第九一話 理想像
「荷の積み忘れはないか―ッ!」
「碇だーッ! 碇をあげろーッ!!」
水夫たちが各所で声を張りあげる。
すでに孫呉水軍の出港は始まっており、大小の軍船が川面を埋めつくしていた。
広大な江水の川面を埋めつくしているのだから、壮観のひとことである。
「曹操とて、これほどの大船団を見たことはないでしょう」
諸葛亮は讃嘆してみせたが、素直な心情を吐露したとはいいがたい。
孫呉水軍がいかに頼もしくとも、敵はより強大な曹操軍である。
物量で押し切れる相手ではないのだ。
「不安に思うことはない、諸葛亮」
まるで諸葛亮の胸のうちを見透かしたかのように、周瑜はいった。
「我々は勝つ。我々の力だけではない。江水の慈悲が味方をしてくれるのだから」
緊張も気負いも感じさせない声でいうと、周瑜は眼下の船団を眺めやった。
彼らは、いままさに出港しようとしている楼船の最上階に立っていた。
三層の楼閣が組まれた、ひときわ大きな楼船である。
この船団は江水をさかのぼり、陸口にむかう。多くの船舶を停泊できる地はかぎられる。陸口は浦が多いためその条件を満たしており、おそらく曹操との戦の最前線となるであろう。
途中、夏口に寄って、諸葛亮は船を降り、周瑜は劉備と会談する予定である。
「大河は偉大だ。人々は川の近くに集まり、邑を形成して、やがて国が興った。大河を利用することで、我々の祖先は広い流域の力をひとつにまとめてきた」
周瑜の言葉は、戦とはまったく関係がないように思われた。
だが、彼が無意味な発言をするとも、諸葛亮には思えなかった。
「江水流域は森林が多く、燃料に不自由せずにすむ。この豊かな水資源と森林資源は、江水の慈悲であり、まさしく天からの恵みといえる」
周瑜の言葉は、江水への無垢な敬慕にとどまらぬ、なにかがあった。
その奥にひそむ真意に気づきえたのは、諸葛亮が鋭敏な知性の持ち主だからであり、周瑜と同じ予兆を嗅ぎとっていたからであろう。
「周瑜どのは、江水流域にあらたな国家をつくるべきだ、と考えているのですか?」
非難がましい声になるのを、諸葛亮は完全にはおさえられなかった。
「あなたは……漢が滅びるとお思いなのか?」
「勘ちがいしないでほしい」
周瑜は穏やかな声音で返す。
「天地にはおよぶべくもないが、四百年もの長きにわたって、天下を治めてきた漢帝国は偉大な王朝だ。漢朝の再建を、大勢の人が祈っている。私も三公を輩出した周家の者として、漢朝による安定した御世を心から願っていることに変わりはない。……しかし、それにすべてを賭けるわけにもいかないのだ。なにより、領内の安定を優先させなければならない。……昨今の漢朝衰退の要因を、君はどう見ている?」
「……宦官、外戚、黄巾の乱、董卓、曹操に、各地の群雄の勢力争い。数え切れませぬ」
「漢朝衰退の要因は、朝廷の腐敗と地方の疲弊だ。揚州という、地方を治める孫権さまは、地方の疲弊に向きあわねばならない」
「…………」
「地方が抱えている問題は多い。その主な原因は、都との距離にある。もし大河流域がひとつの国家としてまとまれば、水運を活用することで、都と地方の距離は縮まる。そうなれば、漢朝の手からこぼれ落ちた人々ですら、救いうるだろう」
勘ちがいするなといいながらも、周瑜の頭の中には、独自の国家像が明確に描かれている。
諸葛亮は反論しなかった。
漢朝では救えなかった人々まで救えるというのであれば、周瑜が示したあらたな国家像は否定されるようなものではない。
天下の南が江水の国家になるとしたら、北は河水の国家になるのだろうか。
そこまで考えたところで、周瑜の狙いがさらに先にあることを、諸葛亮は察した。
「仮に、河水と江水の流域に、ふたつの国家が並び立つとしたら……。優位に立つのは江水の国家、ということでしょうか」
南船北馬という言葉がある。南では移動や運搬に船を用い、北では馬を用いることにゆえんする言葉だが、南北で差が生じる大きな理由は、北を流れる河水の性質にあった。
河水は暴れ川なのだ。
氾濫して流れを変えることすらあるし、そこまでいかなくとも断水・凍結がしばしば発生する。これでは水運は限定的なものにならざるをえない。
江水流域に、漢よりすぐれた統治体制をもつ水運国家が興ったとしても、北の国家にはそれを真似することができないのである。
南に豊かで住みやすい土地があると知れわたれば、人々はそこに流れていく。いずれ北の国家は衰亡の道をたどるであろう。
その流れに逆らい、北が軍事力をもって制圧しようとしたところで、有利不利がくつがえるわけではない。南の国家にしてみれば、水運を利用してすみやかに軍隊を展開すればいいだけのことである。
江水は南の国家に、豊かさと軍事的優位をもたらしてくれるのだ。
周瑜の言葉どおり、まさしく慈悲であり、恵みといえよう。
「江水は偉大だよ」
周瑜は音楽的な声でいった。
眼下の船団を眺めるその端正な横顔に、諸葛亮は圧倒されていた。
諜報・兵站を万全にこなし、水軍・前線指揮官として曹操軍に敢然と立ちむかい、さらには、既存の統治形態よりすぐれた構想を思い描く。
そのほとんど万能といってもいい姿は、諸葛亮の理想像にかぎりなく近かったのである。
彼らの邂逅はごくわずかなものでしかなかったが、そのわずかな時間で、周瑜は諸葛亮の脳裏に、鮮烈な印象を残したのだった。
*****
西暦に換算すると二〇八年ぐらいだろうから、当然といえば当然なのだが、この時代には呪術や迷信といった怪しげなものが色濃く息づいている。
そのひとつが、男女の産み分け方法である。
部屋の扉の左側の壁に弓矢を掛けておくと男児が、右側の壁に旗を垂れさげておくと女児が生まれる、といわれているのだ。
もちろん、私は信じていない。けれど、その風習をとめようとまでは思わない。「男か女かは、X染色体だとかY染色体だとかで決まるのだ」と説明したところで、理解を得られるはずがないし、そもそも確認しようがない。それに、こういった風習だって、ある程度は尊重しなければならないと思う。
男児と女児のどちらが望まれるかというと、基本的に男児である。家を継ぐのは男児だし、男児が生まれると国から課される義務や税金の一部が免除されるからだ。男女平等という言葉が声高に叫ばれるのは、はるか遠い未来の話にすぎない。
妊娠が判明したら、多くの家が壁に弓矢を掛けるように、我が家の壁にも弓矢が掛けられている。
そう、胡孔明、四十七歳の冬。
おじいちゃんになる日が、目前にせまっております!
大きな火鉢のそばのいちばん暖かい場所を、妊娠している纂の嫁にゆずっているため、最近の私はもっぱら主屋の隅っこを定位置としている。
とはいえ、寒さで身を縮めるようなことはない。ほかの建物とくらべれば、主屋はそれだけで十分に暖かいのだ。
台所のかまどには常に火の気があるし、炕という暖房がそなえつけられている。
炕とは、中国北部でちょくちょく見られる大がかりな暖房のことで、かまどから出る煙を、いったん床下につくられた煙道を通してから外に排出する、というものである。
古代中国、驚異のメカニズム!
この時代に床暖房が存在するのだ!
私は床下のどこを煙道が通っているのか正確に知っているので、部屋の隅にいながらも、煙道の真上をちゃっかりキープ。湯呑にふうふう息を吹きかけ、熱いお茶をすすりながら、荊州から送られてくる書簡に目を通していた。
曹操は江陵に大本営を置くと、荊南四郡に役人とわずかな軍を送りこんで支配権を確立したそうだ。
西の劉璋、東の孫権には使者を送って恭順をせまっている。
反応は正反対といっていいだろう。劉璋は恭順の姿勢を見せているが、孫権は徹底抗戦のかまえである。
そうなると、孫権を屈服させるために、曹操はあらためて決断しなければならない。
あくまで外交努力に徹するのか、それとも実力行使に出るのか。
注視すべきは、江陵の水軍の動きである。曹操は水軍を動かしていない。いまのところ、孫権と戦をするつもりがないと見ていいだろう。よしよし。
荀彧や郭嘉が水戦の危険性を訴え、渡河に反対したのが功を奏しているようだ。彼らの主張に荀攸も同調してくれたそうだし、さらに私とは関係ないところで、賈詡も孫権との戦には反対しているらしい。
知略にすぐれた人物が、これだけ反対しているのだ。彼らの頭脳の価値を知っているだけに、曹操としても慎重にならざるをえまい。
ただし、荊州にはまだ明確な敵が残っている。夏口の劉備である。
劉備が相手なら、慎重になるのはともかく、消極的になる理由はどこにもない。
というわけで、曹操軍約四万が夏口にむかって進軍を開始した。
前世で曹操軍がどう動いたのかは知らないが、ここで孫権ではなく劉備に狙いをしぼるのは、戦略的に悪くない判断である。などとえらそうに寸評してみる。
総大将は郭嘉、副将は趙儼で、麾下には于禁・張遼・張郃・朱霊・李典といった武将がそろう。かなり豪華なメンツで、兵力においても優勢なはずだが、劉備軍も武将の質はすごいので楽観はできない。
ちなみに、趙儼は潁川出身の名士で、年齢は郭嘉よりひとつ下。郭嘉とは家がお隣さんだった、いわゆる幼なじみである。彼らがつるんでいたかというと、そんなこともなかったと思うが、郭嘉に対する理解はあるほうだ。才気煥発とまではいかないが、名士社会でも如才なく泳いでわたれるタイプなので、儒教的なあれやこれやで郭嘉と名士のあいだに軋轢が生じても、うまいことフォローしてくれるんじゃないかなと期待している。
そんなふうに荊州情勢を分析しつつ、そろそろ就寝時間かな、と思ったそのときだった。
「うぅ……!」
突然、纂の嫁がうめき声をあげて、お腹を押さえた。
私の妻が駆け寄ってその背中をさすり、纂がなにをしていいかわからずきょろきょろする。家人も動揺しているのか、凍りついたように動きをとめた。
う、初産だ。初産は時間がかかる。まだあわてるような時間じゃない。
私は立ちあがった。湯呑を倒した。熱っ、ああ、竹簡が濡れたッ!? ええいッ!
「さ、産婆だ! 産婆を呼べええいッ!!」
叫びつつ、重要事項をチェックする。
お、お湯は、沸いてるな! ヨシ!
清潔な布は、たくさん用意してある! ヨシ!
出産用の部屋も、準備万端だ! ヨシッ!!




