久しぶりの兄とのひと時ですのよ
明治六年、五月に入ったばかりなのに夏を感じる様な一日だった夕方。
私は自室でお出掛け着に必死になって着替えていた。
最初は着ている着物のままでいいと兄は私に言いかけたが、女中たちに率先して床掃除をしている最中の私は、思いっきり床拭きをしたいと作務衣姿だったのだ。
仕事帰りの海軍制服の兄と、作務衣姿の私では、少しどころかおかしな取り合わせだろう。
だからこそ兄は私が着替える事を望み、それどころか珍しく私の着替えを追い立てた。
そんな兄はいつもは過保護だ。
私が外に出る時には必ず警護の者をつけ、それどころかどこに行くにも馬車を使えと来たものだ。
元一般庶民?いいえ、父は道場主だったから一応士族となるのかしら。
でも、藩主に近いご身分の桐生家と比べれば庶民でしかないわね。
それに、道場主の父に剣術指南も受けていたし、……八歳までのたった二年の手習いで、その後は一人でこっそり竹刀を振っていただけだけど、ええと、そこらのお嬢様みたいに過保護にしてくれなくても大丈夫だと思う。
思うのだけど、私はそんな事を兄には言えない。
だって、この過保護な環境って、兄が私の事をとっっっても大事に想っているからでしょう?
私はその事実だけで、兄に会えない日数を笑って過ごせるのよ!
兄様は有能過ぎて、いまや海軍士官、若き少佐さまなのだ。
そんな私の自慢の兄が、私を大事に想っている!
何度も言っちゃいたいくらい、その事実が私の生きる糧でもあるの。
「りま!支度はできたのか?」
襖の向こうで兄が私に声を掛けて来た。
彼は私が初潮を迎えた十二の頃から、私の部屋には一切立ち入らなくなっただけでなく、私と二人きりとなることを避けるようになったのである。
ああ、面倒な西洋の男女ルール。
日本の男は女性と二人きりになったからと言って、これ幸いと襲うようなケダモノではございませんのよ!
風呂屋は今や男女に別れているが、江戸の時代は混浴でございましたのよ!
「りま?」
「できましたわ!何時でも出発できてよ。」
兄は私の姿を上から下へと眺めた後、私に腕を差し出した。
西洋のドレスは窮屈で嫌いだが、この西洋のルールだけは大好きだ。
兄の、利秋様の腕にしがみ付ける、これは至福のひと時では無いだろうか。
さてさて、兄と一緒に屋敷の外に出て見れば、私はとても驚くこととなったのだ。
兄のルールでは、個室と言える場所に私と二人きりになることを避けるのが当たり前であるのに、兄は付添無しで私を馬車に乗せ込んだのだ。
私と馬車に乗れると用意してきた女中頭のタキはそれはもう驚いた顔で、けれど、情況をいつも熟知している兄はタキに微笑んで見せた。
「直ぐに戻る。近所を一周するだけだ。」
なんの弁解も説明もしない所が利秋様なのだが、タキは兄に憤るどころか、彼が自分に向けた笑顔にただただほだされていた。
わかりますわ。
お兄様が笑顔を大路に向ければ、聖書にあったモウゼ様が海を割ったかのようにして、通りにいる人々が道を開け道に這いつくばってしまう程の威力がある素晴らしさなのだもの。
ええ、私だってその笑顔を向けて欲しいと毎日望んでいます程ですわ。
しかし、素晴らしき男、兄様は無情でもある。
タキが一歩下がるや馬車の扉をすぐに閉め、持っている杖を馬車の床に軽く打ち付けた。
これは御者への出発の合図でしかないが、いつもの兄様の所業ではない。
彼はいつも御者に、出るよ、や、頼むよ、なんて、気さくに御者へと声を掛けるのだ。
「兄様、本当に珍しくていらっしゃる。」
「君を不安にしてしまったかな。でも私にも緊急事態なんだよ。」
馬車はほんの少しだけ走り、すぐに動きを止めた。
すると、向かいに座る兄は右手の指を立てて窓を指し示した。
「どうかなさって?」
「あっちの河原で陸軍の者達が訓練をしている。その中に頭一つ抜けた独活の大木がいるだろう。そいつを見てはくれないか?」
兄にしては何て酷い言い方だと思いながら、私は窓から兄が指し示した方角を見つめた。
「ま、まあ!裸の方が!」
「そう。その目立つ男はどう思うかな、君は?」
私は兄を見返した。
彼は私から顔を背けており、頬のあたりは珍しく赤みがさしている。
「ま……あ。」
私の脳裏に女中たちの噂話が蘇った。
兄様が今だに結婚をされないどころか女遊びもされないのは、男色家という女性に興味がないお方だから、という噂話だ。
私は再び河原を見返した。
着物から両肩を抜いて上半身を裸にしている男は、他の兵士達と比べても頭一つ分ほど背が高い。
しかし、そんな大男でもみっともないどころか、悔しい事に、日本に滞在しているイギリスやフランスの男性と比べても引けを取らない見事さなのだ。
それに、それに、あの額から鼻筋は石膏像みたいではないか?
あんなに彫りが深くて、あれが純粋な日本人だと?
でも、そうだ、あの人も美しいのだ。
洗練という言葉で出来上がった兄と並べて遜色ないほどに!
「りま?」
「あ、あの。素敵な男性だと思います。」
大きなため息が馬車を満たし、私は何が起きたのかと兄を見返した。
どん。
兄は持っていたステッキの先を、今度は馬車の床に穴が開くほどに叩きつけた。
馬車はそれを合図に再び走り出し、私は兄が無言になってしまった理由が考え付かなくて、泣きそうになるほどの重苦しい馬車の旅を初めて経験した。
1873明治6年5月。
これが本編開始の時代となりますので、わかりやすく文頭に記載しました。
りまは18歳です。
利秋に引き取られた時は八歳で、まだ動乱な江戸時代となります。




