯えたくない。
今を精いっぱい生きたい。
生きて――大切なことを大切だって堂々と主張したい。
死の存在を何かの理由に使いたくない。
大切に思うことを大切にしたい。
大切にする権利が自分にもあるんだって――そう信じたいんだ。
ヨウのこと。
彼女のこと。
俺にも大切にできる――?
こんな俺でも大切に思っていい――?
*
ひどく長い時間が過ぎていった。
日の出の予兆は、海の向こうの空の色が微妙に変化してきたことで察せられた。
寒さにかじかむ両手に息を吹きかけながら、俺はやけに興奮していた。
これまで日の出をきちんと見たことがなかった。
じわじわと群青色の空に明るい青みが戻り、さらに暖色系に染まっていく。
頼りなげな星々の光は、気づけば向こう側には一つも見当たらない。
細い月は輝きを失い、ただその白色だけで存在している。
コールタールのごとき粘ついた波が、だんだんと本来のさらさらとした透度のある液体に戻っていく。見ただけで清浄そうなそのたゆたう世界――。
気づけば、俺は立ち上がっていた。
そして我を忘れて浜辺を駆け、海に入っていた。
靴が水を吸って重くなったが、それでも向こう側を目指して進んでいった。
ジーンズの裾が、ふくらはぎが、膝が、太ももが、腰が、濡れていく。ずぶずぶと、海に、生と死の狭間に侵入していく。
少しでも近づきたい、少しでもあの向こうにある生者の国に近づきたい――。
生きたい。
生きたい。
もっと生きたい!
生きることだけを考えたいよ!
胸の高さまで海に入ったところで足を砂にとられてよろめいた。
と、後ろからばしゃばしゃと大きく水を叩く音が聞こえ、何者かに腕を捕まれた。
掴まれたその勢いで体がそちらの方向へと傾く。足を一歩前にだし体勢を立て直したところで――俺はそこにいる人物の正体に気がついた。
そこにいたのは彼女だった。
「……木下さん? なんでこんな朝早くに」
空は半分以上が朝の色に染まりつつあったが、彼女の背後、西のほうはいまだ薄暗い。太陽はまだ俺の背の向こうで眠っている。
俺を見上げる彼女は、眉間にしわを寄せ、ぐっと唇を噛んでいた。
俺を睨みつける彼女の瞳に、零れ落ちそうなほどの涙が湛えられていた。
俺の腕を掴む両手にぎゅうっと力がこめられた。
「……コースケっ」
「どうして」
なぜここにいるのか、なぜ俺の名を呼ぶのか。
それらの疑問に答えることもなく、彼女の瞳からぽろぽろっと涙がこぼれた。
「コースケ、コースケ、コースケ!」
指が白くなるほど力強く握られている俺の腕は、血がにじむほどに痛い。だけど彼女はそれでも、これ以上はないというほどの力をこめてくる。
「だめだだめだ。これ以上行ったらだめだ。行っちゃだめだ!」
ぽろぽろ、ぽろぽろ。際限なく涙が溢れてる彼女の瞳。
その瞳が俺にまっすぐに向いている。
怒りと悲しみでないまぜになった彼女の顔。
内気で恥ずかしがり屋の彼女は、今ここにはいない。
今ここにいるのは――ヨウだ。
「大丈夫、俺は大丈夫だから」
「大丈夫じゃない! 馬鹿なまねはやめろよ……!」
真っ直ぐな長い黒髪が、海水に濡れて束のように彼女の体に張り付いている。それでも彼女はやっぱりヨウだった。言葉遣いもその表情も、チャットから想像するヨウそのものだった。
白昼夢のように幻が見えた。
俺は彼女を強く抱きしめていた。折れるくらいに強く彼女を抱きしめていた。限界の力で彼女を抱きしめていた。
そして幼子のように泣き崩れていた。
「俺、もっと生きたい……! もっともっと他の奴らのように、楽しんで苦しんで、悩んで道を開いて、そうやってしわくちゃになるまで生きたいよ……!」
「こんなに楽しくてうれしいことがある世界にさあ、ずっといたいよ、いたいんだよ!」
「なあヨウ、俺はどうしたらいいんだ! どうしたらこんな気持ちで、こんなふうに冷めた目で世界を見るようになった俺で、生き続けることができるっていうんだよ!」
「助けてくれ、助けてくれよ……。いつもみたいに助けてくれよ……」
はっとしたところで現実に戻った。
俺は泣いていないしヨウを抱きしめてもいない。ヨウは俺の腕を掴み俺をじっと見上げている。
束の間の幻だった。
小さく息を整える。
「……死ぬために海に入ったんじゃないよ」
「じゃあどうしてっ!」
「海の中で日の出を見たかったから」
「……え?」
「死の世界にいても生を感じることができるのか……確かめたかったんだ」
彼女の瞳が探るように俺の顔を見て、そしてようやくその両手の力が抜けていった。
「……そっか」
「うん。俺はこんなところでは死なない」
「……そう」
「あのさ」
「なあに?」
小首をかしげた彼女は、すっかり俺の恋する女性に戻っている。濡れた衣服や髪や、いまだ涙の痕跡のある目の際、それだけしか彼女の変身前の姿を彷彿させるものはない。
もうヨウはどこにもいなかった。
プレイタイムはまたも再開されている。
だから俺は彼女に告げた。
「好きだよ」
直接見なくても、彼女を突如輝かせた光で、その熱で、生の王者がその姿をあらわしたことが感じられた。
朝日が昇りはじめた。




