29 ラブストーリー途上
“東京アリーナ火災”
七年前の11月28日。
アイドル声優、芹澤るるなのラストライブが行われていた東京アリーナにて起きた、大規模火災事故である。
突如としてアーティストとしての引退を宣言した一度きりのラストライブには、賛否両論を経ながらも多くのファンが殺到。ファン、関係者を含むおよそ17000人が巻き込まれる大惨事となった。
主な出火場所は楽屋出入口付近とみられており、来場者の避難経路確保に問題はなくアリーナ自体の消失も免れたものの、重軽傷者300人以上死者2名と多大な犠牲を出してしまう。
出火原因は不明。
るるなのファンの過激さから人為的な可能性も否めなかったが、その形跡は見当たらず、出火元が関係者のみの区域だったため運営側の過失が疑われたが、これもまた確証がなかった。
それにより、様々な憶測が出来つつも判明しない消化不良からか、バッシングの矛先は言わずと知れた炎上アイドル、芹澤るるなへと向けられる事となる。
否、
正確には、『我儘な芹澤るるな』に、世間は憤ったのだ。
死亡した二名の犠牲者、
うち一人は、予てからるるなが『絶対条件』として同行させていたお抱えのスタイリスト。
そしてもう一人は、当時の同事務所所属の、十六歳の新人アイドル。
スタイリストのほうは、本来ならば当日担当ではなかったものの、るるなの指名により急遽手配されたところ事故に巻き込まれ、
新人アイドルのほうは、出番を渋るるるなの前座……いわば時間稼ぎとして予定以上に長くステージに上がり続けていた事が原因となり逃げ遅れた。
つまり、本来巻き込まれなくて済んだはずの二人が、芹澤るるなの我儘によって理不尽に命を落としたのだ。
片や家庭を持つ身、片や十六歳という若すぎる命。二人を差し置いて、真っ先に救助された芹澤るるな。
大規模な惨事に、多大なる犠牲、原因不明という消化不良。
事務所共々、お咎め無しの、芹澤るるな。
『そもそも、説明もなく急に引退宣言、しかもラストライブが一公演のみという事に問題があったのでは?』
『自身のファンの過激さを考えればもっと警戒しておくべき』
『スタッフや後輩を差し置いて真っ先に助けられる意味がわからない』
『芹澤るるなの我儘が無ければこんな事故起こらなかった』
『すべては芹澤るるなが招いた事』
『すべての元凶は、芹澤るるな』
『芹澤るるなが、二人を殺した』
世論は容赦なく、辛辣で、正義にあふれていた。
誰もが正義の刃を、芹澤るるなへ振り翳し、突き立てた。
その刃に、人知れず滅多刺しにされている少女がいるなど、誰が思っただろうか。――――
わたしのおかあさんは ひとをころした
自分勝手で わがままに 迷惑をかけて ひとをころした
テレビのひとが言っている
芹澤るるなは悪いやつだって
みんなから嫌われているって
学校のともだちも 近所のおばさんも 街中の知らないだれかも
みんな 芹澤るるなが嫌いだって 悪い女だって
人殺しだって
わたしの
ないしょの おかあさん
芹澤るるな
“「カレン、」”
……っ
“「大丈夫だよ。私は、ルナを悪く言ったりしないから。」”
……あなたは
あなたは…………誰……――――
他人の家で寝っ転がる。ラグの毛ざわりが心地よい弾力で、背面と後頭部を包み込む。見上げた先の天井には、長方形を三つ重ね合わせたデザインの照明が、見た目ばかりではないぞとばかりにリビング全体を明るく照らしていた。
(昨日は気づかなかったなあ。こんな、おしゃれな電灯。)
暢気に思う一方で、家主公認とはいえ、家人不在の余所宅でこんなにも堂々と寛ぐのはいかがなものかと、果恋はそれなりに考えだけは弁えていた。
だからといって、この上等なラグから起き上がるつもりなど更々なかったのだが。
頭ではわかっている。
糸子から好きに寛いでいてくれと言われた。アメリから念のためと鍵まで渡された。実際、行き違いがあったのか帰宅してもアメリは外出中で、預かっていた合鍵を使って雨宮家に立ち入り、今こうして寛いでいる。
そんな前提があったとしても、やはり昨日初めて訪れた他人の家でやるべき所業ではない。
しかし、体が弁えてくれないのだ。
頭でわかってはいても、体が言うことを聞かない。
疲れた。とにかく、今日は疲れた。
気だるげに、重力に身を委ねたまま、妹から渡された例の宣伝ポスターをかざす。
賑やかなアニメ絵よりも、大々的な映画のタイトルよりも、目につくのは『芹澤るるな』の印字。並びにして三番目……たしか、サブヒロインって言ってたな。信五さん、正ヒロインより人気だって喜んでたけど、それって、どうなんだろ。いわゆる、「おいしい役」ってやつ?
普段アニメを観ないわりにやたら考察してしまうのは、果恋なりの気の紛らわせ方だった。
(たしかに、バタコさんよりメロンパンナちゃんのほうが人気ありそうだし、「おいしい役」って感じだしな……ん? そもそもバタコさんってヒロインか?)
絞り出す例えが的を射ているかはともかく、気を紛らわせるには充分だった。
(いや、人気だけでいうならドキンちゃんのほうがありそうだけど……でも敵だしな。まあ、「おいしい役」には関係ないか。敵とか、味方とか。)
しかし、紛れても、紛らわせても、結局最後にはたどり着いてしまう。
(「おいしい役」で、完全復活……か。)
疲労と憂鬱に、たどり着いてしまう。
宣伝ポスターの並びにして三番目、芹澤るるなの印字を、みつめてしまう。
芹澤るるな。
アイドル声優。信者とアンチ真っ二つの、お騒がせ声優。悪評尽きない、炎上アイドル。
七年前の事故の、元凶。
私の内緒の、お母さん。
身をもって知る、傲慢さと理不尽さ。高圧的な態度。
欠片も与えられない愛情。
そんな彼女が、母が、芹澤るるなが、
もうすぐ、復活する……――――
「――――おはよー。って起きてるじゃん。」
転寝しているわけではなかった。そもそも眠気さえ無かった。それなのに、アメリが天井を遮ってきた瞬間の記憶が無い。体感的には、彼女が突如として視界に現れたようなものだ。
「ちぇー。目覚めのキッスでもぶちかましてやろーと思ったのに~。」
「……帰ってきてたんだ、」
気だるいまま、果恋はつまらない返事をした。
「ただいまーって言ったのに全然反応ないんだもん。せっかくの新婚プレイが台無しですよ、もう。」
「うん……おかえり。」
また、つまらない返ししかできない。
まいったな。
いつもどおりに、いかない。
「あのねあのねっ、錦糸町寄ったから『らぽっぽ』のアップルパイ買ってきたよん。コーヒーいれよー。」
「きのうの、」「ポエム、」「まだ余ってるじゃん。」……そんな簡単な言葉さえ出てきてくれない。果恋の表情は固く憮然と、唇は麻痺してるかのようにうまく動かなかった。
いつもみたく、アメリとの平常運転に乗ることができない。
「じゃじゃじゃ! アメリ着替えてきちゃうねー……ん? これ……」
麻痺のせい、だろうか。
無防備に置いていた例の宣伝ポスターをアメリが拾い上げようと、制止できなかった。
ポスターをじっと眺めるアメリを、果恋はぼんやり眺める。
「それ……母親の、今度の仕事。」
そして観念するように、口を開いた。
「……もしかして、カレンちゃんの、ママ、って……」
あーあ。
気づいちゃったか。
そりゃ、その演者で世間一般にも浸透してる声優なんて、そいつだけだもんな。
そりゃ……そんな表情にもなるよな。知られた、名前だもん……
珍しく真顔で、ポスターを眺め続けるアメリに、果恋は本格的に観念した。
「うん、
……芹澤るるな。」
一般的にも有名な、あの事故の元凶を、母だと告げる。
「…………。」
「ごめん、黙ってて。」
アメリに何かを言われてしまう前に先手を打った。
怖い。
先手はきっと攻撃だった。防衛手段という名の先制攻撃。
怖い、ただただ、怖い。
彼女に軽蔑されるのが、芹澤るるなの娘だと、白い目を向けられるのが、
アメリに嫌われてしまうのが、怖い。
批判も、悪評も、バッシングも、母を通じた滅多刺しになんて、慣れっこだったはずなのに。
はるか昔から、諦めきっていたはずだったのに。
アメリにだけは、きらわれたく、ない …………
「そっかあ、有名人だね。」
ほんわかと、甘い声が耳を包む。
目を凝らした先で、ポスターを手にしたまま、アメリはいつものあどけない笑顔を華やがせていた。
「……うん。……あの事件で、有名人……」
痺れる唇で、声を絞る。
「…………ごめん。」
絞り切った末で、小さく謝罪する。
「そりゃあ言えないよ。しゃーないしゃーない。」
昨夜の一ノ瀬と同様、アメリは果恋に比べ温度差のある態度でけろっと笑い飛ばした。
「……引いた?」
まだ半信半疑で果恋は聞く。
「ううん。全然。驚きはしたけどねー。
そかそかー。トキジの元カノってば芹澤るるなだったのかあ。さりげに超スキャンダルじゃない!? うきゃー!」
とたんに感情が込み上げた。
眩しい笑顔に胸が締め付けられる。
自暴自棄に観念していた己を恥じる。わずかにも彼女を、アメリを疑った懸念を悔いる。一瞬で浄化された不安に、解放された恐怖に、取り戻した安らぎに震えが止まらない。
心臓の奥から喉元に逆流してくる、喜怒哀楽の暴力。
感情は間を置かず吐気に変わり、堪えようものならば瞼の奥にまでせり上がり、視界を潤ませた。
「アメリ……ごめん、」
湿り気を帯びた声を、果恋は震わせた。
「だから、いーてば~。気にしないで――――」
「違うんだ。」
軽く受け流すアメリへ即座にかぶせる。なあなあになど、できない。
するわけにはいかない。
今日だけは、彼女のニーズに甘えるわけにはいかない。
浄化された不安。解放された恐怖。それだけではないのだ。
アメリへどうしても、謝罪として吐露しなければならない感情が、残っている。
「わたし……なにも……言い返せなかった……」
七年前の事故などどうでもいい。芹澤るるなを母に持った運命もどうだっていい。
「私だけなら……慣れてたんだ……いつもの、ことだし……母親、あんな人って、もう、わかってるし……わかってる、し……」
つらかったのは、悔しかったのは、母から受けた仕打ち。
「だけど……あんたとか……朝丘さんとか……
あんたたちが……つくった、「私」を……否定されて、さんざん、言われても……何も、いいかえせなかった……」
アメリを、朝丘を、蔑まれた悔しさ。
言い返せなかった不甲斐なさ。
大切な存在を護れなかった情けなさを、果恋は大粒の涙と共に、ぼたぼたと零し落とした。
「ごめっ……ん……」
涙が止まらない。一度あふれ出してしまうともうどうすることもできない。
湿り気の帯びた声はやがて嗚咽となり呼吸さえ怪しくしてしまう。
しゃっくりを合間に挟みながら、子供のように泣き出した果恋のオレンジ髪に、華奢な手が乗る。まずは右手、続いて左手。果恋の頭に乗っかった両手が、そのままごく自然とアメリの胸へと抱き寄せた。
ぽふん、と、心地よく柔らかな圧力をこめる。果恋は無抵抗に、その慈しみに準じた。
「……アメリさー、」
胸元で果恋を捕らえたまま、アメリはいつもの調子で声を放った。
「蛇はヘーキなんだけど、蛙はムリなんだよね。」
…………は?
「蛇はさー、魚的なくくりで見れなくはないけど、蛙は蛙以外のジャンルに分けらんないじゃん? あっ。あと、ウサギは平気だけどハムスターは無理。」
ゆたかな膨らみの、心地よい弾力。あふれる慈愛と少々のいかがわしさに密着している日生果恋の表情は、おそらく、一言で表すならば、
「…………?」
ぽかん、としていた。
ぽかんと疑問符を浮かべ、おのずと涙は引く。
何の話をしているのだこの女は。突然。
アメリは果恋を抱きしめたまま、お構いなしで喋り続けた。
「アメリ的にはー小動物の範囲ってギリ兎までなんだよねー。ハムスターまで小さくなると虫と同じ扱いってゆーか~。」
「……ちょ……ちょ、ちょっとまって!」
「ほい?」
さすがに慈愛&弾力&少々のいかがわしさを堪能し続けるわけにもいかない。
何の話をしているのだこの女は? 果恋は押し返すようにアメリから身を離した。
「いや……なんの話してんの?」
至極まっとうに聞く。
アメリはきょとんと小首を傾げ、人差し指をたてた。
「だからー、苦手な物は苦手じゃん? んで、誰にだってどーーーーしてもだめなモノって、絶対あるじゃん?」
こちらもまた至極当然な言いぐさで、するすると説明してくる。
「カレンちゃんにとっては、それが母親だったってだけでしょ?
しかたなくない? 反論できなかったって、謝らなくてよくない?」
まばたきが出来なくなったのは、泣きたての潤んだ眼に不必要だと、身体機能がそうさせたからだろうか。
「アメリ、百万円やるから蛙やハムスターにキスしろって言われても絶対無理だもん。」
それとも、
一秒たりとも、彼女から目を離したくなかったからだろうか。
わからない。今は自分の心も体も、よくわからない。あんなに悔しかったのに、不甲斐なかったのに、情けなかったのに。この瞬間だって瞼が一度でも開閉しようものならば、下瞼にたっぷり溜まった涙が氾濫してしまうだろうに、
体中を暴行していた喜怒哀楽が、やさしくてあたたかい、何かに変わっている。
「なに、その理屈。」
果恋は吹き出すように、笑った。
「あ。でも二億ならやるかも。」
「やんのかよ。」
表情を綻ばせたことで、氾濫寸前だった涙は、結局流れた。
心の底からの笑顔と、とめどない涙。
自分の心と体がわからない。均衡を失った日生果恋の機能は揺さぶられ、仮面のように貼り付けられた笑みを震わせ、頬を濡らし続ける。
アメリはもう一度、今度は果恋の首に腕を回し、抱きつく形で抱き寄せた。
「アメリやミチオちゃんをボロクソ言われて、悔しかったんだよね。」
まわした腕に優しく力をこめる。あたたかく、密着する。
「カレンちゃんが悔しがってくれただけで、アメリはじゅうぶん、幸せ。」
力いっぱい抱きしめる。
「……ッ……もぉ…」
もう、
「なん……ッ…なんだよお……」
なんなのだ、
「なんなんだよおまえぇ……っ……っく、……ッ……うあああぁん」
この女は。
こんどこそ、それこそ、赤ん坊みたいに果恋は泣いた。
うああんうああんと、人目も憚らず、声をあげて泣きだした。
いそがしい。こんなにも自分の喜怒哀楽が忙しいなんて。
こんなにも真っ向から、感情の言いなりになれるなんて、いつぶりだろう。
誰かに抱きついて、抱きしめられて、縋り付くなんて、
幼稚な愛が痛く心地いい。
「ありがと。よく我慢したね、よしよし。」
泣きわめく大きな赤ん坊をアメリはさすった。オレンジ色の後頭部を、華奢な背中を、さするだけでなく軽く叩いたりゆっくり撫でまわしたりと、様々な方法で宥める。
試行錯誤が功を奏し、赤ん坊は徐々に日生果恋を取り戻し始めた。洟を啜り、泣き声よりも吃逆の回数を多くしてゆく。
「おーよしよし。えらいえらい頑張った。バナナ食べる? 無いけど。」
抱きしめたまま、さすって宥めながら、ジャブを入れる感覚で件のニーズを発揮してみる。
「…………無いのかよ、」
あは
おかえりなさい
体は隙間なく密着。その距離ゼロメートル。表情だけが見えない位置で、アメリこれでもかというくらい目尻をさげた。
「じゃあリンゴとか? アリの巣に枝さすやつとか?」
「…………どんだけゴリラの知識あるんだよ。」
「あはー。」
あと少し、こうしていよう。
もう少しだけ体が温まったらコーヒーを淹れよう。お土産のアップルパイを切るんだ。
……あ。きのうのポエム、まだ残ってたんだった。
まあ、いっか
だって 大好きだもん
大好きになっちゃったんだもん
アメリは果恋に気づかれぬよう、指先に力をこめて、震えをごまかした。




