第九九話 華容道をめざして
趙儼軍が残した馬蹄を追いかけるように、劉備軍は一路華容道をめざしていた。
若いころであればいざ知らず、天下の過半を手中におさめた曹操が、敵に背をむけて撤退しているのだ。にわかには信じがたい状況である。
しかも、その退路を断つべく前進しているのが、これまで後退ばかり強いられてきた劉備とあれば、なおさらであろう。
前軍を率いる関羽は、愉快そうに口元をほころばせた。
「フフフ、まるで立場が入れ替わったようだ。新野・樊城を失い、長坂では曹操軍に追いかけまわされ、命からがら江夏へと落ち延びた玄徳どのが、あの曹操を追いつめようとしているとは……」
関羽はかつて、曹操に厚く遇され、幕下にくわわるよう熱烈な勧誘をうけた。
その誘いを拒んだのはなぜかといえば、主君を変える意義を見いだせなかったからであった。
たしかに、曹操は傑物である。
あらゆる面において、劉備を上まわっているといっても過言ではない。
だが、ある一点においてのみ、劉備は曹操にまさっているように、関羽の目には見えるのだ。
民衆の心をつかむ能力である。
曹操の領土・兗州では大規模な反乱が生じ、その後も勢力拡大にともない、各地で反乱が頻発した。
ひるがえって劉備はどうか。
各地を転々としてきたものの、それらはすべて外敵によって追いやられたものであり、民衆に追い出されたわけではなかった。
民草は劉備を引き留めようとし、なかには逃走する劉備につきしたがおうとする者まであらわれた。
太平の世を願うのなら、黄巾の乱に代表される大規模な農民反乱を未然にふせがねばならない。
となると、劉備の資質はこのうえなく貴重なものといえる。
関羽が考えるに、実用的な才能は「才」であり、人間生来の資質は「性」である。
曹操が有するのは才であり、劉備がそなえるのが性である。
皮肉にも、比類ない才の持ち主である曹操自身が証明してしまっているのだ。
万民が天下の為政者にもとめるものは、才よりも性である、と。
「不足しているのが才であったなら、周囲の人間の才で補佐すればよいが……」
才と性は、まったく性質の異なるもので、性の不足分を才でおぎなうことはできないのだろう。
仮にできたとしても、至難の業にちがいない。
少なくとも、曹操と彼の配下たちにはできなかったことなのだから。
劉備にとって、曹操は宿敵である。
曹操の勢力が拡大するにつれ、劉備が生きていける場所は狭まっていく。
その一方で、曹操にとっても、やはり劉備は許しておけない存在なのだ。
劉備の性は、才の限界を浮き彫りにする。
それは、唯才をかかげる曹操の統治思想を、真っ向から否定することにほかならない。
哲学的な思索をめぐらせるあいだも、関羽は、闇に沈んだ樹林へと鋭い視線を放ちつづけている。
警戒を怠るわけにはいかなかった。
夜間行軍中の林道である。
どこに敵兵が潜んでいてもおかしくない。
ふと、関羽は気づいた。
周囲をさぐらせている斥候のうち、幾人かの顔が見えなくなっている。
予定時刻を過ぎても帰還していないようだ。
敵に見つかってしまったのだろうか。
「敵部隊が近くに潜んでいる可能性が高い。気を抜くな!」
馬上で命じながら、関羽はかすかに顔をしかめた。
曹操の退路を断つためには急がなければならないが、伏兵も警戒しなければならない。
どう配分したところで、両立しがたい命題である。
ようやく林道を抜け、平野が広がっているらしき場所に出た。
夜闇に覆われているため視界がひらけたとはいえないが、樹林と比較すれば周囲の様子は確認しやすい。
黙々と歩く兵士たちの顔に、安堵の色が浮かんだ、そのときであった。
羽音が夜空を切り裂き、矢の雨が彼らの頭上に降りそそいだ。
「敵襲だぁッ!」
たちまち、兵士たちの悲鳴がひびきわたる。
部下の叫びに耳を打たれ、せまる矢を大刀の刀身ではじきながら、関羽は首をかしげた。
「妙だな。矢が左手ばかりから降りそそいでくる。右手にも兵を伏せておけば、より効果的であったろうに」
劉備軍がこの道を通ることはわかりきっているのだから、道の両側に兵を伏せておくのはたやすいはずであった。
疑念の答えを、関羽は耳でひろった。
兵士たちの悲鳴と矢羽根の音に、第三の音がまぎれこんでいる。
馬蹄の音である。
敵の狙いは矢戦ではない。騎馬突撃だ。
「敵の騎兵が来るぞぉッ!!」
関羽が大喝し、馬首を左手にむけるとほぼ同時に、矢の雨はぴたりとやんだ。
関羽の指示はおよそ考えうるかぎり速やかだったが、敵の矢戦から騎馬突撃への転換速度は、それすらも上まわった。
迎撃の態勢をととのえるより早く、夜の闇からわきたつように、騎兵部隊がなだれこんでくる。
先頭を駆ける男の姿を視認して、関羽の目が見ひらかれた。
「すわ文遠か!」
敵は張遼率いる騎兵部隊、迅速な用兵は当然であった。
何百という騎兵が、その機動力と強靭さを生かし、劉備軍の兵士たちに襲いかかる。
行軍中だった劉備軍の隊列は、むろん伸びきっていた。
薄い陣容に騎馬突撃をうけては、いかに関羽が指揮をとろうと耐えられるはずもない。
張遼隊は大地を弾んで駆け抜ける。喊声をも置き去りにし、疾走するその姿、まさに無人の野を行くがごとし。あとに残されたのは、むせかえるような血の匂い、劉備軍の死屍累々たる惨状であった。
「…………ッ」
さしもの関羽も言葉を失うしかなかった。
先を急いでいる以上、伏兵による被害はある程度計算していたが、それにしても惨憺たるありさまである。
さらに問題なのは、左手からあらわれた張遼隊が、足をとめずに右手へと駆け抜けていってしまったことである。
しばらくすれば、今度は右手から突撃してくるにちがいなかった。
関羽が見たところ、張遼隊の兵力は数百程度であろうが、たとえ数百であろうと騎馬突撃の威力は絶大である。行軍中の劉備軍では対抗しようがない。
こんなことがくりかえされれば、劉備軍は崩壊してしまう。
二万六千の劉備軍が崩壊に追いやられるのだ。わずか数百の騎兵に!
「どう対処する……?」
関羽の赤ら顔から色が失われた。
張遼隊を放置してはおけなかった。
だが、全軍で迎え撃つわけにもいかない。
前進をとめることは、それこそ曹操を討つ機会を手放すに等しいのだ。
誰かが、行軍する味方を守りながら、張遼隊をおさえこまねばなるまい。
あの驍将が指揮する騎兵部隊を相手に、そのような芸当ができる将がいるだろうか。
関羽が思い当たる人物はひとりしかいなかった。すなわち、彼自身である。
「これより私は一隊を率いて、張遼隊と対峙するッ!」
直下の一隊をひきつれ、関羽は前軍から離脱した。
翌日の日暮れどきである。
関羽から前軍の指揮権を委譲された張飛のもとに、ひとりの兵士がやってきて報告した。
「前方に、趙儼軍が設営したとおぼしきかまどの跡があります」
「ふぅン、どれ」
張飛が足をはこんでみると、たしかに大量のかまどの跡が残されている。
「このかまどを利用すれば、炊事にかける時間を短縮できそうだな」
張飛は思案した。
無理を押して進軍しているが、休憩ははさまなければならない。
そろそろ、ちょうどいい頃合いであるように思える。
「けど、ここで炊煙があがれば、こちらの位置は敵に筒抜けになっちまう。どうしたもんかな」
首をかしげていた張飛は、周囲を見まわして、なにやら思いついたらしく不敵な笑みを浮かべた。
「いや。むしろ、襲ってきてくれたほうが好都合か」
張遼隊が待ちかまえていた平野ほど広くはないが、このあたりも比較的視界はひらけている。
行軍中に樹林の中から攻撃されるより、ここで戦闘になったほうが張飛としてはやりやすい。
「よし! ここでいったん休憩だッ! 兵の半分は周囲を警戒して戦闘にそなえろ。残り半分はメシの準備と体を休めておけッ!」
大声で命じた張飛のもとに、また別の兵士が駆け寄ってきて、膝をついた。
「張飛さま、あちらに奇妙なものがございまして……」
「うん?」
その兵士が張飛を案内したのは、かまどの跡からすぐのところに生える、巨木の根元であった。
「うぬぬ……」
張飛は顔を赤らめ、歯ぎしりした。
兵士が口を濁したのもうなずける。
その巨木の樹皮は削りとられており、むきだしになった白木に、墨で黒々とこう書かれていたのである。
『劉備、この木の根元で死す』
張飛は命じた。
「こんなもん削りとってしまえ」
そして、冷静さを取りもどして考えこむ。
「やっぱり、この近くに敵兵が潜んでいるにちがいねえ」
確信した彼は、さらに指示を出した。
「周囲の樹林に斥候を出して、根こそぎ偵察させろ。単独では行動するなよ。敵の姿が見えなくとも、常に盾をかまえて警戒しておけよッ!」
なんという冷静で的確な判断力だろうか。
張飛の指示はすぐに成果をもたらした。
「樹林の中に敵部隊が潜んでいるのを発見いたしました。どうやら張郃隊のようでございます」
との報告を、斥候が持ち帰ったのである。
「ほら見たことか」
張飛は誰にともなく胸を張ったが、すぐに思いなおす。
「しかし張郃か……。なかなか厄介な相手だぞ」
張郃の勇名は、張飛も聞きおよんでいる。
一筋縄ではいかない相手だ。
生半可な将をさしむけたところで、翻弄されて返り討ちにあうだけであろう。
趙雲あたりがいればまかせられたかもしれないが、あいにく彼は中軍で劉備の護衛をしている。
どうやら、張飛以外に適任はいないようだった。
「よし、この俺が直々に張郃を討ち取ってやる」
「で、ですが、張飛さままでいなくなると、前軍の指揮が……」
心細げに、兵士が疑問の声をあげた。
「わかっている」
張飛はうなずいた。
関羽につづいて張飛まで離脱すれば、前軍の戦力は大幅に低下してしまう。
「だが、さっきの文はおまえらも見ただろう。張郃はこのあたりで玄徳兄ぃを討ち取るつもりだ。見逃すわけにはいかねえ」
劉備の危機は、全軍の危機である。見過ごすわけにもいくまい。
「奇襲をうける前に、張郃隊を発見できて運がよかったんだ。そろそろ日が沈む。ここでやつを見失えば、せっかくの幸運を手放して、玄徳兄ぃを危険にさらすことになる」
そもそも、行軍中の軍隊はろくに力を発揮できない。
兵を伏せて奇襲をしかける側が、圧倒的に有利なのは自明の理である。
だが、こちらが攻め手になれば、その不利は解消できよう。
こうして、張飛は張郃隊を追いかけまわし、樹林の中をさまようことになる。
冬の朝日が、行軍中の劉備軍に弱々しい陽射しを投げかける。
張飛たちが樹林の中に姿を消した翌朝のことである。
「劉備さま、進軍速度が低下しているようです」
劉備のそばにひかえる白馬に乗った武将、趙雲がそう進言した。
「うむ。もうすこし速度を上げるように、前軍の糜芳に伝令を送るとしよう」
劉備は兵士に指示を出すと、不満げに嘆息した。
張飛に代わって前軍の指揮をとるのは、糜芳である。
兄の糜竺とともに、徐州時代から劉備に仕える古参といってもよい将だが、将器の点でいえば、さすがに関羽や張飛とは比ぶべくもない。
張遼と張郃に対する、関羽と張飛の判断はそれぞれ正しいと思うが、それでも彼らにはできるだけ早くもどってきてほしい、というのが劉備の正直な気持ちであった。
劉備が浮かぬ顔で進軍していると、後方から兵士が馬を飛ばしてきた。
その兵士はいかにも慌てた様子で下馬すると、膝をついて、
「後軍が襲撃されていますッ! 旗印から見るに、敵将は朱霊のもようッ! 魏延隊がなんとか応戦していますが、劣勢は否めませんッ!」
「なんだとッ!? 今度は後方かッ!?」
と、呆然とした劉備は、唇をふるわせて、
「伏兵は覚悟していた。覚悟していたが、こうも徹底してくるとは……」
「劉備さま、我々はすでに敵の術中にはまっているのではないでしょうか?」
趙雲の声は、不穏な内容のわりに、落ち着きはらっていた。
「むむむ……」
劉備はうなった。
伏兵というにはあまりにも大胆な騎馬突撃を敢行した、張遼隊。
かまど跡の周辺に潜んで、劉備の命を狙っていたという張郃隊。
そして、前軍どころか中軍の劉備すらも見逃し、後軍に襲いかかった朱霊隊。
趙雲のいうとおり、いずれも計算されつくした伏兵に感じられる。
「我が君」
諸葛亮がやや青ざめた顔で、しかし、意を決したようなまなざしと声で上申する。
「敵の狙いは……十面埋伏の計かと思われます」




