第九話 孔明の涙
「な、なぜ……先生が、こんな場所に……」
周生は、まるで酸欠の鯉のように、口をぱくぱくさせると、
「そうか。あいつが、告げ口をし――」
「だまらっしゃい!!」
大気をふるわす私の一喝に、若者たちは飛びあがらんばかりに驚いて、立ちすくんだ。
「おぬしらのやろうとしていることなど、すべてまるっとお見通しだ!」
ウソです。
報告をうけるまで、まったく気づいちゃいませんでした。
しかし、はったりの効果はあったようだ。
とりまきたちは困惑を浮かべた顔を見あわせた。
「……なあ、もうやめようぜ」
「もとから、人殺しなんて、気が進まなかったしな」
「そうそう。司馬懿だっけ? そいつ、いいとこの坊ちゃんなんだろ。手を出したって、いいことなんてないって」
「だよなあ」
「な?」
「なぁ?」
うんうん、とうなずきあい、周生を見る。
「おまえら、今さら臆したのかッ! 家柄なんて関係ない。相手はただの旅人なんだ、って説明しただろうがッ!」
「さては、おぬしら。旅人がひとり消えたところで、たいして問題にはならない。と踏んでおるな」
周生の怒鳴り声を聞いて、私はそう判断した。
「だって、旅人が姿をくらますなんて、よくあることだし……」
「捜査なんて、ろくにされないはずだ。地元のおえらいさんならともかく、よその人なんだから、って……」
「周生がいってました!」
「「いってましたっ!!」」
息のあったとりまきたちを見て、感じるものがあった。
周生ってば、人望ないのね。
いや。……これは、これが、私のカリスマのなせる業だッ!
「おまえら、いいから黙ってろ!」
「周生! おまえは、自分のやってることが、まだわからんのかッ!!」
周生がわめく。
それを、私が叱りつける。
痛みに耐えている私の足首がSOSを伝えてくるが、意思の力でねじ伏せる。
「たしかに、司馬家はあくまで河内郡の名家だ。この弘農郡で起きた事件を、どうこうする力はないかもしれん。そう考えてしまうのも、わからないではない。……だが、おぬしらの見通しは甘い」
私は口を閉じて、あきれたように首をふった。
それから、ため息まじりに、
「息子が姿をくらましたなら、司馬懿の父、司馬防どのは必ずや捜査を要求するであろう。どこに訴えでると思う? そこいらの官吏ではないぞ。直接、司隷校尉に話をもっていくはずだ」
「……ッ!?」
周生がぎょっと目をむいた。
とりまきたちは、ヒソヒソささやきあう。
「しれいこうい、って誰だ?」
「えらい人だろ」
「おれは聞いたことあるぞ」
「周生。司隷校尉とはどのような官職か、説明してみなさい」
私がうながすと、それまでの強気が一転、顔色を真っ青にした周生が、
「……校尉とは、高級武官のことをいい、司隷とは洛陽、長安を中心とした七郡をさします。司隷校尉はこの地域の行政と軍事を統括する長官であり、あらゆる官吏の不正を摘発する強い監察権をもち、三公すら取り締まる権限がある、といわれています」
かたい声でいい、唇を震わせた。
官吏になりたがっている周生からしてみれば、司隷校尉はまさに雲の上の存在だ。だからこそ、そんな上にまで話がいくなんて、考えてもいなかっただろう。
たかが、殺人事件の解決に乗りだすような官職ではない。けれど、それを動かす人脈という力が、司馬家にはある。
「これでわかるな? 司隷校尉が動くとなれば、捜査は本格的なものになる。司馬懿をおそえば、おぬしらは確実に捕まるのだ」
今さらながら、とりまきたちの顔に、「え、やばくね」という表情が浮かんだ。
一方、周生は、生気のない表情でぶつぶつとつぶやく。
「あぁ、しかし……それでも。私は……」
「…………」
その横で。無言のうちに、とりまきのひとりが剣を抜いた。
息をつく間もなく天にかざされた剣が、それに倍する速さで、周生の頭部にふりおろされる。
「ヒッ」
周生は悲鳴をもらして、両手で頭をかばった。腰が抜けたように、地べたにへたりこむ。
剣光はそのまま軌道をのばして、周生の背後にあるナツメの枝を断ちきった。
……もとより、周生を斬るつもりはなかったのだろう。
剣をふりおろした若者は、じっと切っ先を見つめたまま、肩で息をした。
「いいかげん、気づけよ……」
「ちゃんと、孔明先生の顔を見てるのか?」
「おれたちでもわかるってのに、どうして弟子のおまえがわからないんだ……」
つづく仲間の言葉に、周生は私を見あげた。
まじまじと私の顔を見て、ハッとしたように、
「……まさか、泣いておられるのですか?」
「…………」
答えずに、私はそっと目を伏せる。
頬を、熱いものがつたった。
そう。足首の痛みが全然おさまらないのです。
とてもつらい。
「孔明先生は、おれたちを守るために、ここまできたんだ……」
「おれたちが、バカなことをしないように……」
「ううっ……」
とりまきたちの目にも、うっすら涙が浮かんでいた。
周生はがくりとうなだれて、両手を地についた。
「……わ、私が……私が間違っていました」
同時に、とりまきたちが駆けだした。
私にむかって、感激したように顔を紅潮させて。
しまった!?
私の両手はふさがっていた。
右手に羽扇、左手に馬の手綱。
彼らを押しとどめるべき私の両手は、ふさがっていた。
心で叫ぶ。
やめてッ! こないでッ!
「先生!」
「先生ッ!!」
「おれたち、もうこんなことはしませんからぁぁぁッ!!」
若者三人分の質量が、私の体にとびついてきて、
あ、
アーーーーーーーーーーーーーーーーッッ!?!!
それから時はうつろい、除夕になった。
大晦日のことを除夕という。
この日は新年の夜明けを迎えるまで、徹夜で騒ぎつづけるのが習わしである。
もちろん、わが家もご多分にもれず、宴会の準備に余念がない。
念には念をいれて。酒の追加購入をすませた私は、両手にふろしき包みをさげて酒屋を出る。
いうまでもなく包みの中身はどちらも酒壺で、ついでにいわせてもらうと、私はふろしきを愛用しております。便利なので。
「やあ、孔明先生じゃないですか」
通りでばったり出くわしたのは、一輪車を押す肉屋の主人だった。
一輪車ではこんでいるのは、どうやらイノシシの丸焼きのようだ。全身がこんがりと飴色に焼かれている。
「これはまた……すごいな」
「はっはっ、豪勢でしょう? これから、孔明先生のお屋敷にもってくところですよ」
というので、同行することになった。
家々の門口には邪気を払うために、桃の木でこしらえた人形がおかれていた。
いつにも増して、炊煙の立つ家が多い。
食欲を刺激する匂いが、あちこちからただよってくる。
「丸焼きにしただけなんで、あとの調理はお願いしますよ。先生の家の料理は、どれもこれも美味いからって、みんな楽しみにしてるんでさぁ。きっと、ひっきりなしに人がくるでしょうよ。ウチもチビたちを連れて、行くつもりですし。そんでもって、明け方まで大騒ぎとくりゃあ、目がまわるほど忙しくなるでしょうねえ」
「うむ。あたたかい食べ物をきらさぬようにせねばな。まぁ、食材はしっかり買いこんだつもりではあるが」
家族と家人(使用人)に門下生、十分すぎるほど人手はある。
それだけに関係者も多く、来客の人数だってふくれあがる。
ケチと思われぬよう、盛大にもてなしたいところです。
ふふふ。酒も菓子も、たっぷり用意してありますとも。
「……商いが滞らずにすんで、助かりましたよ。本当に」
肉屋の主人ががっちりとした肩をすくめたので、
「うむ、……周生の引っ越しの件か。急だったからな」
同感、同感、と私はうなずいた。
司馬懿の件からしばらくして、周生の家族は陸渾を去った。
江南の地で、新しい商売をはじめるそうだ。
有力な商人がいなくなったら、物流はどうなるのか。
そう不安がる向きもあったのだが、そこに商機を見いだした商人がいれかわるようにやってきたため、心配は杞憂に終わった。
周生本人はというと、結局あのとき以来、一度も私の前に姿をあらわさなかった。
別れのあいさつにきた周生の父によると、私にあわせる顔がない、と自主的に謹慎していたそうだ。
近所の人にそれとなく聞いてみても、姿をまったく見かけなかったらしい。よほどこたえたのだろう。
寒風がびゅうと吹きつけてきたので、私と肉屋の主人は足を早めた。
ほどなく、屋敷の門が見えた。
門先に、なぜか門下生が集まっている。
全員ではない。十人にも満たないが、彼らは私を見ると、緊張した面持ちでかしこまった。
「「お帰りなさいませ、孔明先生!」」
「……ぇ?」
ビックリしすぎて、変な声が出た。
私の門下生が、こんなに折り目正しいわけがない。
なにしろ出世させようとか、学者にしようとか、そういうのならともかく、ご近所づきあいの延長なのだ。
教育のゆるさには自信がある。
定評だってあるんじゃないかな、なんて思う。
どうして、こんなキビキビしてるんだろう?
疑問を覚えてから、ほんの一秒か二秒、といったところだろうか。
私がなにかいうより早く、門下生を割るように、背の高い若者が前に進み出る。
司馬懿だった。
「お帰りなさいませ、孔明先生」
そういって、彼は道ばたに両ひざをついた。
服が汚れるのを気にするそぶりもなく、ひどく真剣な顔で、私を見あげる。
「今日まで、私はわきめもふらずに一意専心、学問に取り組んでまいりました。しかし、本物の学とはなにか、いまだ端緒をつかめずにいます。力や欲、そういうものがはいらない場所で、刻苦勉励の日々をおくってこそ、本物の学に近づけるというもの。なにとぞ、この司馬仲達が、先生の下で学ぶことを、お許しください」
口上を述べたあと、司馬懿は頭をさげた。
どこまでも、ひたいが地につくほど、頭をさげた。
「…………!?」
私は絶句した。
あまりにも意外な事態を前に、わけがわからなくなった。
除夕は家族とすごす日なのに、どうして司馬懿がここにいるんだろう。
そんなことは置いとくとして、公衆の面前で土下座なんてありえない、とやっぱり思う。
どうやって収拾をつければいいのか、なにもかもわからなかった。
「まあ、若いのに立派ねぇ~」
「いやぁ、たいしたもんだ」
いつの間にか、野次馬が集まっていた。
感心しきりの声が、耳にはいってくる。
そればかりか、門下生たちからも、司馬懿に賛同する声があがる。
「私からもお願いします」
「お願いします、先生」
えっ。
私は戸惑いながらも、ざっと周囲を見わたす。
この地にきてから、住民はいつも私の意見を尊重してくれた。
なにか問題が起きれば、当然のように私の味方をしてくれた。
それがごくごく自然な流れになっている……はずだったのに。
どうして? どうして、みんなして司馬懿の肩をもってるのッ!?




