第八二話 諸葛亮は業を負う
「一部の重臣たちがおかしな動きをしている、だと?」
劉備は首をひねった。襄陽からもどってきた間者の報告が、どうにも要領を得なかったのだ。
「景升どのが亡くなられて、喪に服している、というわけではないのだな」
劉備同様、困惑の表情を浮かべていた間者が、全身に緊張をみなぎらせて答える。
「は、確認は取れないのですが、曹操に降伏の使者を送ったという噂も――」
「なんだとッ!? どう思う、孔明?」
さすがの劉備も狼狽の色は隠せなかった。
戦略の大前提が崩れ落ちようとしているのだ、むりもない。
諸葛亮は自身の狼狽をおさえつけながら、冷静をよそおい、口をひらいた。
「劉琮どのでは曹操に敵しえぬ、と判断すれば……ありえる話かと」
「とにかく、急いで状況を把握せねば……」
そういうと劉備は、ことの真偽を問いただすべく、劉琮に使者を送った。
返答の使者として、樊城にやってきたのは宋忠である。
「劉琮どのが曹操に降伏の使者を送った、との噂を聞いたが、まさか本当ではあるまいな」
劉備が難詰すると、宋忠は神妙な表情をした。
「事実でございます」
「なんということをッ! 景升どのは曹操と戦うつもりでいたのだぞ!」
「そう申されましても……」
「おおかた、蔡瑁たちが降伏するようそそのかしたのであろう。私が劉琮どのにお会いして、考えなおすように説得する!」
気色ばむ劉備に、宋忠は気の毒そうな視線をむけた。
「無駄でございます。もう遅いのです」
「もう遅いとは、どういうことだ?」
「曹操軍はすでに荊州に入り、葉県を越えております」
「なんだと……」
劉備は目をみはった。彼らはここではじめて、曹操軍の接近を知らされたのだ。
劉備軍は慢性的に人手不足と資金不足に悩まされているため、間者の数もかぎられる。その数少ない間者がどこに送りこまれているかというと、敵地の許都や鄴ではなく、襄陽であった。
なにせ、荊州における劉備の立場を保障していたのは劉表であったし、蔡瑁のような油断ならぬ相手もいる。襄陽を注視する判断自体は、まちがってはいなかったはずである。
だが、劉備たちを取り残して、事態は急転していた。
諸葛亮は白羽扇の陰で唇を噛んだ。そもそも曹操軍が動きだせば、その情報はすぐに劉表にもたらされ、彼から劉備へと伝わる予定だったのだ。まさか、劉表の死と同時に曹操軍が動いていたとは。
「この売国奴めッ!」
劉備は激発して、宋忠につめよった。
「お待ちください、我が君。ここで彼を害したところで、なにも解決しませぬ」
剣を抜こうとする劉備を、諸葛亮は制止した。制止せねばならぬ。
宋忠は荊州を代表する学者である。
斬り捨てたところで、無益なばかりか、荊州人士から恨みを買うだけであろう。
宋忠がほうほうの体で逃げ帰ると、怒りの矛先を失った劉備は、つま先で床を叩いた。
「まずい。襄陽が曹操の手に落ちれば、戦いようがない」
防御機構の観点にもとづくと、樊城と襄陽はふたつでひとつの城といっていいほど近接している。
樊城の南を流れる沔水は、別名を漢水という。
この漢水をはさんで、樊城の対岸に位置するのが襄陽城なのだ。
劉備と劉表が立てた作戦は、次のようなものであった。
曹操軍が南下してきたなら、まずは劉備軍と劉表軍が共同でこれに当たり、樊城の北で一戦する。
いかに大軍であろうと行軍中は力を発揮しえないから、曹操軍を撃退しようなどと欲ばりさえしなければ、勝利自体は可能であろう。
機先を制したうえで、劉備軍は樊城で籠城し、樊・襄の水軍をもって漢水の航行権を確保する。
その後は、漢水を巨大な防壁として曹操軍の南下を食い止めながら、襄陽の劉表軍が船舶を利用して、敵の後背を脅かすのである。
しかし、その戦略はもはや完全に瓦解したかに思われた。
「曹操より先に、襄陽を手に入れるしか方法はありませぬ」
諸葛亮は進言した。
樊城には劉備軍一万が駐屯している。
名目上の城主が別にいるとはいえ、実質、この城はすでに劉備のものだ。
さらに襄陽を奪いとれば、不完全ではあるが当初の予定通り、曹操軍に対抗できよう。
「それでは……私が景升どのを裏切ることになる」
劉備は首を振った。
「先に裏切ったのは、劉琮どのでございます」
「む……」
劉備は何事かを考えこんで、やはり首を振る。
「だめだ、間にあわん。襄陽を占拠できたとしても、混乱していては曹操軍と戦うどころではない」
「ならば、江陵へむかうべきかと」
「江陵? ……たった一城で、曹操軍に対抗できるとは思えないが」
劉備は怪訝な顔をした。新野・樊城・襄陽といった荊州北部の情勢はそれなりに知っているが、南方のこととなると、彼にはさっぱり見当がつかない。
諸葛亮は説明する。
「一城ではございません。江陵には荊州最大の水軍基地があります。水軍をおさえ、江水の水利と荊南四郡の国力を背景として、曹操軍に対抗するのです」
「なるほど」
劉備の目に理解の色が浮かぶ。
「要するに、江陵・江水・荊南四郡を、樊城・漢水・襄陽の代わりにするのだな」
「はい。もうひとつ、夏口の劉琦どのに協力を要請しましょう」
「むっ、……劉琦どのは協力してくれるだろうか?」
「この降伏に最も納得がいかないのは、ほかならぬ劉琦どのでございます。彼が抱える憤りは、我々よりも深く、はげしいものでしょう」
「おお、そのとおりだ。樊城の船団を夏口にむかわせよう。指揮官は、雲長が適任であろう」
漢水の下流は、夏水とも呼ばれ、江水に合流する付近を漢口、あるいは夏口ともいう。
樊城から漢水をくだれば、夏口に着くのだ。連絡を取るには船団を送りこむのが一番である。
幸いなことに、劉表の後継者争いの際、蔡瑁と対立する立場の劉備は、劉琦派にくみしていた。劉琦からの心証は悪くない。
「新野にも伝令を急がせ、江陵へ退避するよう命じねばなりません。……新野の領民にも、南へ避難するよう触れまわるべきでございます」
劉備は眉をひそめた。諸葛亮の狙いを察したのだ。
「民を……、盾にするのか」
「……そうしなければ、新野の将兵はまず逃げ切れませぬ」
曹操軍には騎兵が多い。流民の群れで街道を封鎖しなければ、確実に追いつかれる。
新野には劉備の妻子と、徐福・張飛・趙雲たち、そして五千の兵がいる。
彼らを失えば、劉備軍は大幅な弱体化を余儀なくされよう。
「その策に、大義はないぞ」
劉備は、諸葛亮の覚悟を確認した。
「……存じております」
「わかった。ならば樊城・襄陽の民衆にも、大声で触れまわってやろう。逃げなければ曹操軍に殺されるぞ、とな」
劉備は、救世済民をかかげる聖人君子ではない。
戦乱の世にひと旗あげようと、仲間とともに立ちあがった任侠の人である。
短いつきあいながら、主君の気質を諸葛亮は理解していたから、仲間を守るためと主張すれば、自分の策が受け入れられるであろうことは予想していた。
そのとおり、劉備は彼の策をとり、諸葛亮は失望した。
むろん劉備に対してではなく、自分にむけた失望である。
民衆を盾にする。大義がないどころではない。
まったく、道をはずれたとしかいいようがない策なのだ。
それでも新野の将兵は貴重な戦力であり、失うわけにはいかなかった。
諸葛亮は認識していた。いま彼は、後戻りのできない、罰せられるべき道を歩みはじめたのである。
新野から樊城へむかう街道は、流民で埋めつくされていた。
「こんな光景、見たくはなかったねえ……」
吹きさらしの馬車の上で、老女がつぶやいた。
沈痛な表情を浮かべる母に、徐福は返す言葉もない。
母を乗せた馬車に馬を寄せ、流民の群れを目の当たりにしていた徐福は、この光景を生みだした責任の一端を、まざまざと思い知らされているのだった。
曹操軍の襲来を知らされた徐福たちは、慌ただしく劉備の命令に従った。
新野の領民も、大半が避難勧告に従い、劉備を追いかけるべく南へとむかっている。
劉備が、民に慕われているからこその光景であろう。しかし、徐福は素直によろこぶことができなかった。
この避難勧告がなにを目的としてなされたのか。落ち着きを取り戻した彼は、理解してしまったのである。
徐福の母たちを乗せた馬車は、もどかしいほどに遅く、それに輪をかけて、流民たちの足取りは遅々としていた。
これでは逃げ切れるわけがない。
この避難勧告は、表面上は民百姓を案じて発せられたように見えるが、そうではあるまい。
おそらく、民を犠牲にして曹操軍の追撃を遅らせ、劉備軍を逃がすのが目的なのだろう。
民を巻きこんでしまったことを、徐福は悔やんでいた。
慌てていた。時間がなかった。
それでも、もうすこし冷静に判断できたのではないか。
「たしかに、曹操は過去、民衆の虐殺に手を染めているが……」
当時とは状況が異なる。
かつては明日をも知れぬ身だった曹操も、いまや絶対的な力を手にしている。
手段を選ぶ余裕ができたのだ。
もう、あえて残虐な指示を出す必要はなかろう。
であれば、いまさらではあるが、避難勧告など出さないほうがよかったのだ。
逃げだした民衆の多くは曹操軍に捕まるであろうし、逃げなかった者と比較して、待遇がよくなるはずもない。
大量の流民が発生したことも、その数に等しい不幸と苦難が待ちかまえているであろうことも、徐福たちのせいであった。
どのような言い訳を用意したところで、この犠牲を正当化することは許されまい。許されるべきではない、と彼は思う。
自責の念にかられる徐福の目に、ふいに少年の姿が飛びこんできた。
母親と逃げるその姿が、自分と似ているように感じられたからであろうか。
彼の視線は少年に吸い寄せられた。
少年は母親に寄り添い、ささえるように歩んでいる。
そこに敵がいるかのように、前方をにらみつけながら。
唇を一文字に結んで、懸命に前へ進んでいる。
――らしくない。
徐福の胸に違和感が生じた。劉備らしくない命令に思えたのだ。
よくいえば個人の意見・行動を尊重し、悪くいえば無責任、それが劉備の為人である。
逃げることはためらわないが、自分とともに逃げるか否かは、各々の判断にまかせるような人物だったはずだ。
それがなぜ、民衆に避難を呼びかけるよう命じたのか……。
違和感がふくらみ、疑念が芽生える。
「孔明……、おまえなのか……」
と、徐福は愕然とした。
目的を達成するために、真意を隠した命令をくだす。
からめ手というべきであろう。
その効果を冷徹に計算できる人物はそう多くない。
劉備のそばにいるとなると、彼の頭には、どうしても友人である諸葛孔明の名が浮かんでしまうのだった。
まさかとは思うが、いったん形になった疑念は、消えようとしない。
諸葛亮と腹を割って話しあうことを、徐福は決意した。
「孔明、おまえはなにを考えているのだ……。必要だから民を犠牲にする。それでは曹操と変わらないではないか……」
このとき生じた疑念は、のちに悔恨へと変質し、終生、徐福の胸でわだかまりつづけることになるのだった。




