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第九四話 勝利への道


 藍色に暮れなずむ空の下で、郭嘉かくか軍は夜営の準備をしていた。

 冬十一月ともなれば、日暮れまでの時間は短い。

 一日で進める距離も、相応に短くなる。


李典りてん、いつになったら劉備軍と戦えるのだろうな」


 朱霊しゅれいのもどかしげな問いかけに、李典は冷静に返す。


「朱霊どの、焦りは禁物ですよ」


「むうっ……。たしかに、曹操さまが周瑜しゅうゆ軍を撃破する前に劉備軍を撃破したい、という気持ちがあるのは否定できん。戦の大勢が決してからでは、ただの敗残兵狩りになってしまうからな」


 朱霊は自分の発言に眉をひそめると、言い訳がましく、つけくわえた。


「私は、武功に目がくらんでいるわけではないぞ。曹操さまのお役に立ちたいのだ」


「あまりちがいはないように思うのですが」


「戦乱の時代には主役がいる。この時代の主役は曹操さまなのだ。私は、曹操さまの物語のなかで、重要な役割を果たしたいのだ」


 そういって、朱霊は考えこむと、


「たとえばだな。曹操さまの船が炎上しているところに、私が小舟に乗って、颯爽と救助に駆けつける。そして、敵の矢が雨あられと降りそそぐなかを、私は全身に矢を浴びながらも曹操さまを守り抜いて、陸へと避難させるのだ」


「はぁ……」


「あるいは、敵の刺客が曹操さまの身にせまったとき、たまたま居合わせた私が曹操さまをかばい、凶刃を受けながらも刺客と刺しちがえるとか……」


「……どちらも、朱霊どのご自身が死んでしまっているではありませんか」


 呆れた李典は、指摘せずにはいられなかった。


「だが、身を挺して曹操さまを救えば、その活躍は未来永劫語り継がれよう」


 朱霊は拳を握りしめて力説した。

 李典は半分呆れながらも、残る半分は本気で感心していた。


 朱霊の忠誠心は見上げたものである。

 見習いたいとは思わないし、少々英雄願望がまざっているようにも見受けられるが、朱霊の置かれた立場を考えれば理解はできる。


 朱霊はもと袁紹の配下である。

 曹操と陶謙とうけんが争っているときに、袁紹から援軍として派遣された。

 そこで曹操の器量に惚れ込んだ彼は、袁紹のもとに帰らず、そのまま曹操の家臣となったのだ。


 曹操が帝を擁立するより前のことであるから、古参の臣といってもよい。

 だが、仕えた年数の割に、目立った功績はない。

 そもそも、武功を立てる機会に恵まれなかったのである。


 李典が思うに、曹操は朱霊の忠誠心を全面的に信用することができなかったのだ。


 当時の曹操は弱小勢力で、袁紹から乗り換える合理的な理由はなかった。

 袁紹が送りこんだ埋伏まいふくの毒ではないか、との懸念が曹操の頭をかすめたのだろう。


 そんな人物が、重要な仕事をまかされるわけがない。


 袁紹が亡くなり、曹操軍がぎょうを占領してから、ようやく朱霊にも大きな仕事がまわってくるようになった。


 ところが、荊州けいしゅうでおこなわれるはずだった戦はなくなってしまった。


 やはり焦りがあるのだろう、と李典は思う。


 天下統一が近づくにつれ、武功を立てる機会は減っていく。

 さらに、張郃ちょうこうという人物の存在が、朱霊の競争心を刺激してやまない。


 張郃も袁紹に仕えていた武将である。

 官渡の戦いでやむなく投降し、河北平定戦で活躍した。

 武功をかさねた結果、彼の家中における立ち位置は、いまや朱霊を追い抜いてしまっているのだ。


 朱霊としては、自分のほうが先に曹操に仕えたのだ、みずから進んで旗下にくわわったのだ、という自負もあろう。


 ともあれ、焦りや不安を抱いていては、判断を誤りかねない。

 朱霊の憂いを解消すべく、李典は口をひらいた。


「心配せずとも、戦局を動かすのは、我々の役目であるように思いますが」


「そうだといいが……」


「曹操さまが孫権軍と雌雄を決するつもりであれば、荊州水軍を動かしているはずです」


「なるほど、そのとおりだ。水軍を江陵に駐屯させたままなのだ。曹操さまが、わざわざ分の悪い戦をしかけるはずもあるまい」


 もし周瑜が大船団をくりだしてきたとしても、陸上から反撃すればよいだけのことだ。

 船同士の戦でなければ、いかようにも対処はできる。

 攻め手を欠いているのは、周瑜も同じである。


「我々が夏口かこうを攻めれば、陸口りくこうの周瑜も柴桑さいそうの孫権も、劉備を支援するために動かざるをえません。戦局が動くのはそれからになるでしょう」


「それならばなおのこと、夏口へ急ぎたいところだな。……慎重に進むことまで否定するつもりはないが、郭嘉どのは、なぜ地図作りに固執するのだろうか?」


「…………」


 李典は返答できなかった。


 途中から郭嘉が詳細な地図の作成を命じているため、彼らの行軍にはさらに遅れが生じていた。


 李典も朱霊も、地図の重要性は理解している。

 だが、劉琮りゅうそうが降伏した時点で、すでに荊州の地図は入手しているのだ。

 いまさら地図にこだわる必要はないように思えるのだが……。






 朱霊と李典が顔を突きあわせていたのと同時刻のことである。

 郭嘉の天幕を訪れた于禁うきんは、絹布けんぷに描かれた地図が無数に散乱しているのを見て目を丸くした。眉をひそめて苦言をていす。


「郭嘉どの、……総大将がする仕事とは思えぬが」


 地図の中心であぐらをかいていた郭嘉は、さもありなんといった調子で苦笑した。

 文机の上には筆具が広げられ、色鮮やかな顔料がならんでいる。

 郭嘉はみずから地図に手をくわえていたのである。


「地図を前に作戦を立案することは、たしかに貴殿の仕事だろう。だが、地図の作製までいってしまえば、それは領分の外ではないか?」


「勝利するための下準備である以上、オレの職務の範囲内でしょうよ」


「勝利のためとあらば、私からはなにもいわぬ。だが、もうすこし行軍速度を速めるわけにはいかないだろうか?」


 返答せず、郭嘉は逆に問い返す。


「于禁どのは、この戦の主戦場はどこだと考えているんすか?」


「烏林・陸口方面と夏口方面、どちらが主戦場になるかということか。……むずかしいな」


 于禁は言葉どおりのむずかしげな表情を浮かべて、


「敵味方ともに、主力は烏林・陸口に駐屯している。……しかし、正面からぶつかりあうのは、夏口方面の我々と劉備になるはずだ」


「オレは、主戦場はあくまで烏林だと思うっす」


「烏林・陸口方面か」


「いえ、烏林っす」


「周瑜が烏林に攻めてくるということか? そんな無謀な男には見えないが……」


 于禁の声には困惑のひびきがある。


 烏林には六万を超える曹操軍が駐屯しており、しかも水塞すいさいが築かれている。

 いかに孫呉水軍が手練れであろうと、正面から攻め落とされることはないだろう。


 于禁が当惑するのも、もっともである。


 郭嘉は逡巡した。

 烏林で疫病が流行り、曹操本軍は敗北する可能性が高い。

 郭嘉たちが夏口へ急いだところで、曹操軍全体の勝利にはつながらない。

 そのような士気をそぎかねない話は、郭嘉の胸に秘めておくべきであろう。


 しかし、危機意識は共有しておいたほうがよい。

 そう判断した郭嘉が口を動かすより早く、于禁がうなずいた。


「なるほど。烏林の状況が急変するかもしれない、と郭嘉どのは考えているのだな」


 明敏な于禁は、郭嘉の危機意識を察してくれたようだ。

 疫病が戦線を崩壊させるとまでは考えていないだろうが、それで充分である。


「ええ、そのとき精度の高い地図があれば、判断の一助となるでしょう」


「承知した。前へ急ぐより勝利が近づくのであれば問題なかろう。郭嘉どのの思うままになされよ」


 との言葉を残して、于禁は天幕を去った。


 地図作成の手を再開する前に、郭嘉は思考にふけり、孔明との軍議を思い返す。


 荊州侵攻は、劉表軍ではなく孫権軍との戦になる。

 孫権軍と水上で戦えば負ける。

 火攻めに注意を払うべきだ。

 そして、


「疫病が最大の敵となる、か……」


 曹操が湿地帯の烏林に引きずり出された時点で、すでに勝敗の天秤は、敗北にかたむいていると見なさねばなるまい。


 もちろん、勝敗が決したわけではない。


 不利に立たされたことを認識したうえで、それでも郭嘉の目には、まだ勝利への道筋がはっきりと見えている。


 夏口方面で勝ち、烏林方面でも勝つ。

 その道を、じつは彼は急いでいるのだが、なにしろ目に見える道ではない。

 周囲の人々の目には、どうしても悠長に映ってしまうのであった。






 翌日、朝いちばんに趙儼ちょうげんと于禁は、郭嘉の天幕に足をはこんだ。

 すると、天幕の前で待ちかまえていた兵士が困惑の声でいった。


「郭嘉さまから、趙儼さまへの書簡をことづかっております」


「うむ?」


 趙儼は怪訝な表情を浮かべ、差し出された竹簡をうけとった。

 竹簡に目を通すや、彼はまなじりをつりあげ、肩を震わせた。


奉孝ほうこうッ!」


 怒鳴り声をあげ、趙儼はズカズカと天幕に歩み入る。

 その剣幕からして、なにやらとんでもないことが起こったようである。


 于禁もつづいて入ると、天幕のなかはもぬけの殻だった。

 できあがったであろう地図は、文机ふづくえの上にきちんと整頓されている。


「あの野郎ッ!」


 と趙儼が顔を真っ赤にして、竹簡を地に叩きつけた。


 于禁は無言で竹簡を拾いあげる。

 その内容は次のようなものであった。


 この軍の統括は趙儼にまかせる。

 自分はいったん江陵にもどってから、烏林の曹操本軍と合流する。


「思うままに……しすぎだろう」


 思わず于禁はつぶやいた。唖然とさせられると同時に、納得もさせられる。

 職責放棄ではない、勝つために必要だと判断したから郭嘉は動いたのだ。

 なにより勝利を優先させることができるから、彼は曹操の軍師なのだ、と。




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― 新着の感想 ―
[良い点] この時期に縦横無尽な郭嘉いいぞ〜!!
[一言] 地図、確かに衛星写真を見た事があるというのは大きなアドバンテージですが、近代的な地図、例えば道路地図などの作図法を知って居るというのはかなりの知識チートだと思います。 昔、それこそ漢代の地…
[良い点] そうか、周公謹の手元には龐士元が齎した最新の地図があるはずだから 緊急を要する戦略機動には、地図と土地勘を持つ案内、信頼できる2つが揃わないと、看板擬装で行軍遅滞させられちゃったどっかの…
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