第八九話 ペテン師ふたり
「くっくっく、あっはっは!」
孫権の笑声が室内にひびいた。
討論の翌日、諸葛亮を招いての席である。
同席するのが魯粛のみとあって、孫権は自分の意に逆らう者に対して遠慮がない。
「降伏派がやりこめられる様子は、さぞ痛快であったろう。私も見物したかったものだ。よくやってくれた、諸葛亮」
「私は線引きをしただけでございます」
称賛は諸葛亮の心に染みこまなかった。
自分が魯粛の駒であったことを、彼は理解している。
利害が一致しているのだから、駒というのはいいすぎかもしれないが、功を誇る気にもなれなかった。
「降伏派といっしょくたにされていても、その実情は一枚岩ではありませんからな」
魯粛はしたり顔でいう。
降伏派としてくくられているのは、開戦か降伏かで意見を分けたからであり、当然のことながら、個々に見ていけば彼らの意見はそれぞれ異なる。
魯粛と諸葛亮は降伏派という大集団に潜在する、決定的な意見のちがいを浮かびあがらせたのだ。
孫権の身を案じて降伏をすすめているのか、それとも自分の利益のために孫権を売ろうとしているのか。
指摘したのが魯粛であれば、「主戦派がなにをいうッ!」と怒鳴りちらすことで、降伏派と主戦派の対立に落としこむこともできたであろう。
だが、指摘したのは諸葛亮だった。
外部の人間にまで魂胆を見透かされていると知って、孫権を売ろうとしている者たちは青ざめた。
その一方で、彼らと同じに見られたらたまらないのが、主君の身を案じて降伏をすすめていた者たちである。
降伏派の中心人物である張昭にしても、諸葛亮に反論しようとしなかった。
孫権を売ろうとしている者を、擁護するわけにもいかなかったのだ。
「これで降伏派はみごとに二分された。さらに、その片方は私を売ろうとしている連中だ。卑しい魂胆が白日の下にさらされた以上、そいつらの発言力は大幅に低下する」
「ですが、まだ降伏派が多数を占めていること自体に変わりはありません」
魯粛の発言に、諸葛亮は内心で同意する。
じつは、降伏派の数が変わったわけではない。見方を変えただけなのだ。
魯粛と諸葛亮が用いたのは詐術にすぎなかった。
ただし、見方を変えるだけで形勢を揺り動かすという、巧妙かつ効果的な詐術である。
公平を期すなら、主戦派も分割すべきであろう。
降伏派と同様に、主戦派も一枚岩であるはずがない。
たとえば、諸葛亮の兄・諸葛瑾は中立を保っているが、かたくなに降伏派に属そうとしないため、消極的主戦派として数えられている。
そうした消極的主戦派と、軍部を中心とした積極的主戦派との人数は半々であり、彼らの意見の相違を利用すれば、主戦派にくさびを打ちこむことも不可能ではないはずだった。いうまでもないが、それは曹操の工作員の仕事であって、諸葛亮の仕事ではない。
それにしても、魯粛のやり口はあざやかのひとことであった。
諸葛亮はもうひとつの詐術を思い返す。
魯粛が劉備の行き先を夏口に転じさせた、という作り話にしてもそうだ。
彼は、劉備の行動や方針を変えさせたわけではない。
自分に都合のよい物語で飾り立てただけなのだ。
物事の表面をぬりかえる、あるいは見方を変えさせる。ただそれだけで、魯粛は自分の功績を増やし、発言権を手に入れ、いままた対立する派閥に水を浴びせかけることにも成功したのである。
それでいて小狡い印象を受けないのは、魯粛の策が、あくまで主君の望みと合致しているからであろう。共謀者の諸葛亮が感嘆するのもおかしなことかもしれないが、魯粛のしたたかさには脱帽するしかなかった。
「まだまだ降伏派の声は強い。開戦を宣告するには、時期尚早だろう」
孫権の声に、魯粛はうなずいた。
「もうひと押ししたいところですな。諸葛亮どの、なにか策はありますか?」
「降伏派の残る半数に対しても、なんらかの手を打ちたいところですが……」
諸葛亮も奇策は持ちあわせていない。
「もう半数、張昭たちか……」
孫権はわずらわしげに眉をひそめ、ため息をつく。
「彼らは、私の身と民を案じて降伏を主張しているだけに、正面から叩きつぶすのはむずかしいぞ」
「……張昭どのを説得するしかないのかもしれませんな」
とは魯粛である。
「説得できるのなら苦労していない。おまえも知っているだろう。あれは頑固者だ。聞く耳もたん」
「しかし、張昭どのが強硬に反対していては、家中をひとつにするのはむずかしいでしょう。なにしろ張昭どのは、孫権さまより強い影響力をもつといわれる御仁です」
「おい」
魯粛の不躾な発言を、孫権が聞きとがめた。
諸葛亮はというと不思議に思った。いままで婉曲な手ばかり使ってきた魯粛が、ここにきて正面から張昭を説得しようとしている。なにか考えがあってのことなのか。
諸葛亮の沈黙を、先行きを不安視しているがゆえと思ったのだろう、魯粛が笑いかける。
「なに、安心めされよ、諸葛亮どの。降伏派を分断させた時点で、私たちの役目は終わったも同然。すでに下準備は整ったのですよ」
「下準備、ですか?」
「近々、周瑜どのが柴桑にもどってくるのです。張昭どのの説得は、彼にまかせておけばよろしい。なにしろ周瑜どのは、孫権さまより影響力も、人望も、説得力もある御仁ですからな」
「おいッ!」
さすがに孫権はカッと目を見ひらいて、魯粛をにらみつけるのだった。
孫呉家臣団の降伏派を相手にして、さっそうと論陣を張った姿からは想像もつかないが、諸葛亮は柴桑にくる前からずっと、頭の中にいいようのない鈍さを感じていた。
精神的失調の理由はわかりきっている。
曹操軍の侵攻に対し、なすすべがなかったからである。
新野・樊城・襄陽・江陵、すべて曹操軍に占領された。
その過程において、諸葛亮の献策はまったくの無力だったのだ。
彼は失意にとらわれかけていたが、この柴桑の地で、ようやく劉備の役に立てそうだった。
降伏派を分断させ、孫権からも好感触を得た。
落ちこんでいる場合ではない、これからだ。
精神を奮い立たせようとした矢先に、劉備の伝令が柴桑に到着した。諸葛亮との連絡役である。その伝令から報告をうけた諸葛亮は、精神を奮い立たせるどころか、失意の沼に沈みこんだ。
徐福が曹操軍に投降した、という報せだったのだ。
この報告は、諸葛亮にとってはショックだった。
「徐兄が、敵になるかもしれないのか……」
諸葛亮は数少ない理解者を失ったのだ。
落ちこんでいる姿を、まさか周囲に見せるわけにもいかない。
彼は心の傷を隠して、外では平静にふるまい、自分にあてがわれた客室にもどると人知れずふさぎこんだ。
その客室に、孫権の兵士がやってきて、晴れやかな声と表情で伝えた。
「諸葛亮さま。周瑜さまが柴桑にご到着なされました」
その兵士に周瑜の居場所を尋ねると、これから登庁するだろうとの答えが返ってきた。
ともかく、まずはあいさつにいくべきだろう。
かるく頭を振って陰鬱な感情を追い出してから、諸葛亮も官庁にむかった。
周瑜、字は公瑾。魯粛や孫権が全幅の信頼を置く人物である。
三公を輩出した名門・廬江周家の人で、先代の孫策とは幼いころから親しかった。
孫策は大喬、周瑜は小喬という姉妹をそれぞれ娶っているため、彼らは義理の兄弟でもあり、孫権もまた周瑜を兄のように敬っているそうだ。
兵士や役人からの評判もすこぶるよい。非の打ち所がない人物などいるはずがないが、きわめてそれに近い人物であるようだった。
官庁に足を踏み入れた諸葛亮は、本殿にむかって歩いている集団を見て、感じとった。
「ああ、あそこか……」
顔を見たわけでも、周瑜という人物を確認したわけでもないが、その一角だけ雑文の中に楽府が入りまじったような、華やいだ空気が流れている。
あきらかに異質なその集団に近づいていくと、そこに意外な顔がまぎれこんでいた。
「士元?」
士元――龐統も諸葛亮の姿に気がついたらしい。ひらひらと手を振りながら、
「孔明、柴桑に来ていたのか」
「士元こそ」
思わぬ再会だったが、諸葛亮の視線は龐統ではなく、そのとなりに立つ容姿秀麗な人物に吸い寄せられた。この集団は、あきらかに彼を中心として集まっている。
「君が諸葛孔明か。かねがね噂は耳にしている」
と、その人物は白羽扇を揺らめかせ、微笑をたたえる。
「私は周瑜、字を公瑾と申す」
「姓は諸葛、名は亮、字は孔明と申します」
名乗りあうと、周瑜の視線は諸葛亮が持つ白羽扇にそそがれた。
「君も胡昭どのにあこがれるクチかな?」
「ということは、周瑜どのも?」
「ははは、そういうことだ。もっとも、胡昭どののような名士本来の生き方は、私にはとうていまねできそうにないがね。戦、戦ばかりだ。曹操軍を撃退したあとも、戦に追われる日々は変わらないだろうよ」
周瑜は笑みを深め、さりげなく自信をのぞかせた。
「諸葛亮、君とは気が合いそうだが、まずは殿にあいさつにいかなければならない。この場は失敬する」
集団に解散するよう告げて、周瑜はひとりで本殿にあがっていった。
その場に取り残された集団は――まさに取り残されたというべきだろう。誰もがひとかどの人物であるはずなのに、またたく間に薄寂しげな空気に包まれ、中には親に置いていかれた子どものような表情を見せる者までいる。
劉備ともちがう、しかし勝るとも劣らない強烈な求心力を目の当たりにして、諸葛亮は全身が総毛だつような戦慄をおぼえるのだった。




