第八十七話 蛇と魔王の約束
雲の間から青々とした空と太陽の光。風がひとつ吹いて砂埃が舞う。
蛇と対峙した私は、やはり石にならず、双眸に見つめられて一先ずは安堵した。
[ フルーレ 憐れなこの俺に また恵みを施しに来たのか ]
私が手にした石板を操り、バジリスクは日本語による筆談を行う。
……どうも私を、フルーレという人物と勘違いしているようだ。
さてどうするか。たしか蛇って耳が無いんだよな。
体が花の根なアルラウネがアレだったし、気にしすぎか。
「一応確認するけど、私の声が聞こえるか?」
[ ああ聞こえている お前の温もりも感じるぞ ]
「そのフルーレっていうのは、魔王のことでいいのか?」
[ ]
……回答が無い。石板が平らになってしまった。
コミュニケーションが取れるのは良かったが、さっきから繰り返しているフルーレというのは魔王の名前のはずだ。
グラディウスがいつか言っていた。フルーレという魔法使いが自分を作ったのだと。戦争の中で救国のために奇跡の魔導器を造り出した一人の魔法使い。それが魔王フルーレだ。
[ 覚えている フルーレは魔王と呼ばれるのだったな フルーレがそう言っていたはずだが まるで他人事のような物言いだな ]
「他人事っていうか……」
[ そうか やはりお前は フルーレではないのだな ]
「うん。私の名前はメイスだ。そのフルーレっていう人が魔王のことなら、たぶん……」
[ とうの昔に死んでいるはずの 遠い昔の者の名だ ]
千年も前の半分伝説の人物である魔王はすでに故人だ。ありえないとバジリスクも分かっているようだ。誤解はすぐに解けたが、心なしか蛇の顔が悲しい色に見えた。
鱗を鳴らしてとぐろを解き、体をうねらせて砂の上をずるずると私に近づいてくる蛇。私の周囲をぐるりと回り、また先の割れた舌をチロチロと出した。
[ しかし似ている 今まで数多の人間を見 石にしてきたが 臭いも 温度も フルーレとまったく同じだ ]
「そんなに似てるのか?」
[ 肯定だ 顔も 声までそのままだ 違うのは髪くらいか フルーレの髪はもっと短く 美しい真白だった 俺はそれを覚えている ]
「……………」
[ 胸の小ささもそのままだ ]
「………何でいらん情報を付け足した?」
イラっとする情報はともかく、魔王って女だったのか。それも私に似ているということは、子供だったんじゃないのか?
なんかイメージでは無闇に妖しい老人か悪魔神官みたいな人だと思っていたが、だとすればかなりの美少女だったのではないか。なるほど召喚された奴らが入れ込むのもわかるような気がする。
[ お前の胸に 俺に似た温度を感じる ]
「……え? あぁ、グリフォンのことか」
着込んだままの真空海月の胸の部分にはグリフォンの爪がある。低燃費とは言えさっきまで飛んでて私の魔力を吸ったのか。
そういえばアルラウネは蛇を見るなり石にされそうになったと言っていた。砂漠の入り口も大量の石像があったし、私以外は自分と同じ魔物すら問答無用なのだろうか?
「こいつはもう死んでるというか、イカの食べ残しなんだ」
[ 弱い温度だ 問題ない ]
そもそも私はずっと疑問に思っていた。
この蛇の目的は何か。
こんな何も無い砂漠に引き篭もって近づく者全てを石にして、一体この場所に何があるというのか。
バジリスクは強欲の魔物でありすでに狂ってしまっているとアルラウネが言っていた。その割りに砂漠に棲んでて何処にも行かない。グリフォンのように世界中飛び回ってもっと多くを求めてもいい話だ。
こうして話してみて危険が無いのがわかっても疑問は残る。人の記憶が残ってるならアルラウネのように人に寄り添ってもいい。ドラゴンもかつてはそうしていたらしいし、見るもの全てが石になるのでなければクラーケンの場合と違って力の加減は出来るということだ。
「バジリスク。お前は人か? 魔物か?」
[ 魔物だ 蛇となったこの身体が 俺の物だ ]
「人間だった頃のこと、どれくらい覚えている?」
[ 全て覚えている 覚えているものは 俺の物だ ]
「そ、そうなのか!?」
やっぱり人間だった頃のことを覚えているようだ!
こうして意思疎通も出来る。人を石にしてしまうのにもきっと理由があるのだ!理由があればいいのかという話はともかく!
[ 覚えているものを忘れるということは 俺の物が失われるということ この記憶は俺の物だ 俺は俺の物を失くしはしない ]
「…………んん?」
やっぱり人間だった頃のことを覚えているようだが……あれ?
なんだろうこのモヤッとした感じ。
「覚えてること聞いていいかな?」
[ 言ってみろ ]
「まず名前は?」
[ 森真哉 日本人だった ]
「年齢は?」
[ 18歳だ 大学受験を控えていた ]
「どこに住んでた?」
[ 東京都葛飾区 ]
「マジで!? 亀有公園って本当にあるの!?」
[ ある 派出所は無いが眉毛の繋がった警察官の像がある ]
………大丈夫みたいだ。大丈夫だよな?
「えっと…、じゃあ森くんとか呼んだ方がいいのか?」
そこまではっきり覚えているのなら蛇の魔物の名で呼ぶのは変かもしれない。アルラウネは人の名を名乗らなかったが、バジリスクはどうだろうか?
[ ]
しかし石板からは平面の返事が返ってきた。
「ど、どうした?」
[ その名はもはや俺の物ではない 確かにかつて俺の物だったが 遠い昔に失われた 失われた物は俺の物ではない 残念だ ]
「……どういう意味だ??」
[ 残っているのは記憶だけ 記憶だけが 俺の物 ]
………、
さっきからこの蛇は俺の物俺の物と繰り返しているけど、違和感の正体はその辺にありそうだ。
「人間だった頃は、どんな奴だったんだ?」
[ 凡庸な高校生だ 部活動には所属していなかった ]
「好きな人とかはいた?」
[ よく話す異性を意識していた 幼馴染だ ]
「部屋にHな本とか隠してた?」
[ 押入れの中にボードゲームの箱に入れて隠していた 人生をテーマにしたゲームで 隠したときは皮肉を利かせたと悦に入った ]
…………そんなことまでもペラペラと赤裸々に、まるで他人事のようだ。
いや、これはおそらく、本当に他人の事なのだ。
この蛇は記憶までも自分の所有物としてしか認識していない。
たとえば他人の情報であっても、自分が知れば自分の所有する情報だというように。
『森真哉』という人間の記憶は『バジリスク』にとって所有物でしかない情報。
『森真哉』という人物は『バジリスク』にとって、もはや他人に等しいのだ。
この蛇は人間だった頃のことを、全部完全に覚えている。
でももう人間であるつもりは全く無いのだ。
「わかった。人間だったことはもういい」
[ もう終わりか ]
「次はバジリスクのことを教えてくれ」
[ 言ってみろ ]
久しぶりの地球の話は正直もっと聞きたいところだが思い出話が目的ではない。
他にも聞きたいことは山ほどある。魔王を知っているみたいだし、砂漠に入る者を石に変えて殺す理由もはっきりさせておかないといけない。
ともかくまずは目的を聞いておかなければ。
「ずっとここに棲んでるのか?」
[ そうだ ]
「寂しくないのか?」
[ 寂しい フルーレが来るまで 俺はずっと寂しかった ]
「ならもっと人里近くに棲んでてもいいと思う」
[ それは出来ない 俺はフルーレとの約束を果たさねばならない ]
「それが目的か。どんな約束なんだ?」
[ その説明は長くなる ]
「聞かせてくれ」
さっきも私を魔王と勘違いして約束という言葉を繰り返していた。石板には最初[待っていた]とも書かれていたな。その約束のために砂漠から動くことが出来ないのか。
それが蛇の目的。
蛇は千年前に魔王に出会ったのだ。
筆談でバジリスクの意思を伝える石板が、魔王と蛇の昔話を綴った。
○
人であった頃の最後の記憶は この異世界に召喚されるときのこと
永遠の先へ引き摺り込まれるような感覚だった とても怖かったのを俺は覚えている
俺の身体は得体の知れない力で引き千切られ 存在から崩れていくのを自覚した
俺の身体は バラバラになった
そして心は 八つにわかれた
覚えている 俺の八つの心
蜥蜴
火
馬
烏賊
鷲頭の獅子
花
蛇
剣
その八つに 俺の心は引き裂かれた
蛇とは今のこの俺のことだ
目が覚めたとき 俺はもうこの姿になっていた
俺の心には欲望だけが残っていた
欲しくて欲しくて 堪らない
目に付く物全て 手に付く物全て 欲しい
世界を丸ごと手に入れたい
この世の全ては 俺の物
俺の物とは この世そのもの
だがしかし どうしたことだ
この世界には 石ばかりしか無かった
地に転がる石
草花のような 石
森の木々も 全て石
空にも雲ひとつ在りはしない
砂塵の雨が降るだけだ
太陽だけが眩く輝いていた
蛇となった俺のピット器官には
この世界には 熱が感じられなかった
俺は石以外の物が欲しい
なのにこの世界には石しか無い
石の世界など もう見たくもない
熱を感じたい 温もりが 欲しい
大きな街を見つけて喜び駆け入っても
そこにあるのは全て石だった
家も城も石
人の形をした石
家畜もやはり 全て石
井戸には水すら無い 釣瓶の形の石が底の石に埋まっていた
ふと悲鳴のような声が聞こえて 急いで駆け付けて見ると
そこには子供の形をした石しか無かった
さすがに気付いた
俺が見たものが 石になるのだ
目を閉じてしばらくすれば 生き物の温もりを感じた
目を閉じていても 蛇の感覚にはわかる
目を閉じたまま熱に跳び付いた
触れた途端に 熱は消えた
俺は絶望した
俺の身体は呪いで出来ているのだ
見える物は 全て石になる
目を閉じて触れても 石になる
どんな物も 石にしてしまう
石
石
石
石
もう この俺の世界には
石しか在り得ない
俺は何も手に入れられないのだ
すぐに 俺は狂ってしまった
手に入らなければ 全て石にしてしまおうなどと
そうは考えられなかった 俺は石以外の物が欲しい
俺は目を閉じ 動くことも 考えることも止めた
俺が石にしてしまった国の跡で 何も見ず 何も触れずに朽ちることにした
石となった国は朽ち果て 砂漠となったが
俺の体は 死ぬことも出来なかった
欲しい
欲しい
全てが欲しいなんて もう言わない
せめて 少しでも温もりが 欲しい
どれほど時が経ったかもわからない
そんな頃 近づいてくる人の温もりを感じた
俺は目を開けなかったが 触れれば何でも石になる
俺に触れるなと言いたかったが 蛇の俺は声すら持っていない
文字で伝えたかったが すぐに捕まった
捕まったのだ
どれほど久しい感覚だったろうか
俺は何千年かぶりに 人に触れたのだ
どれだけ嬉しかったか わかるか
この俺が触れて 石にならない物があった
それがフルーレだ
フルーレは魔法使いだった
俺の石化の呪いを魔法の一種だと見抜き その魔法を封じる術を教えてくれた
フルーレとの出会いは 俺にとって福音だった
フルーレは俺にこの世界のことを教えてくれた
俺にとって フルーレが教えてくれたことが この世界の全てだ
この世界を救いたかったと
フルーレは 泣いていた
どうしてこんなことになってしまったのだ
みんな私が悪いのに たくさんの人を死なせた
そう言ってフルーレはいつも泣いていた
俺が慰めると 笑うんだ
お前の憐れさよりマシだから大丈夫だ と
フルーレは追われているようだった
奇跡の剣を振るう魔王として 人間に狙われていた
剣の力で召喚した地球の人間も ほとんどが死んだ
生き残った仲間も 剣を持って去ってしまったらしい
いずれフルーレは追っ手に殺される
それを自業自得だからと フルーレは受け入れるつもりだった
だが死ぬ前に 仲間に持ち去られた剣の心配をしていた
フルーレは後悔していた
剣に心を与えてしまったと
剣を持ち去った仲間は 剣を封印するつもりだ
心を持った剣は永遠に一人ぼっちになってしまう
そんな孤独に 剣の心は耐えられない
いつか必ず
剣は 狂う
そのとき剣に施したフルーレの魔術は 意味を失う
剣はその力を 自分のために使うだろう
きっとまた 異世界から人間を召喚する
また関係の無い人が不幸になる
それだけが心残りだと フルーレは泣いていた
そして俺も いつかまた狂う
そうなれば石化を封じる術は使えない
また全てを石に変え 熱の無い石の世界に戻る
フルーレがいなければ もう俺は耐えられない
だからフルーレは 俺と約束をした
いつか必ず 異世界から
地球から人間が召喚される
封印された剣を この世界に解き放つ
剣が封印された場所はわからない
いつどこで召喚が行われるかもわからない
だからフルーレは手紙を書いた
いつか召喚される地球の人間にそれを渡す
何百年後か 何千年後になるかもわからないが おそらくフルーレはそれまで生きられないだろう
だが俺は 何万年でも生きられそうだ
俺はその手紙を預かっている
人間が奇跡の剣の秘密を探ろうと
この手紙を狙うだろう
だから 俺が守る
その日がくるまで
近づくものは 全て石にする
そうだ
地球から来たお前に その手紙を渡せば 約束は果たされる
そのときこそ 俺の欲しいものが手に入る
いつか俺が狂ってしまえば 俺は全てを石にしてしまう
だから けして石にならない物が欲しい
それをフルーレはくれると言った
俺はもう 全てが欲しいなんて言わない
せめて少しでも温もりが欲しい
たった一つだけ 手に入ればいいのだ
俺が欲しくて欲しくて堪らないもの
フルーレの温もり
フルーレの 心だ
熱の無い石の世界で フルーレの温もりだけが全てだった
俺にとって フルーレの心が この世界の全てだ
それが 今日こそ俺の物になる
この世の全ては 俺の物
俺の物とは この世そのもの
○
話が長いので聞くしかなかったが、冒頭に聞き捨てならない情報があったぞ?
蜥蜴、火、馬、烏賊、鷲頭の獅子、花、蛇、そして、剣?
[ フルーレの手紙を渡そう それで約束が果たされるのだ ]
「いや、それはいいんだけど……」
[ ずっとこの日を待っていたのだ ずっと俺は待っていた ]
「…………」
剣はともかく、この蛇はずっとこの砂漠で孤独を感じていたようだ。
魔王や魔族たちがいたのが、千年前。
それ以前に、魔物たちが召喚されたのが、五千年前。
そんな途方も無い時間を、たった一匹で過ごしてきた。
バジリスクは魔王の魔術で石化の毒を制御しているのか。それ以前は本当に、見るもの触れるもの全て石にしてしまう身体だった。それはつまり石以外の何も見れない、石以外の何も触れない牢獄ということだったのだ。その孤独は計り知れない。私だったら3日ももたない。
孤独な蛇を、魔王は救ったのだ。
蛇にとってその魔王との約束は、絶対的なものなのだろう。
[ こうして人間と話すのも久しぶりだ 会話の機会すらも 俺は欲しくて堪らなかった ]
「話すだけならいくらでも話してやるよ。私でよければ」
[ うむ だが説明は終わりだ まずは手紙を受け取れ ]
「……わかった」
体をうねらせるバジリスクの鱗が音を立てる。
私は魔素の揺らぎを感じた。
四角く割れた砂の地面が、その手の秘密基地の入り口のように開いていく。
さらさらと砂を落としながら開いた穴の下から、石舞台が昇ってきた。
どんどんと高く昇り、私の身長を越えたところで、四角い大きな『箱』が出てきたのがわかった。
サイの馬車ほどの四角い石の箱。
砂の下に隠された蔵か。
バジリスクの話ではこの中に魔王の手紙が保管されている。
巨大な石の立方体の一面に、ピシリと音がして私の目の前で入り口が開く。中に入れそうだ。




