第八十話 いざ荊州へ
鄴ではたらくことになった司馬懿は、曹操の勢威を目の当たりにしていた。
曹操のお膝元には、多様な人種・肌の色の人々が集まり、城内の市は物と人であふれ喧噪に満ちている。
膨大な人材と物資が集積し、そこから地方へと散ってゆく場所を都と定義するのであれば、鄴はまさしく都であった。
許都も豊かな都市になったが、もともと鄴のほうが規模は大きいのだ。両都の繁栄ぶりを比較すれば、漢朝に忠誠を誓う者は嘆息を強いられるであろう。
「きわめつきは、異民族からの朝貢の使者が、鄴を訪れることではないでしょうか?」
司馬懿がそう語る相手は、兄の司馬朗である。
「異民族ですら、漢朝ではなく、曹丞相に帰服する。それが仲達の懸念する、権力のねじれというやつか」
司馬朗も丞相府に勤務しており、官職は弟より高い。
兄弟ともに理性的な性格だからか、それとも司馬家の教育ゆえにか、再会に感激して、彼らが抱擁をかわすようなことはなかった。
この日も司馬朗の家で茶をすすりながら、会話の内容は職務や政にかたよっている。
「今までも、権力のありようはねじれていました。複都制も周代から存在するものですし、めずらしくはないのでしょう。ですが、この鄴は漢朝ではなく、曹丞相の都です」
「むう……。過去の事例と同じと見ていては、時代の潮流を見誤るかもしれんな。洛陽から長安、長安から許都、そして許都と鄴。この二十年、都の位置が変遷するとともに、権力構造もはげしく変化している。司馬家はうまく適応しているほうだと思うが……」
むずかしげに、司馬朗は眉をひそめた。
客観的に考えれば、司馬家の処世術は士大夫たちの羨望を集めるに値する。彼らの父・司馬防は、若き曹操を洛陽北部尉に抜擢した人物であり、祖父は潁川太守だった。
曹操とも、潁川閥とも縁があるのだ。だからといって、それは将来の安穏を約束するものではなかった。
「曹丞相が全権を掌握するのは、今にはじまったことではない。だが、今ほどそれが露骨になったこともない。馬騰の件にしてもそうだ」
司馬朗は声量をおさえた。
沖天の勢いに乗る曹操だが、慢心は見せていない。荊州進攻を前にして、懸念をぬぐうべく手を打っている。
それが、つい先日おこなわれたばかりの、馬騰の入朝だった。
関中の軍勢は、正規軍ではなく私兵集団である。朝廷から派遣された役人に、掌握する権限はない。
朝廷から召状を受けとった馬騰は、自分が去ったあとに混乱が生じるだろうと案じて、措置を講じた。長男の馬超に、軍を引き継がせたのである。
そのうえで馬超を関中に残し、彼は家族をつれて鄴に移住した。要するに、関中のあらたな代表者・馬超に対する、馬騰は人質となったわけだ。
入朝と称しながらも、馬騰たちがいるのは鄴である。朝廷の人事もふくめて、すべてが曹操の思惑によって動いていることは顕然たる事実であった。
「ねじれですむのであれば、まだよいのですが。限度をこえれば……ねじ切られてしまいます。一度ねじ切られたものは、時の流れを逆転でもさせないかぎり、二度と元にはもどらないかと」
漢朝の終焉をほのめかし、司馬朗を悩ませるだけ悩ませておいて、司馬懿は兄の屋敷を立ち去った。
司馬懿にとって幸運なことに、司馬朗は理解のある兄であった。曹操の権勢に目を焼かれることもなければ、漢朝への忠節に拘泥することもなく、司馬家の存続を第一に考えている。
兄にまかせておけば、司馬家の未来に破滅が降りかかることもあるまい。
しかし、その司馬朗にしても、権力に近い者の視点でしか物事をとらえていなかった。ある視点が抜け落ちているのだと、司馬懿は思わざるをえない。
「兄上は商人の視点を欠いている。……むりもないが」
商人は、庶民の中でも低い身分とされている。商人の視点で天下を語るなど、士大夫層の人間からしてみれば失笑ものであろう。
だが、孔明は商人たちがもつ情報を重視していた。
よくよく考えれば、当然であろう。彼らは、自分が商売する土地に精通している。人口や穀物生産量、塩の消費量などの動向に、常に神経をとがらせている。
朝廷にあがる報告が、改ざんを経た数字であることを考慮すれば、各地の実情に最も詳しいのは商人たちかもしれないのだ。
孔明の薫陶を受けた司馬懿が、まさか商人の視点を軽んじるわけにもいくまい。
なにも彼は、職業に貴賤なしと、きれいごとを考えているのではなかった。留意しているのは、自分の足首を拘束しようとする枷の存在である。
その枷の名は、貴賤意識という。
貴賤意識の囚人となれば、牢獄の外に広がる光景は見えなくなってしまう。そうなれば、天下の動向をも見失いかねない。むろん、権力の中枢を見るのは重要なことである。だが同時に、そこからはなれた視点でしか見えないものも、たしかに存在する。
商人たちの目に、天下はどう映っているのだろうか。
許都と鄴を訪れた彼らは、冷徹に判決を下すであろう。天下の中心は鄴であり、天下を治めているのは曹操である、と。
彼らの認識は商業活動を通じて、各地へ広がり、民草に浸透していく。
上流階級の人間が、権力構造の変化に目を奪われているあいだにも、天下万民の心の中には変化が生じているのだ。こうしているあいだにも、万民の心の中では、易姓革命の下地がひそかに整いつつあるのだった。
さしあたって、下地が整ったのは、荊州侵攻作戦のほうである。
建安十三年七月、曹操が劉表討伐の軍令を発し、鄴で十一万、許都で五万の大兵が編成された。荊州に近い、許都の軍勢が先軍となる。その人事が、諸将の注目を浴びた。
「この五万の軍勢を率いるのは、誰になるのだろうか?」
「曹操さまがいないとなれば、総大将としてまず名が挙がるのは、夏侯惇どのか、曹仁どのであろうが……」
「その夏侯惇どのは、許都に残るそうだが」
「曹仁どのも鄴だ。出征するにしても、鄴の軍勢であろう」
もちろん、我こそはと熱望する者もいたが、彼らの願いは叶わなかった。
総大将に任命されたのは、郭嘉だったのである。
もし目の前に曹操がいれば、郭嘉は自分を指さしながら、「えっ、オレが総大将っすか?」と疑問を投げかけたにちがいない。
しかしながら、あいにく書面による辞令である。反論の機会はあたえられず、彼は曹操軍五万の総大将の座を、半ば押しつけられたのであった。
当人がどう思ったにせよ、この人事に対する諸将の反応は、おおむね好意的だった。疑問の声はあがったが、不満や批判の声はごく微量にとどまった。
郭嘉の素行を白い目で見ていた名士たちにとっては、意外な反応だろうが、将兵が上官にもとめるものは能力であって、品行ではない。自軍を勝利に導ける者が、よい大将である。
数々の戦場に参軍し、鮮麗なまでの鬼謀をしめしてきた彼は、その実績によって将兵たちの信認を獲得していたのだった。
「これまでと何がちがうかといえば、立場と責任でしょうな。五万の将兵の命をあずかり、決断を下す身になったのです。郭嘉どのの一挙手一投足は、今までより、はるかに多くの耳目を集めるでしょう。いやあ、なかなか大変なことで」
「総大将も参謀も、後方で頭を使う仕事であることに変わりはありませぬ。申しあげにくいことながら、首より下のはたらきを要求されているわけではないのですから、なんら問題は生じぬでしょう」
「我々が手足となるのだ。頭さえあれば充分であろう」
この軍の枢要を占める于禁・張遼・楽進らの、おそらくは慶賀であった。笑いをふくんだ、上品とはいいがたい彼らの祝福を、郭嘉も苦笑して受けとるしかない。
下につく彼らが、不満をいわないのだ。郭嘉としても、「夏侯惇どのか、曹仁どのが同行してくれりゃよかったのに」などと、総大将の座を人にゆだねるような発言は封印しなければならかった。
またこのとき、郭嘉の補佐役に、同郷の趙儼が選任されている。
趙儼は字を伯然といい、郭嘉より一歳下である。
かつて郷里に戦火がせまった際には、荊州に避難していた。
その後、曹操が天子を推戴したことを知ると、あらたな時代の到来を予測し、帰郷して曹操のもとに出仕した。
名士の悪癖といえば、気位の高さもそのひとつであろうが、彼にはいい意味で名士らしくないところがあった。主君の意向を意識してか否か、武人にも偏見をもたずに接していた。
郭嘉の幼友達で、荊州で暮らした経験があり、武人に対して垣根をつくらない。副将として、この上ない人物といえよう。
こうして、陣容をととのえた曹操軍は南征を開始する。
この一報はただちに襄陽にとどけられ、劉表の重臣たちを戦慄させたが、彼らの不幸は、外部からの脅威ばかりではなかった。襄陽城内においても、今まさに、荊州を揺るがす変事が生じようとしていたのである。




