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第九七話 曹操の決断


 陸口りくこうの孫権軍は不信と不穏とが交錯し、凪のようにしずまりかえっていた。曹操の使者が、黄蓋の遺体がおさめられた棺を送りとどけてきたのである。


 使者は故人の忠義と勇敢さをとくと称え、宿将を死なせた周瑜の無謀無策をことさら強調し、周瑜の顔面を蒼白にさせたうえで帰っていった。


 黄蓋は孫堅・孫策・孫権と三代にわたって戦場を駆けめぐってきた武人であるが、武勇一辺倒の人物ではなかった。弱者への思いやりがあり、行政官としては公正であり、かつ仁孝厚い性格ゆえに、兵卒たちからの人望も厚かった。


 それだけに、彼の戦死が落とした影は深刻であり、周瑜への風当たりも強くならざるをえない。


 陣中の空気を肌で感じている龐統が見たところ、この状況の鍵を握っている人物は程普ていふであろう。


 程普もまた孫家三代に仕える古参の将である。黄蓋とは長きにわたる戦友であり、共通項も多かったが、決定的に異なる点があった。黄蓋は周瑜に敬意を払っていたが、程普は年少の指揮官にしたがうことをよしとしなかったのである。


 また、孫権はこの戦にのぞむにあたり、周瑜を左都督に、程普を右都督に任じている。総大将は周瑜だが、彼らの権限は同格に近い。


 程普にとっては絶好の機会である。

 この機に周瑜を糾弾すれば、総大将の座を奪えるかもしれないのだ。


 だが、程普は黄蓋の死に関してだけは、なぜか周瑜を槍玉にあげようとせず、将兵をなだめる側にまわっていた。


 朝もやのたゆたう江水を眺めながら、龐統はつぶやく。


「程普どのの判断は当然だろう。ここで不和が広がれば、戦に負ける。……もっとも、当然だからといって、誰にでもできるようなことではないが」


 程普が周瑜に反発してきたのは、自分こそが孫呉をささえてきたのだという矜持ゆえであろう。その矜持が、孫呉を守ろうとする気骨が、個人的な確執をねじふせたのだ。


 龐統は、ふん、と鼻を鳴らすと、自分自身に対して皮肉を投げかけた。


「当事者ではないからよく見通せる。えらそうに分析ばかりしていても、なんの役にも立たないだろうに」


 実際、龐統は部外者だった。

 周瑜の客人として陸口に滞在しているだけで、役職もなければ職務もない。

 戦地においてあるまじきことかもしれないが、彼はとても退屈しているのだった。


 とはいえ、なにもしないのでは居心地が悪い。

 客人なら客人らしく、さまざまな重圧にさらされながらも軍務に精励している、周瑜の手助けくらいはしておかねばなるまい。


 不満を抱える将兵の話し相手になるべく、龐統は場所をうつした。


「おや?」


 彼が足をとめたのは、大勢の兵士が縦横に等間隔に並んで、体を動かしていたからである。


 兵士たちは流れるような動作で、ももをあげて片足で立ち、大きな鳥が翼を広げるように両腕をはばたかせている。


 最近見かけるようになった光景だが、当初十数人だった人数は日毎に増え、いまでは数百、あるいは千にまで達しようかという勢いである。


 それほどの数の兵士たちが、一糸乱れぬ動きをしているのだから、なかなかの見ものである。


「ずいぶん大規模になってきましたな」


 と、龐統がさも感心したように声をかけたのは、体を動かす兵士たちのそばで、しかめっ面をして腕を組んでいる潘璋はんしょうという武将である。


「おお、龐統どの。ご覧のとおり、華先生(・・)五禽戯ごきんぎは大盛況だ」


 先生という言葉にひねくれたひびきがある。華佗の護衛という任務をあたえられた潘璋は、自分の仕事に少なからぬ不満を感じているようであった。


 先日、柴桑の孫権軍が江水を臨検していたところ、華佗が乗った小船を発見した。通常であれば解放されていたのだろうが、華佗は丁重かつ強制的に孫権のもとへと案内された。


 孫権は天下の名医を盛大にもてなしながら、こう尋ねたという。


「先生はなぜ江水を遡行そこうしておられたのでしょうか?」


「戦地には傷病兵がつきものでございます。烏林へ出向けば、私の腕が役に立つこともあるだろうと考えておりました」


「曹操軍は我々の敵。先生を敵陣に送りとどけるわけにはいきません。戦地にあって苦しんでいるのは、我が軍の兵士たちとて同じこと。どうでしょう、陸口の兵士たちを救っていただけないでしょうか?」


 孫権はそう提案すると、華佗に護衛という名の監視をつけて、陸口に移送したのだった。


 柴桑でのもてなしほど盛大ではないが、周瑜も華佗を先生と呼んで手厚く歓待した。


 華佗が通りがかったら捕らえること。

 丁重にもてなすこと。

 あつかいに困ったら陸口に移送すること。

 すべて、周瑜の指示によるものであった。


 いかな天下の名医といえども、一介の医士である。

 孫権と周瑜に頭をさげられて、袖にするわけにはいかない。

 そのうえ烏林にむかおうにも、営門は閉ざされ、船は小船一艘にいたるまで孫権軍の管理下にある。


 こうして、華佗は曹操軍ではなく、孫権軍の陣中に滞在しているのだった。


 そのせいで、華佗の護衛兼監視をおおせつかることになった潘璋は、眉をひそめて、


「たかが医士に頭をさげるわ、黄蓋殿の仇討ちも命じてくれないわ。まったく、周都督にも困ったものだ」


 単純な男だ、と龐統は思った。感情のままに不満を口にする。

 役職の重さを認識し、その責務を優先させ、個人的な感情を押し殺した程普とは対極的である。

 龐統にしてみれば、こういう単純な男はあつかいやすい。


「ははは、いざ敵と剣をまじえる段階になれば、武勇にすぐれた潘璋どのの出番があるでしょうよ」


「そうあってほしいものだ」


 世辞に気をよくしたのか、潘璋は薄く笑うと、


「老人の監視、退屈な任務だよ、まったく」


 苦々しげな視線を、演壇の上に投げかけた。


 壇上では、真っ白なひげの老人が体を動かして、兵士たちに見本を示している。

 無数の兵士がきれいに整列して、自分にしたがっているのだ。

 華佗の目には、さぞ壮観な光景が映っているにちがいなかった。


「もともと、ああした健身法は軍事教練から派生したものでしょう。訓練の一環だと思えばよいのですよ。兵士たちの気晴らしにもなる」


 龐統の言葉に、


「まあ、なにもしないよりはましか」


 と、潘璋は肩をすくめた。


「いやはや、たいしたものですな」


 視線は華佗に投じながらも、龐統の感嘆は華佗ではなく周瑜にむけられていた。


 戦略の前提に疫病を組みこんでいる周瑜のことだ。

 柳城遠征の帰路で活躍したという名医の存在も、気にとめていたであろう。

 それだけであれば、驚愕するほどのことではあるまい。


 なにがすさまじいかといえば、強大な曹操軍と対峙し、将兵からのつきあげにさらされ、はかりしれない重圧を背負いながらも、医士ひとりの動向にまで注意を払っていたことである。


 龐統は自問した。自分の身におきかえて、同じことができるだろうか。

 不可能とは思わないが、その問いかけ自体が、万全の自信を欠くがゆえに発せられたものであった。


 能力があろうと、出世するにしたがい、重責につぶされていく者は多い。

 だが、その重責によって、さらに輝きを増す人物もたしかに存在するのだ。

 周瑜以上に巨大なものを背負っているであろう、曹操にしてもそうだ。


 心に三尺の剣を掲げ、乱世を翔けぬけようとする彼らの生きざまに、龐統はもどかしさをおぼえた。

 感銘、憧憬、無力感……。複数の感情が溶けあい、もやとなって胸中をたゆたう。


 天下を舞台と見なすのであれば、彼らは主演であり、止まり木を失った龐統は観客にすぎない。

 間者を操り、兵士を率いる立場にならなければ、彼らと同じ舞台に立つことなど望むべくもないのであった。






 孫権軍が不和をおさえるために四苦八苦している一方で、より深刻な状況に置かれているのが烏林の曹操軍である。


 多忙をきわめる軍医のひとりが、曹操の天幕に参上したのは、西日を受けた江水が朱色に揺らめく夕暮れどきであった。


「どうした?」


 不審そうな曹操の視線が、軍医の胸元にそそがれる。

 軍医は、一巻の竹簡を胸に抱えていたのである。


「郭嘉さまが、この書簡を曹操さまに献じるように、と……」


「む……」


 竹簡を受けとりながら、曹操は訊ねる。


「郭嘉の容態はどうなっておる」


 軍医は精神と声をととのえるように、大きく息をすると、


「残念ながら、柳城遠征のときよりも悪うございます」


「…………」


 曹操の視線が軍医の眉間をつらぬいた。

 正面から目を合わせることができずに、軍医は目を伏せて、言葉をつづける。


「郭嘉さまは、その書簡がおそらく自分の最後の献策になるであろう、と……」


「ばかなことを申すな!」


 曹操は怒声をおさえられなかった。大声を出したことを反省するように口をひきむすぶと、嘆息して、


「いや、すまぬ。……とにかく全力で治療にあたれ。全力でだ」


 曹操は軍医をさがらせると、竹簡に目を走らせた。

 何度も読み返しながら、天幕のなかを歩きまわり、近侍の者をはらはらさせる。

 やがて足をとめて、近侍に命じる。


「荀攸、程昱、賈詡の三名を呼べ」


 幕僚たちを待っているあいだ、心にあるのは郭嘉の容態ばかりである。

 血の気が失せた顔で、本物の後悔をこめて、曹操はうめいた。


「郭嘉は、事前に湿地帯の危険性を指摘していた。余がその言葉にしたがわなかった、これがむくいだというのか……」


 しばらくして、最初にやってきたのは荀攸だった。


「荀攸、参りました」


「これを読め。郭嘉の策だ」


 竹簡を受けとり、読みすすめるうちに、荀攸は目をすがめ、眉間にしわを寄せた。

 むずかしげな表情を浮かべる荀攸に、曹操は告げる。


「四日後、我が軍は烏林から撤退する」


「それはよいお考えだと思いますが、よろしいのですか……?」


 撤退は許されない。かたくなにそう主張していたのは曹操自身である。


 だが、曹操の腹はすでに決まっていた。


 郭嘉の策は撤退を組み入れているが、あくまで勝利を念頭に置いている。

 であれば、問題などあるはずがない。


 この策で勝利をつかんでみせる。天下を手に入れてみせる。


「余は郭奉孝の献策をいれて、後悔したことは一度もない。いままでも、これからもだ」


 涙こそないが、誰が見てもあきらかな泣き笑いの顔で、曹操は宣言した。




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― 新着の感想 ―
[良い点] うおお郭嘉ー!!スーパードクターそこにいるのに(´ぅω・`)
[良い点] それぞれが考えて行動した結果も楽しめて、「さすがは胡孔明」も増えていく面白さ。 [気になる点] 優秀な曹操や参謀達が騙されたのも、黄蓋の前に投降した人がいたのかも……敢えて情報を与えて最小…
[良い点] 元ネタの設定というか資料と、作中の伏線がしっかりかみ合っていて美しいですな
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