第九六話 名将は名将を知る
時は少しさかのぼる。
曹操に間男呼ばわりされようが、周瑜は動じていないようだった。
しかしながら、不当な誹謗中傷をうければ憤慨するのが人の常。
総大将の代わりとばかりに腹を立てる将兵は少なからずいた。
黄蓋もそのひとりである。
彼は肩を怒らせて周瑜のもとにいき、唾を飛ばさんばかりの勢いで訴え出た。
「周都督! いつまで曹操軍に好き勝手なことをいわせておくのか!」
その剣幕にたじろいだのか、周瑜はわずかに体をのけぞらせて、苦笑を浮かべた。
「黄蓋どの。もとはといえば、こちらが日食をもちだして曹操を批判したのです。これでおあいこだと思いませんか」
「だが、兵卒たちは不満をつのらせておるぞ。ここは一戦して、曹操軍を黙らせるべきであろう」
「私に対する中傷は、曹操が焦っている証。挑発に乗る必要はありません」
「いまの状況が、周都督の狙い通りであることは存じておる」
烏林陣中で疫病が広がっていることは、周瑜も黄蓋も知っている。
日が経つにつれて、曹操軍は戦うどころではなくなっていくはずだ。
疫病とは本来偶発的なものだが、この疫病には、じつは周瑜の意思が少なからず介在していた。
曹操軍は大軍である。大勢の兵士が密集して糞尿をたれ流せば、衛生状態は悪化する。さらに湿地帯の烏林に布陣しているとあれば、疫病が蔓延するのはなかば必然であろう。
周瑜が民間船を襲撃してまで曹操を挑発したのは、まさに曹操本隊を烏林に駐屯させることが目的だったのである。
「私とて、ずっと陸口の陣に引きこもっているつもりはありません。焦らずとも、いずれ戦うべきときはきます」
「では、いつまで待てばよろしいのか?」
「ひとつの目安としては……」
周瑜は唇の端に皮肉げな微笑みをたたえた。
「私の悪口を吹聴してまわっているあいだは、曹操軍の迎撃準備がととのっている。そう見るべきでしょう」
周瑜は自身への悪口すら利用して、機をはかろうとしているのだ。秀麗な顔立ちに似合わず、ふてぶてしいほどに冷静である。
司令官を頼もしく感じながらも、黄蓋はいかつい顔をしかめた。
「こちらがいつ動くかは、敵次第ということか……」
「あくまでひとつの目安にすぎませぬ。烏林の様子は、間者を使って常に把握しております」
「……敵次第、疫病次第の現状は、危うい面があるのではないか」
黄蓋には、懸念があった。
彼は長い戦歴のなかで、兵卒たちの心が些細なことで揺れ動く場面を、何度も目撃してきた。周瑜は動じずに冷静でいられるのかもしれないが、将兵の多くはそうではないのだ。
「将兵が敵に腹を立てているあいだはよい。しかし、このままなにもせずにいれば、周都督を臆病者とあなどる者も出てこよう」
周瑜は、ひげを生やしていないあごに拳をあてて、考えこんだ。
さすがに軽視できなかったのだろう。
試されるのは周瑜個人の忍耐というより、軍全体の士気であり、統制である。
「……たしかに、それは困りますね。私への不満が高まれば、敵と内通する者が出てきてもおかしくはない」
「私のもとにも寝返りを誘う手紙がとどいておる。これで三度目だ」
「またですか……。曹操もしつこい男だ」
周瑜はそういって嘆息すると、
「黄蓋どののいわれるとおりです。大将たる私が、侮辱されても戦おうとしない。そんな弱気な姿勢でいては、敵につけいられる。敵に臆病者と思われるのはかまわないが、味方にそう思われるのはまずい」
黄蓋は、我が意を得たりとばかりに大きくうなずいて、
「こちらが有利なのだと見せつけてやれば、敵だけでなく味方にも効果があろう。私にいい考えがある」
「……どのような策でしょうか?」
「曹操の誘いに応じて、私が降伏を偽る。そして、烏林の陣に近づいたところで、火船を突っこませるのだ」
「それでは黄蓋どのが危険です。降伏が偽りだと見破られたら、命はない」
受け入れがたい提案だったようで、周瑜は眉間にしわを寄せた。
だが、危険はもとより承知の上である。黄蓋は半白の眉をあげて語気を強めた。
「いまさら覚悟を問われるか。烏林の陣が炎上すれば、曹操が手痛い敗北を喫したことは、誰の目にもあきらかとなる。効果があるのならやるべきであり、やるのであれば私こそ適任であろう」
「それはそうかもしれませんが……」
「周都督は敵陣が燃えあがったのを確認してから攻めこまれよ。敵が混乱していれば、こちらの被害は軽微ですむ」
周瑜は悩ましげに逡巡していたが、やがて、ため息まじりにいった。
「……わかりました。にらみあって相手の悪口を吹聴しあうだけでは、子どもの悪口合戦と変わりない。孫呉の命運を賭した戦にしては、少々みっともなかったかもしれません」
季節柄、西北の風が吹く日が多いとはいえ、いつもというわけではない。
曹操に降伏の使者を送った黄蓋は、風向きが変わる日を待った。
烏林の陣は江水の西北岸にある。
炎を広げようと思えば、西北の風が吹いていては不都合であろう。
天象は人の身ではままならぬものだが、さいわいなことに、さほどの日を待たずに東南の風が吹いた。
火攻めにはうってつけの風である。
機は熟した。
作戦決行の夜、星暗い船上で、黄蓋は最終確認の声をかけた。
「よいか、船に火を放つのは、烏林の敵陣に近づいてからだ。走舸に乗り換えるのも、ぎりぎりまで我慢するのだぞ」
黄蓋率いる船団は闘艦・蒙衝を合わせて十艘、その船尾には脱出用の走舸がつながれている。闘艦と蒙衝には枯草や柴を積みこんで油をそそぎ、そのうえに布をかぶせて偽装してある。
彼らは味方の目からも隠れるように出港し、烏林の敵陣にむかって漕ぎだした。
帆を張って、東南の風に乗って加速する。黄の字を印した旗をなびかせ、川中を越えてさらに進むと、ほどなく曹操軍の哨戒艇に発見された。
「そこの船、とまれッ!」
「約定どおり、黄蓋が投降しに参った!」
黄蓋が大声で名乗るや、哨戒艇が道をあけた。
どうやら、話は通っているらしい。
敵船にはばまれることなく、彼らは内心の緊張とは裏腹に、悠然と進んだ。
そのまま順調にいくかと思われたが、しばらくして兵士のひとりが疑問の声をあげた。
「妙です、黄蓋さま。妙ですよ、これは」
「どうした?」
「曹操軍の哨戒艇が妙に多い気がします」
その言葉に、黄蓋は周囲をするどく見渡した。
黒い川面のうえに、敵船の存在を告げる灯火がいくつも浮かんでいる。
曹操軍の船が哨戒に出ているのは当然であろうが、指摘されてみれば、たしかにその数が多いように感じられる。
「夜間にこれほど船が出ているとは……。曹操は、私の降伏を疑っているのかもしれぬ」
だとすれば、任務の達成は困難となろう。黄蓋は思わず唾をのみこんだ。
もともと、火船という戦術は破壊力こそあるものの、成功させるのがむずかしい。
戦術などという賢しげな言葉を使ってはいるが、風上や上流から放流するだけの、しごく単純な体当たりにすぎないのだ。敵船からしてみれば、迎撃や回避は容易である。
充分な戦果を得るには、曹操軍の船が密集して停泊している、烏林の陣に体当たりさせねばならない。
だが、曹操軍が警戒しているとなると、そこまでたどりつけるか疑わしくなってくる。
「黄蓋さま、右手に、船がッ」
兵士の悲鳴にも似た声が、黄蓋の思考を凍結させた。
いつの間にか、巨大な船が彼らの右手を併進していた。
その船は灯火をつけず、暗闇に溶けこんで、彼らに近づいていたのである。
壁のごとくせまりくる巨大な船は、黄蓋たちに存在を誇示するかのように、一斉に明かりを灯した。
敵船の上に組まれた楼を見て、黄蓋は驚愕した。
「楼船!? ばかな」
楼船は、指揮官が乗る旗艦である。
「まさか、曹操がこんな夜更けに出航しているというのか……!?」
黄蓋の予測ははずれた。
「はっはっは! 黄蓋よ!」
楼上から、彼らを見おろしているのは徐晃である。
「烏林の陣を火攻めにでもするつもりだったのだろうが、残念だったな! 丞相は周瑜の詭計などお見通しよ! あいにくと小型の船は岸へ揚げ、大型の船はこうして出航している! 我らの船を燃やすことはかなわぬぞ!」
楼船がみるみる接近してくる。その甲板上では、曹操軍の兵士たちが弓をかまえ、狙いをつけている。
「ぬうう、ことは露見したか」
策の失敗をつきつけられた黄蓋は、強く唇を噛んだ。
万事休す、もはや死はまぬがれまい。
躊躇は一瞬たりともなかった。
黄蓋の覚悟は、彼に弓を取らせていた。
ほとんど反射的だった動作に、すぐさま思考が追いつく。
曹操でないのは残念だが、せめてあの敵将を討ち取らねばならぬ。
黄蓋が弓をかまえるより早く、徐晃が命じた。
「射よッ!」
無数の矢が降りそそいだ。
黄蓋たちは、鎧を身につけていなかった。
戦意がないことを示すために、軽装をしていたのである。
これでは、身を守るのはとうてい不可能だった。
矢の雨が甲板を叩きつけ、はげしい音を立てる。
その音が過ぎ去ったとき、兵士たちはことごとく倒れていた。
ただひとり、黄蓋だけはよろめきすさりながらも、まだ両の足で立っている。
難を逃れたのではない。身体には幾本もの矢が突き刺さっている。
それでもなお弓を引こうとする黄蓋の姿に、徐晃も弓をかまえ、感嘆の声をもらす。
「お見事。この徐晃、感服いたす」
つぶやき終えると同時に、徐晃は矢を放った。
羽音が夜気を切り裂き、銀色の矢じりが流星となって黄蓋の額につきたった。




