第八一話 襄陽変事
荊州牧の劉表は病床にあった。病状は日に日に悪化し、もはや身を起こすことすら困難になっている。病室を訪れた蒯越は膝をついて、劉表の枕元に寄ると、しずやかに報告した。
「劉琦さまが江夏より帰還なされ、劉表さまとの面会をもとめておいでです」
「そうか……琦が……」
劉表はうれしそうに目を細めた。子の孝行をよろこばぬ親はいまい。劉表の長男・劉琦は、父の余命いくばくもないことを知り、任地の江夏から早馬のごとく駆けつけたのだ。
「劉琦さまは蔡瑁どのに足止めされているようですが、いかがなさいましょう?」
襄陽に帰還した劉琦は、しかし父に面会できずにいた。蔡瑁が内城の門を閉ざしてしまったのである。
蔡瑁は貪欲な男であった。
性欲が強く、金銭欲が強く、権力欲も強い。
彼は、荊州に赴任してきた劉表の後妻に姉をあてがい、劉表の次男・劉琮に姪を嫁がせた。さらには、劉琮を劉表の跡継ぎにすべく、くり返し圧力をくわえた。
その権力争いに敗れた劉琦は、ある意味都落ちする形で、江夏太守となっていたのである。
蔡瑁にとって、劉琦は邪魔者なのだ。せっかく劉琮が跡継ぎになったのに、劉表と劉琦が面会したことによって、その決定が覆されでもしたらたまったものではない。
「……何も……聞かなかったことにしよう……」
蔡瑁をとがめてもよかったはずだが、劉表の返答は鈍かった。すでに怒りの熱量をささえるだけの気力が、残されていないように思われた。
「よろしいのですか? ひと目会うだけでも……」
蒯越はそれ以上、言葉をつづけられなかった。
肉親の情を優先させるわけにはいかぬ。劉表の弱々しいまなざしが、そう訴えていた。
身体は動かせずとも、頭をはたらかせることはできる。最期を迎えるその瞬間まで、劉表は一世の傑物でありつづけようとしている。
「……琦には、むごいことをした……」
本来跡を継ぐべき長男の劉琦がこのような不遇にあっているのは、蔡瑁の一族が強力な豪族だからであり、その影響力を劉表が排除できなかったからである。
「劉琦さまは賢明なお方です。襄陽の混乱をふせぐにはやむをえない決断だったのだと、いずれ理解してくださるでしょう」
「ふ、ふ……、なぐさめはいらぬ。中途半端な……決断だと、自覚……している」
なにが中途半端かといえば、せまりくる曹操軍に対する姿勢である。
劉表は、曹操から送られてきた誘降の使者をつき返した。彼は戦うつもりでいたのだ。であれば、降伏派の中心にいる蔡瑁を切り捨てることも不可能ではなかった。
だが、負けたときのことも考えなければならない。
蔡瑁が親曹操の立場を鮮明にしていることは、曹操にも知られていよう。もし蔡瑁を殺害すれば、曹操は激怒するにちがいない。
曹操軍に敗北すれば、その怒りは劉表の一族や、蔡瑁殺害に関与した家臣にむけられる。彼らが処刑されてしまえば、劉表が襄陽に根づかせた気風も一掃されてしまう。
逆にいえば、敗北したとしても、蔡瑁を生かしておけば、彼の義理の甥にあたる劉琮も目こぼしされる可能性が高くなる。劉表の一族は族滅をまぬがれるであろう。
「最善の手を、中途半端と卑下するのはおやめくださいませ。あらゆる状況を想定しておかねばならない。ただ、それだけのことでございます」
劉表はかすかに笑った。
「襄陽は……、私が……私たちが、築いた都だ……」
その声には、栄光と覇気の残滓が漂っていた。死を間近にした者にとって、追憶は現実逃避ではない。神聖な行為なのだと、蒯越は胸を詰まらされた。
「はい。この地の繁栄は、劉表さまがもたらしたものにございます。襄陽は天下に冠たる都へと発展を遂げました」
かつて、荊州の州治は荊南の武陵郡に置かれていた。しかし、劉表は賊徒にはばまれ、南部に入ることができなかった。そこで彼は、蒯越や蔡瑁らの協力を得て、軍事交通の要衝である北部の襄陽に州治をうつしたのである。襄陽の都としての歴史はそこからはじまったといってよい。襄陽の栄華は、劉表の事績そのものであった。
「……蔡瑁は……まだ、よい。あれ、は……」
「はっ。蔡瑁どのは困った人物ですが、劉表さまの身内であり、ともに今日の襄陽を築きあげた僚友でございます」
「だが……曹操は……ちがう。……劉備も……だ」
「はっ、心得ております。曹操や劉備の好きにはさせませぬ」
たとえ曹操に地上の支配権を奪われようと、彼らが育んできたこの地の気風まで破壊されるわけにはいかなかった。もちろん、曹操軍の侵略をはねのけることができるのなら、それに越したことはないのだが。
「蒯越……すべて、おまえの判断にゆだねる……」
劉表は目を閉ざして、声をしぼりだす。
「琮に……将才があると見たなら……曹操と戦え……。その力……ないのなら……」
「……はっ、みなまでいわずとも、承知しております」
「私の子と……私たちの都を、頼む……」
疲れたのだろう、劉表は口も閉ざした。
「この蒯越、身命を賭して、劉琮さまと襄陽をお護りいたします」
蒯越はうやうやしく一礼し、退室した。ただ沈鬱にため息をつく彼を、病室から数歩はなれたところで、韓嵩と傅巽が待ちかまえていた。
「蒯越どの、劉表さまのお具合はいかがか?」
「劉琦さまについては、なんとおっしゃられたのだ?」
韓嵩と傅巽は、矢継ぎ早に問いかけた。
蒯越は頭を振る。それが前者に対する返答であった。後者に対しては、
「聞かなかったことにする、と。申し訳ないが、劉琦さまには、このまま江夏へお帰りいただく」
「しかし、父親の死に目にも会えぬとは、あまりに劉琦さまが不憫ではないか」
「私が責任を取る。劉琦さまには、あとで私からいくらでも詫びよう」
傅巽の非難めいた言葉に、心中では同意しつつも、蒯越は言明した。
「それで……曹操軍はどうするのだ?」
とは韓嵩の質問である。
「劉琮さまの将器次第だ。勝ち目があるのなら、曹操と戦う」
蒯越の返答に、彼らは顔を見合わせ、黙りこんだ。
やがて韓嵩が、現実的な意見を述べた。
「蒯越どの……、将器次第というが、劉琮さまには戦経験がないのだ。仮に大器であったとしても、現時点で曹操軍に対抗しうるとは考えられぬ」
蒯越はうなずいた。傅巽も同意見のようだ。
となれば、選択肢はひとつしかない。
蒯越の頭の中は、不快な二文字で占められた。
「降伏……降伏か」
その後、父との面会が叶わなかった劉琦は泣く泣く江夏へ帰り、七月から八月へと月が替わろうとする未明に、ついに劉表は息を引き取った。
悲しみに暮れる暇もなく、劉琮は重臣たちを集めた。
「曹操軍から荊州を守るため、みなの力を貸してほしい」
あらたな主君が抗戦の意思をしめすと、当然のように蔡瑁が反対する。
「なりませぬ、なりませぬぞ。曹丞相の大軍勢は十五万を超えるのです。とうてい勝ち目はありませぬ」
「叔父上、敵が強大なのはわかっている。だが、それでも父上は戦いを決意していた。私は父上の遺志を継がねばならぬ」
「劉琮さま。残念ながら、我々も蔡瑁どのと同じ意見でございます」
蒯越は蔡瑁に賛同した。劉表の指示に忠実だった蒯越までもが、非戦にまわったのである。おどろいた劉琮は重臣たちの顔を見まわした。ならんでいるのは戦意を喪失した顔ばかりだった。
「戦おうという者は、どこにもおらぬのか? ……そうだ、劉備どのだ。劉備どのなら、戦うにちがいない」
「その劉備にも問題がございます」
と傅巽がいう。
「劉備は何度も曹操と戦い、そのたびに敗北をかさねてきた人物です。今度こそ勝てるなどと思うのは、ただの楽観でございます。万が一勝てたとして、その後の展望がひらけるでしょうか? 劉備が中心になって曹操軍を撃退したとあらば、彼の武勲と声望は、荊州において比類なきものとなりましょう。そうなれば、荊州は劉備に併呑されてしまいます。敵が曹操から劉備へ変わるだけではありませんか」
「それでは……どうあっても私には……父が守り抜いたこの地を、保つことができないというのか」
劉琮はわなわなと唇を震わせた。その顔色は、蒼白を通りこして土気色だった。
「劉琮さま。どうか襄陽を戦火から守り、子々孫々まで故君の偉業をお伝えくだされ。はばかりながら、それが私どもの望みでございます」
蒯越の言葉は本心からのものである。
若い主君の無念は痛いほどわかる。蒯越とて無念なのだ。
しかし、襄陽の繁栄と劉琮の命を考えれば、これが最善の手であるように思われた。
劉琮は、蒯越の顔を、重臣たちの顔をあらためて眺めた。
「……わかった。ひと晩、ひと晩だけ、考えさせてくれ……」
翌朝、降伏の意思を伝える急使が、南進する曹操軍へと派遣された。
急使を送り出した襄陽の内城には、奇妙な虚脱感がたゆたっている。
ひとつの時代が終わろうとしているのだ。
おのれの無力に打ちひしがれていた蒯越に、韓嵩が話しかける。
「蒯越どの、こうなると樊城にいる劉備の存在が危険に思えてくる。我々の降伏を知れば、襄陽を奪いにくるのではないか?」
「いっそのこと、こちらから劉備を攻めほろぼすか」
謀士としての本能が、蒯越の口をついて出た。
「まさか……」
韓嵩は絶句した。
「いや、すまん。少々やけになっていたようだ。そうもいかぬ。降伏を選んだ時点で、劉琮さまは汚名を負わねばならんのだ。それだけであれば、民を守るためという名分も立つが……」
この上、一度は客将として受け入れた劉備を攻めようものなら、劉琮の名声は地に落ちてしまう。そのような姑息な変節漢を、曹操はけっして礼遇しまい。
ともあれ、彼らが降伏を選択したことは、すぐに劉備の知るところとなろう。劉備がどう動くのか、警戒しなければならない。
蒯越はすばやく結論を出した。
「樊城の劉備軍が動きだすようなら、即座に城門を閉ざす」




