美津子の事情
彼は私を見た一瞬で顔を綻ばせ、すぐにサーベルを鞘に戻した。
「ああ、危機一髪はあなただったのね。あなたが美津子さんに怪我させてでもいたら、ああ、考えるに恐ろしい。美津子さん、あなたはどうしてここまで私を憎まれるの?」
美津子はゆっくりと私に振り返った。
そして、聞いた事もない低い声を出した。
「お前を好いた事などないよ。」
それから彼女は真っ直ぐに私の前に来ると、躊躇など一片もなく腕を振り上げて私の頬を叩いた。
大きな音が鳴り、私は痛いと感じるべきであるが、驚くばかりで立ち尽くすしか出来なかった。
いいえ、意外と冷静な部分があって、私は無意識に近い状態で右手を動かしていて、衛に大丈夫だという風に右の手の平を見せていた。
「ああ!憎い!真っ直ぐな髪、頬骨の無いつるんとした顔!」
「え?」
「女の嗜みも知らないくせに、お前はいつだって幸せいっぱいだ。お前は私が欲しいものを全部持っている!私は自分で手に入れなければならないものを、お前はいつだって何の苦労もせずに手にしている!利秋様はお前しか見ていないし、お前の言葉しか大事じゃないじゃないか!」
美津子の言い分には驚くばかりだ。
利秋様と本の感想を対等に言い合える彼女に、私はどれほど彼女になりたいと憧れを抱いたのだろうか。
私が本を読んで編み出せる感想など、利秋様が二重丸を与えて頭を撫でる程度のものばかりだったというのに。
「美津子さん。あなたこそお兄様には盟友の様な間柄でしたでしょうに。私なんていつまでたっても十歳児の扱いじゃないの!私だってあなたとお兄様が喧々囂々と論争を交わす姿を羨ましいと思っていたのよ!」
「いえ、りほさん。女が恋した男に欲しいのは甘やかしの方ですって。」
こそっと、しほ乃が私に囁き、私は甘やかしですぐに衛が頭に浮かび、この状態ながら衛の顔を盗み見てしまった。
まあ、なぜか私に微笑んで見せたわ。
本当に、恋した男には甘やかされたい、そのとおりね。
私は美津子を再び見返した。
彼女は利秋様を一途に想い焦がれている哀れな女?
いいえ、違う!
結婚したら夫に誠実を貫くものでは無くて?
「美津子さん!過去の私への憤懣はわかりました。でも、あなたは今はブラウンさんがいて幸せだったのでは無いの!あんなにもブラウンさんの事をのろけて下すったじゃ無いの!」
美津子はうわあああ、と大声をあげて頭を掻きむしると、その髪が振り乱された格好で私に掴みかかって来た。
西洋女性のように彼女の細かい巻き毛の髪は、ひと房が落ちただけで次々と髪を押さえるピンを弾け飛ばし、長い髪は彼女の身体を巻き付くように広がった。
まるで、悲しみを泣き叫ぶバンシーというエゲレスの妖精のようだ。
「どうして!あの部屋に向かわなかった!友達なんでしょう!どうして私と同じ思いを受けてくれなかったのよ!」
「美津子さん?」
美津子は私を突き飛ばして尻餅をつかせ、その私に再び手を上げようとしたが、その手を今度は振り下ろせずに、だが、その憤懣をぶつけるかのようにして、きええええいと声をあげてテーブル上のグラスなどを全て薙ぎ払った。
琥珀色の酒が注がれていたグラスは床に落ちて、……割れなかった。
江戸切子、強い。
しかし、グラスが割れなかった事がさらに美津子の怒りを煽ったのか、彼女はそのグラスを掴みあげ、そのグラスを持った腕を私に振り上げた。
「お前ばっかり、ああ!お前ばっかり!」
「いい加減におしよ!」
私はしほ乃に咄嗟に後ろに庇われた。
「しほ乃さん!」
私を庇ったしほ乃の顔に、美津子が振り回したグラスがぶつかることは無かった。
美津子の剣幕に呆気に取られてしまったとはいえ、ここには戦い慣れた男がおり、彼が美津子の腕をすんでのところで押さえてくれたのだ。
「お前は何がしたいんだ?本気きりまを傷つける気など無やろ?お前の動きは俺にりまを庇わせようとしちょっだけじゃなかとか?俺を煽った時のお前は本気じゃった。本気で俺に斬られようちゅう心構えの顔じゃったな。」
「旦那。そのお嬢さんは死ぬつもりだったと思いますよ。それで、りまさんを傷つける気持も本気ですね。旦那に暴れて欲しいのが目的でしょうからね。」
衛は美津子を拘束したまましほ乃に振り返り、しほ乃は自分の帯紐をしゅるっと解くと、それを衛に差し出した。
「楽な椅子に座らせた状態で、自分を殺さないように縛ってあげてくださいな。このお嬢さんには赤子がいるらしいですからね。」
ここでうわっと美津子は泣き崩れた。
私は泣き崩れた美津子の姿に、ようやく彼女の身に何が起きたのかぼんやりとだが理解しかけていた。
愛する衛の子を宿していたら、私は絶対に死のうなんて思わない。
私と同じ思いを受けさせたいと言った美津子。
私を向かわせようとした場所は、しほ乃に言わせれば妙齢の女性が近づいてはいけない身を持ち崩した男性の部屋、だ。
私は自分を酷い目に遭わせようとした女性に怒りなんて抱けなかった。
彼女が可哀想だと、涙が次から次へと零れていた。
なんて、酷い、と。




