43 ラブストーリー無常
夜勤明けの入浴は格別だ。雨宮糸子は濡れた体を拭きながら心地よい溜息をついた。
正確には、夜勤明けの風呂あがりが格別なのか。拭き終えたバスタオルを体に巻き付けながら、雨宮糸子は考えを改める。
助産師歴は最早ベテランの域ではあるのだが、やはり命の責務というのは無意識であろうと常に緊張感が付き纏うもの。心身共に解放されるこの瞬間が、雨宮糸子至高のひとときであった。
時刻は午前十時。通学用鞄とローファーの不在から、娘は学校に行ったのだなと推測する。
娘の学業や素行には口を出さないのが雨宮糸子の方針であり、不貞や非行を疑ったことも無ければ、事実娘に信用を裏切られるような真似をされたことも無い。
少々特殊な母娘関係は至って良好であり、実の親子以上に信頼関係を築けている自信さえあった。
とはいえ、先日娘が連れてきた『友だち』に関しては、正直安堵してしまった。
生真面目かつ思慮深い。少々他人の顔色を窺い過ぎな点も垣間見えたが、実に礼儀正しい少女だった。
娘のあの性格上、強烈もしくは強引もしくは強硬……つまるところ、手荒な友人関係を強制していたのではないかとも考えたが、娘と彼女のやり取りを見る限り、バランスは取れているように思えた。あれはあれで、彼女たちなりに馬が合っているのだろう。多少の手荒さは否めなかったが。
何にせよ、娘が初めて招待した友だちだ。母として喜ばしいことには違いない。
風呂あがりという解放感も重なり、今まさにこの瞬間は、雨宮糸子にとって心穏やかな時である、
――――はずだった。
出来過ぎたタイミングで騒ぎだす着信音。
一瞬にして穏やかではなくなったのは、そのタイミングだけのせいではない。せわしく画面表示が報せてくる相手は、
着信 一ノ瀬 旭
「…………。」
雨宮糸子は不機嫌に応答表示に触れた。
「…………なに、」
開口一番ぶっきらぼうに応える。
「よーうマイスイートハニー。」
「切るわよ。」
電話口から軽薄に流れ込む愛の言葉を一刀両断すると、一ノ瀬は待て待て待てと慌てふためいた。雨宮糸子の心底うんざりした溜息の音を合図に、一ノ瀬は仕切り直す。
「真剣に考えてくれたか? ライフプラン。」
軽いノリを残しつつ、芯のある声で問いかける。
ライフプラン……。雨宮糸子は不機嫌を増して思い出す。
先日、彼がわざわざ東京を訪れてまで持ち掛けてきた『例の話』か……
あの時は話の冒頭のみで激昂し、ブチ切れマウントポジションを取ってやったというのに……懲りない男だ。
「あのふざけた話なら、聞く気無いわよ。」
雨宮糸子は突き放すように拒絶した。
「ふざけてなんてないさ。大真面目だ。」
反射的に雨宮糸子は察する。悔しいことに察せてしまう。
長年の関係と彼との時間が囁く。一ノ瀬のこの語調、この声、この呼吸は、紛れない真摯。彼は大真面目だ。
「糸子、もう悠長なことは言ってられない。」
軽薄の色を消した一ノ瀬は、さらに強固な芯を声の真ん中に立て、
「アメリは一ノ瀬が引き取る。」
力強く言い切った。
「馬鹿言わないで。あたしもあの子も納得できるわけないわ。」
不機嫌の域を超えた敵意をむき出して、雨宮糸子は言い返す。
「あいつはおまえが思っているより物分かりの良い子供だよ。事情が解れば、すぐにでも俺のところに来るはずだ。あいつ自らな。」
彼なりの説得なのか、事実を述べているにすぎないのか、どちらにしても雨宮糸子を言い伏せるには充分すぎる言葉で、一ノ瀬は追い討ちをかけてくる。
「……あたしたち母娘を見縊らないで。」
「冷静になれ、糸子。」
電話越しに伝わる沸々とした憤りを一ノ瀬は自然と感じ取る。これもまた、長年の関係。彼女との時間。
(……あー……完全にブチ切らせちまうなあ……)
諦めにも似た覚悟で腹を括った一ノ瀬は、
「おまえはあいつの母親じゃない。」
臆することなく一撃を撃ち込んだ。
スマートホンを握る右手と唇を噛みしめる歯が、同時に力をこめる。
「あんただって、もうあの子とは親族でもなんでもないじゃない。」
雨宮糸子は声を荒げた。
「でも血縁だ。」
一ノ瀬は冷徹に言い返す。
「俺には、アメリを護ることができる。
少なくともおまえよりはな。」
残酷なほどに、雨宮糸子を論破する。
次の反撃は雨宮糸子による一方的な通話終了だった。反撃であり最後の一手。しかしそれは勝利には程遠く、スマートホンを投げ捨てた彼女に残ったのは、治まらないほどの憤りと、現実を知らしめる敗北感だった。
「……あの子は……あたしの娘よ……」
突き立てられた現実に、尚も抗うように呟く。
「あたしは……雨理の、母親……よ。
母親……なのよ…………ねえ?」
娘のいない、たった独りの部屋で、
「…………ひので……」
雨宮糸子は声を震わせた。
さすがに地雷だったか……
強制終了されたスマートホンを手に、一ノ瀬は天井を仰いだ。
「今のはさすがにヤバいんじゃない? 完全地雷だって。」
背後から、心境を読み取られたかのような指摘を受ける。きまり悪く振り向くと、一連を傍観していた弟が、意地悪く頬杖をついていた。
「珍しいな、おまえが糸子の肩持つなんて。」
「うっわ。それ本気で言ってんなら、本格的に頭湧いてるよ?」
「冗談だ。」
肩をすくめる一ノ瀬へ、弟はふんと鼻を鳴らした。
「おれはあの糸子がどうなろうと知ったこっちゃないんだけどさー、」
心底つまらなそうに、投げやりに吐き捨てる。
「きみはそうじゃないでしょ? 可愛い姪っ子も護りたいし、雨宮糸子を犠牲にもしたくない。修復不可能レベルに嫌われようとね。」
一ノ瀬旭の隅々を、容赦なく見透かす。
「……。
……ったく損な役回りだよ。こっちは高校時代から糸子ちゃん一筋だっつーのにさあ。」
「あはー。腹立つー。」
前髪をかき上げて嘆く一ノ瀬を、弟は笑い飛ばした。
「で、強行すんの?」
そしてすぐに含みのある言いぐさで意地悪く聞く。
「当たり前だろ、」
天井を仰ぎ前髪をかき上げ、両手で両眼を隠したまま一ノ瀬は答える。
「これ以上、芹澤るるなに滅茶苦茶にされてたまるかよ。」
激情に満ちた声を、淡々と落とす。
「あはー。こっわ。」
弟の反応に薄く笑った一ノ瀬は、「買い出し行って来るわー」と背を向けたまま手をひらひらさせ、出て行った。
一ノ瀬が退室した部屋でひとり、弟は所在無くぼんやりと息をつく。
「おれにはあの人、そこまで極悪人には見えないんだけどなー……」
……ま。嫌いだけど。
聞かれるわけにはいかない独り言に言い訳するように、こっそり補足した。




