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第九三話 理想像は千年の時を越える


「もともと、曹操軍は劉表軍と戦うつもりだったのだ。戦わずに済んだのは僥倖ぎょうこうであったはずだが、戦がなくなったことを、全員がよろこんだわけでもなかろう」


 私の説明は、ほとんど荀攸の手紙の受け売りである。

 だから、見立てはまちがっていないはずだ。


「……なるほど、武勲を立てる機会を失ったと考えている者にしてみれば、挑発をくりかえす周瑜は、ようやくあらわれた倒すべき敵に見えるのでしょうな」


「荊州の住民にしても、曹操の統治でなにが変わるのかと身がまえていたところに、孫権軍の活動によって実害が出ている。これでは、あらたな為政者に対して疑念を抱くのも当然であろう」


「そこへ孫権軍が日食を利用して、曹操に宰相たる資格なしと喧伝してまわっている……。曹操としても、指揮をとっている周瑜に鉄槌てっついを下してみせなければ、周囲にしめしがつかないということでございますな」


 郭図は納得の声でいった。


 それにしても、まさか日食が、曹操の行動に影響をあたえるとは……。

 本人がいくら合理的であろうとしても、風習や慣例といったものは、やはり排除しきれないものなのだろう。


 ごくごく小さなスケールの話で、比較するのも恐縮だが、私も似たような問題に直面したばかりだった。


 男児を生むためのおまじないである。


 壁に弓矢を掛ける程度のことなら、なんの問題もない。

 けれど、妊婦に虫を生きたまま飲みこませたり、夫の髪の毛と犬の陰茎をすりつぶした粉を飲ませたりすれば男児が生まれるという、とんでもない風習もあるのだ。


 さすがに体に悪そうだったので、私はそれをやめるように提案した。

 女性陣は私の意見を積極的に支持してくれた。


 そりゃそうだ。

 だって、生きたままの虫だよ! 髪の毛だよ! 犬のち〇こだよ!

 そんなもん、誰だって飲みたくないわッ!


 さいわいなことに、私の主張に反対する人はいなかったから、何事もなく廃止できた。

 けれど、もし反対されていたとしても、この件に関してだけは、私はきっと自分の主張を押しとおしていたと思う。


 いちおう私は家長である。けっこう権限は強いのだ。

 けれど、なんでもかんでもごり押しできるかというと、そうでもない。


 目下、私が悩んでいるのは、蜂蜜についてである。


 前世では、乳児に蜂蜜をあたえるのはよくないといわれていた。

 たしか、ボツリヌス菌が悪さをするという話だったと思う。

 しかし、この時代では、蜂蜜は栄養満点の万能薬あつかいされている。


 ボツリヌス菌がどうのといったところで、説得できるはずもないので、乳児に蜂蜜をあたえてはいけない理由を、私がこねくり出さなきゃいけないのである。


 ううむ、どうしたもんだか。


 世間一般と異なる主張を納得させるのは、家庭内ですらひと苦労なのだ。

 曹操が、日食は自分の施政とは無関係だと主張したところで、無数の民を納得させるのは不可能だろう。


 そうなると、曹操に宰相たる資格なし、と触れまわっている孫権軍を叩いてみせるのが、一番効果的に思えてくる。


「曹操は、本陣を江陵から烏林うりんにうつしたそうだ」


 私がそういって人差し指で烏林を示すと、郭図も地図に視線を落とした。


「烏林ということは、……周瑜が本陣を置いている陸口の対岸でございますな」


「うむ。江水をはさんで、曹操と周瑜がにらみあっている状況のようだな」


「……いかに江水の川幅が広くとも、対岸であれば互いの本陣が見える距離だと思うのですが。そこまで接近しておきながら、全面対決にいたっていないのでございますか?」


「曹操は、江陵の水軍をあまり動かしていないそうだ。烏林にもそれなりに船は配備しているようだが、孫呉水軍と正面から戦えるほどの規模ではあるまい」


 曹操は水軍の大半を温存して、江陵の守備にあてている。

 郭嘉や荀攸の進言が功を奏したのだろう。


「ふうむ、なんとも中途半端というか、曹操の判断が消極的に見えますな」


 郭図は首をひねった。

 周瑜を叩くために烏林に本陣をうつしたのに、水軍の大半をともなっていない。

 それが、郭図には中途半端に感じられるようだ。


 消極的に見えると指摘されれば、たしかにそのとおりだ。

 曹操は攻撃するそぶりこそ見せているが、全力を入れようとはしていないのだから。


 孫権領に攻め込んだところで、江水で撃退されるのがオチだと思っている私は、江陵の防衛に重きを置く判断は正しいように思えるのだが。


「にらみあったまま戦況が膠着すれば、曹操軍が敗北する目も出てくるかもしれませぬぞ。遠征先で長期戦にもつれこんでしまうのは、よくない兆候と見るべきでございましょう」


 郭図は思慮深げにいった。

 自身の経験が、彼の頭のなかをよぎったのかもしれない。

 袁紹軍は官渡城を攻め落とせず、戦況が膠着してしまい、兵糧庫を急襲されたことで、崩壊してしまったのだ。


 ただし、曹操軍に兵糧庫という弱点はない。

 孫権軍が活発に動いているといっても、それは水上にかぎっての話である。

 曹操軍の補給路は陸路だから、兵站を切られるおそれはないと考えていい。


 けれど、私は知っている。

 赤壁の戦いにおいて、曹操軍の急所は別に存在する。

 疫病である。


 陸口の周瑜軍の活動をおさえるには、対岸の烏林に布陣するしかないのだろう。

 だが、烏林は、雲夢沢うんぼうたくという湿地帯にある。

 疫病の発生しやすい湿地帯だ。


 しかも、前世における赤壁の戦いで曹操は敗北したわけだが、烏林という地名はそこでも出てきたような記憶がある。

 烏林に本陣をうつしたことで、曹操軍の敗色はかなり濃くなった、と考えなければならないだろう。


 ……さて、どうしたもんだか。

 夜、寝台に入ってからも、私は考えつづけた。

 曹操にとってベストな選択肢は、やっぱり江陵に待機することだったと思う。


 ……そういえば、荀彧がいってたっけ。

 荀彧がそうであってほしいと願うより、曹操は腰が軽い、だったか。

 曹操のフットワークの軽さが、悪いほうに出てしまったようだ。


 とりあえず、私も打てる手は打っといたほうがいいだろう。

 まず、烏林から撤退するよう、荀攸に手紙を送る。

 そして、華佗だ。


 こんなこともあろうかと、私は華佗との連絡を欠かしていない。

 彼にも手紙で、烏林の曹操軍と合流してもらうよう頼みこむとしよう。


 おいでませ、スーパードクターKADA!




 *****


 胡昭は医学にも精通しており、華佗の青嚢書を世に広めるため尽力した。しかし、胡昭がどこで、どのようにして医療知識を学んだのかはあきらかになっていない。また、彼の医療知識は、当時の中国の最先端であると同時に異端でもあった。


 張湛ちょうたんの養生要集によると、胡昭は「虫の気」が人体に悪さをするとして、妊婦に生きたままの虫を飲ませるといった悪習をやめさせ、蜂蜜にもかすかに虫の気が残されているため抵抗力のない乳児にあたえてはならない、との言葉を残したとされている。


 当時の中国では、蜂蜜はあらゆる疾病に対して有効な万能薬とされており、胡昭は中国において蜂蜜の毒性を指摘した最初の人物であった。その一方で、西洋においては蜂蜜の毒性が当時から認識されていた。


 古代ギリシアの哲学者クセノフォンは、自身の軍人としての体験をつづった「アナバシス」の中で、数百人の兵士たちが蜂蜜中毒によって一昼夜苦しんだと記録している。また、古代ローマ時代には、ポンペイウス率いるローマ軍がツツジに由来する蜂蜜を食べて中毒を起こしたところを敵軍に襲撃され、多くの犠牲者を出している。


 これらの事例は有毒植物から採取された蜂蜜による中毒症状であり、乳児ボツリヌス症とは異なるものである。胡昭が乳児への危険性を指摘したのは、こうした蜂蜜中毒の情報が中国へと伝えられる際に歪められ、抵抗力のない乳児にあたえてはならないという話に変化していたためといわれている。


 このように、胡昭はシルクロードを通して、西方からも貪欲に知識を吸収した。医学のみならず、書道、弁論、料理、農業、経済、政治、兵法、発明、あらゆる分野で実績を残し、東西を問わずに知識を追いもとめた彼の姿勢は、中国や東洋だけでなく、西洋にも大きな影響をあたえた。


 西洋ルネサンス期において、胡昭は万能の人物の理想像として、「万学の探求者」と呼ばれ、レオン・バッティスタ・アルベルティやレオナルド・ダ・ヴィンチら多くの知識人から尊敬を集めた。


 胡昭 wiikiより一部抜粋


 *****


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>>胡昭は「虫の気」が人体に悪さをするとして、妊婦に生きたままの虫を飲ませるといった悪習をやめさせ、蜂蜜にもかすかに虫の気が残されているため抵抗力のない乳児にあたえてはならない、との言葉を残したとされ…
孔明先生が世界にバレてしまった!
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