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禍きもの、その名は5

死に関する描写があります。

苦手な方、読むのが辛いという方はとばして下さい。

「なんだかぼんやりしてるね、小麦。もしかしてまだ体調悪い? 大丈夫?」


 校長先生の長い訓話が終わって体育館から戻る途中、クラスメイトで友人のこずえに尋ねられた。

 昨日の私の欠席理由が体調不良であった事を思い出す。しまった、余計な心配掛けちゃったかな。私は笑顔を作って明るく答えた。


「平気平気。ちょっと寝不足なだけ」


 嘘じゃない、これは本当だ。昨夜は結局よく眠れなかった。

 ソファで眠る兄にどうにかこうにか毛布を掛けた後、私は逃げるように自室に籠ってしまったというのに。


「ならいいけど。この後さ、クラスの皆でカラオケ行こうって話があるの。小麦もどう?」


 私の返事を聞いて、梢はホッとしたように話題を変えた。

 学校全体での修了式が済み、後はクラスごとのホームルームが終われば解散だ。教室に着いた私達は着席して担任の先生が来るのを待ちながら、思い思いにお喋りをしていた。


「カラオケ?」

「このクラスで集まるのも今日が最後だし、たまには一緒に遊ぼうよ。家庭の事情で小麦が忙しいのは知ってるけど、今日くらいは羽を伸ばしてもいいんじゃない?」

「……ごめん、今日はちょっと」

「えーどうしても無理かな? 2、3時間だけでもいいんだよ。そんなに眠い? それとも大事な用事? あ、お母さんのお見舞いとかだったら悪いけど」

「ううん……実は、三日前に子猫拾っちゃって……」


 それだけ言うと、梢は "ああ、またか"と納得した顔をした。

 中等部から一緒で部活も同じだった梢は、私……というより兄に動物の拾い癖があって、巻き込まれる形で私もしょっ中面倒をみていたことを知っている。そして当然、高等部にいたその兄の失踪と、それを追うように母が入院し私が家事一切を担うようになった、我が家の事情も知っている。


 実を言えば、今日私が早く帰ろうとする理由は子猫の為だけではない。一人家にいるはずのあの兄の動向が気にかかるからでもあった。

 けれど、兄が(厳密には違うけど)帰ってきたという話を、家族以外にはまだする気になれない。私は言葉尻を濁すことで説明を誤魔化した。


「そっかー。なら残念だけど仕方ないね。でも伊勢いせ君がっかりするだろうな」

「伊勢君? なんで?」

「今回伊勢君が幹事なんだけど、小麦が来るかどうか訊いてたからさ。小麦に気でもあるんじゃないの?」

「いや、それただの出欠確認でしょ」


 私は苦笑した。

 数えるほどしか会話したことがないクラスメイト相手に恋愛感情を邪推されても困る。伊勢君にも悪いからきっぱり否定しておかないと。まあ、でも、梢に悪意はない事は分かってる。むしろ逆。遊びに誘ってくれるのも、恋愛脳発言をかましてくれるのも、私を思っての行為だろう。

 "小麦の生活には潤いが無さ過ぎ! もっと女子高生らしく楽しんでもバチは当たらないよ!"というのが、ここ最近の梢の口癖なのだ。


「んーじゃあ、子猫が落ち着いたら遊ぼうね。二年でも同じクラスになれるといいな」

「そうだね」

「本当はさ、小麦とまた一緒に部活やれるといいんだけど」


 しんみりした梢の口調に、私は胸を突かれた。

 こんなに親身になってくれる友人相手に、私は嘘をつこうとしている。それでいいの? 梢なら、本当の事を打ち明けても私の正気を疑ったりしないのでは?

 けれど迷っているうちに担任の先生が現れて、梢への解答は無難なものになってしまった。


「……そのうちね」



 一学期から代わり映えのしない担任の諸注意を聞き流しながら、私は自分の口にした未来の事を考えていた。


 兄が元通りになって、母が元気になって、前みたいにまた家族四人で暮らす。私は普通の女子高生みたいに部活を精一杯、勉強をほどほどに頑張って、そのうち恋愛なんかもしてみたりする。好きな人と偶然廊下ですれ違っては友達に報告してキャーキャーはしゃぎ合う。兄はいつだって優しくて正しい、学校中の憧れで、私はちょっぴり劣等感に苛まれたりもするけど、そんな兄の事が誇らしい。家のことは母が全部引き受けてくれて、毎日の献立に頭を悩ませたり、洗濯物のために天気に一喜一憂したりなんてしなくていい。

 はたしてそんな日が、来るのだろうか。


 昨夜兄の唇から零れた呟きを思い出す。

 渇望のあまり聞き違えたのではないかと、布団の中で何度も何度も反芻した、あの言葉。


 そうだ──可能性は、ゼロじゃない。

 そのはずだ。










 子猫を迎えに行く前に、私は一旦家に帰ることにした。通知表その他諸々を早く手離したかったのもあるが、第一にまず兄の様子を確かめておきたかったのだ。


「ただいまー……」


 刺激しないように小さく呟きながら玄関に入る。三和土たたきに兄の靴があるのを確認。うん、外出はしていないみたい。

 お昼は温めるだけにしてメモを残しておいたけど、食べたのだろうか。朝食の席で兄とは顔を合わせず終いだった。私が降りてきた時にはソファに毛布の抜け殻だけが置かれていたから、きっと途中で目が覚めて自分で部屋に戻ったのだろうけど。


 リビングを抜けてキッチンへ向かおうとして、私は昨夜と同じソファに横たわる人影に気付いた。

 兄だ。畳んだままの毛布を枕代わりにして、またしても転寝している。


「……お兄ちゃん?」


 そうっと呼んだけど反応はなかった。

 思わず、寝顔に見入ってしまう。


 やはり、天使のように綺麗な顔だ。兄のような特別な人にだけ許された、綺麗な心に相応しい綺麗な姿。なのに今ではこの中に獰猛な獣が住んでいるとは到底信じられない。ああ、でも、ある意味それは順当なのかも。悪魔も元は天使だったと言うではないか……。


「小麦?」


 無意識に近寄り過ぎてしまったらしい。気配を感じ取ったのか、兄の瞼がフッと開いた。

 一瞬、これは本物の兄なのでは、と期待が過る。妹の私にも区別がつかないほど、両者の声はよく似ていた。というか、当たり前だ、同じなのだから。同じ兄の声帯を震わせて出てくる音。違いはそこに籠められた感情の、圧倒的な温度差だけ。


「……帰ったのか」


 そこに微かな憐憫を聞き取ったと思ったのは、私の気のせいだろうか。それとも侮蔑?

 兄は気怠げにソファから身を起こした。


「午前中に動物病院から電話があった」

「え……」

「詳細はお前が来院してから話すそうだ」

「そう……分かった」


 どうしようもなく嫌な予感がした。

 それを宥めるために兄と二人で昼食にしたけれど、私は幾らも食べられなかった。結局、午後の診察開始時刻まで待てずに、私は早目に家を出た。

 どうか子猫の容体が悪化していませんように。悪い想像が当たっていませんように。祈りながら病院までの道程を歩く。

 ああ、こんな時はいつも兄が手を握ってくれた。不安な気持ちを半減してくれ、温もりをそっと私に分け与えてくれていた。今更のように兄の不在がひしひしと身に沁みる。兄が今ここに居てくれたなら、と切に願う。


 ──もしかして、獣が眠れば兄が出てきてくれるのかもしれない。昨夜のように。


 ふと浮かんだその考えは、落ちない染みのように、私の頭の片隅に留まっていた。








 病院で告げられたのは、子猫の死だった。

 半ば予期していたとはいえ、鶴原先代院長の宣告に打ちのめされる。昨日まで必死に生きようとしていた小さな体は、冷たい骸になっていた。


「僕の力不足で、ごめん」


 お爺ちゃん医師せんせいの言葉を、首を振って否定する。

 先生をはじめとする病院スタッフは、精一杯やってくれたに違いないのだ。力不足というなら私の方だ。

 亡骸なきがらは病院で弔うと言われ、私は泣き腫らした目のまま自宅に帰った。


 赤く充血した瞳を見て、兄はもの言いたげな顔をしたが、私は何か言われる前に素早く自室に逃げ込んだ。"それみたことか "と嘲られでもしたら、今は耐えられる自信がなかった。

 部屋には子猫のための寝床一式が置かれたままだった。それらを視界に入れずに済むように、私は自分の布団の中に潜り込んだ。



 私はなんて無力なんだろう。

 子猫あのこのために何もしてあげることが出来なかった。

 自分の事に気を取られてばかりいて、産まれ立てのあの子の命を守ってあげる事が出来なかった。

 兄の代わりになんてなれなかった。

 可哀想に。痛かっただろうか。辛かっただろうか。せめて苦しまずに逝けたのならいいと、祈ることしか出来ない。


 会いたい。

 兄に会いたい。

 話せなくてもいい。触れられなくてもいい。

 ただ傍にいて欲しい。

 そして共にあの子を悼んでくれたら、どんなにか……。



 そこで思い出したのは、入院前に母が服用していた薬だった。強いストレスから不眠を患っていた母には、睡眠導入剤が処方されていた。飲みかけのものが幾つか、まだ寝室に置いてあったはずだ。処方薬を本人以外が服用することなど常識的にはあり得ないが────仮初めにでも兄に会えるのだとすれば、私に躊躇う余地など無いように思えた。









 その日の深夜、私は隣室に忍び込んだ。

 兄は寝る時もカーテンを開けっ放しにしているようで、月の光が室内の家具の陰影を際立たせている。肝心の本人はと言えば、ベッドに横になって寝息を立てていた。

 良かった。気配を悟りもせずに眠っている。夕食に混ぜた薬のおかげか。

 私は肩の力を少し抜いた。


 そっとベッドの枕元まで近付き、静かに眠る兄を見つめた。こうやって見ると兄そのものだ。前髪が額に張り付いていたけど、いつ牙を剥くとも知れない獣だ。触れるつもりは元よりない。

 この心の奥底に、本物の兄が閉じ込められているのだろうか。規則正しい寝息が聞こえる。起きている時よりもよほど兄に寄り添えているような気がした。


 どうしたら兄を封じる鎖は緩むのだろう。

 獣の眠りがトリガーなのかと感じたが、その推測は合っているのだろうか。

 このまま一晩明かしてみたら分かるのか? いや、さすがに獣が目覚めたら怪しまれるに違いない。そんな危険は冒せない。

 私が思い悩んでいるうちに、兄が小さく身じろぎをした。


「小麦……?」


 昼間とはまるで違うトーンで、優しく私の名を呼ぶ声がする。思わぬ幸運に私の心臓が跳ねた。


「……お兄ちゃん?」


 会話が叶うとは思っていなかった。保身と秤にかけて傾いた慕わしさに引っ張られるように、私は小声で"兄"に答えた。


「ごめん……」

「お兄ちゃん。お兄ちゃんだよね?」

「ごめんな小麦……」


 眠ったままの身体から、繰り返される兄の謝罪。単なる寝言に返事をしているようにも思える。私の言葉は兄に届いているのだろうか。


「謝らないで。私、どうしたらいい? どうしたらお兄ちゃんを救えるの? お願い、教えて」


 今にも消えてしまいそうな兄の声に、少しでも長く引き止めたいと、私は懸命になった。


「ホント悪い…………あんな薬、全然効かなくてなぁ」


 え?


 腹話術師のように、一転して兄の声のトーンが変わった。その豹変ぶりを飲み込めないでいるうちに、手首を強い力で掴まれたかと思うと、私はベッドに引き摺り込まれていた。次いで、眠っていたとは思えない俊敏さで上下を入れ替えた兄に、馬乗りに体を押さえ込まれる。驚いて見上げると、兄には似つかわしくない冷酷な双眸が私を見返した。


「愚かだな、小麦。自分から手の内に飛び込んで来るなんて」

「な……なんで……?」


 お兄ちゃんは?

 そこにお兄ちゃんが居たんじゃないの?


「口調で判別可能とでも思ったのか? そんなもの、簡単に模倣出来るに決まっているだろう」


 兄の瞳に愉悦の色が混じった。

 導かれる答えに私は愕然とする。


「……昨夜のも? まさか昨夜からお兄ちゃんのフリをしていたの? どうして、だってそんな、何の為に……!」


 信じたくない。

 昨夜感じた喜びが、ガラガラと音を立てて崩れていく。

 狼狽える私に向かって、兄は端的に命令を下した。


「泣けよ。お前の涙が見たいんだよ」


 酷い。

 その為に、こんな真似をしたのか。

 希望を与えて、奪い、どん底に突き落とすために?


「痛くすれば泣くのか? ほら、『お兄ちゃん』に言ってみろ。今度はどこを噛まれたいんだ、小麦?」


 ──獣が。

 兄の身体で、兄の指で、私を押さえ付ける。

 兄の顔で、兄の声で、残酷な事を言う。

 悪意が心に刺さってズキズキと痛い。


 悔しい。

 どんなに私が喜ぶか、こいつは知ってて騙したんだ。私なら微かな希望にすら縋り付くだろうと分かってて、叩き潰す機会を今か今かとほくそ笑んで待っていたんだ。


 兄の身体を奪っただけでは足りないと言うのか。


 いっそ騙し通してくれれば良かったのに。

 愚かな奴だと陰であざ笑ってくれていた方がまだマシだ。

 私には何も出来ないと、こんな風に何度も思い知らされるくらいなら。


 獣が、思わせぶりにカチカチと歯を鳴らした。

 痛みの記憶に怯える私の身体は、勝手に強張ってしまう。カウントダウンのようにわざとゆっくり喉笛に寄せられる獣の歯が怖くて、目を開けていられない。きっと悲鳴も上げてしまうだろう。弱味なんか見せたくないのに。情けない。


 でも、でもせめて。

 泣くもんか。こんなやつの望み通りに泣いたりだけは、絶対にしない……!


「よ、よいやみのつばさはとどかない……っ

 」


 怖くない。怖くない。心臓が止まりそうなほど恐ろしいけど、怖がってなんかやらない……!


 自分を鼓舞するためにおまじないを唱えた瞬間、私の上の獣が何故だか動きを止めた。いつまで待っても与えられない痛みに、今度は何を企んでいるのかと、固く瞑った瞼をこわごわ開いて見れば、


「ハ……ッ!」


 獣は大きく息を吐いた。

 つまり、笑ったのだ。

 意外な事を聞いたと言わんばかりに、肺の底から空気を押し出して。


「また古い呼び名を出してきたなあ」


 何がそんなに可笑しいのか、私に覆いかぶさったまま、体幹を震わせてクスクスと嗤う。


「どちらにせよ、呪力を乗せるすべも知らないお前がそらんじたところで、何の効力も持たぬ戯言だけどな」



 ……何を言われているのかさっぱりだ。

 獣が愉快そうにしている理由も、私を見下して馬鹿にしている理由も、これっぽっちも分からない。分かるのはただ一つだけ。手負いの獲物を猫科の猛獣が弄ぶように、この獣は、私を嬲って楽しんでいる。

 それでいて、私には理解の及ばない次元で、有難い説明をして悦に入ってるのだ。



「教えておいてやろう、小麦。俺の名はルーイン」


 兄の顔をした獣は、尊大なまでの余裕を思わせる口調で、禍々しい響きと共にそう名乗った。


「……絶望喰いの、ルーインだ」


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