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第七八話 戦史の差異


 私は、「まちがいなく」だとか「絶対」といった言葉を、あまり人にむけないように意識している。

 なぜかというと、言質げんちを取られるのが嫌だから!

 そんな私がまちがいなく大敗すると断言したのだから、それなりにインパクトはあったはずだ。


「水戦で勝ち目はない、か。そうなると、いかにして戦場を陸へうつすかだが……」


「難題ですね。孫権が不用意に荊州へ進出してくるとは思えない」


「江水の航行権を孫権が握っている以上、こちらから攻めこもうにも、夜間に小部隊を上陸させるぐらいが精々っすね。小部隊であれば、攻勢限界点の問題も克服できる。……けどまぁ、効果的とはいえないっす」


 荀彧、陳羣、郭嘉の会話に、私は違和感を覚えた。反応が想定とちがう。

 水戦こそさけようとしているが、彼らはまだ孫権と戦おうとしている。


 私としては、孫権領を狙うのは時期尚早だ、今回は荊州だけで満足したっていいんじゃない? と伝えたつもりだったのに。手ごたえが薄い気がする。


 さて、どうしたものか。彼らからしてみれば、私が過度に悲観的に見ているように思えるのかもしれない。けれど、それは私が赤壁の戦いの結果を知っているからで。


 そう、曹操は赤壁の戦いで敗北してしまったために、天下統一の道を閉ざされる。この一戦の結果は、天下の行く末を左右する……。


 む? 待てよ。もしかすると。


 私は羽扇で口元を隠して、神経を集中させた。

 前世ではなく、今世で得た知識を検索する。


 過去に起こった数々の戦を、ざっと頭の中にならべていくと、ある事実が浮かびあがった。

 ……これは、たぶんそうだ。


 この国の歴史上、水戦が天下の行方を決定づけたことは、おそらく一度もない。

 もちろん、渡河は別だ。渡河作戦やそれにどう対処したかによって、大戦の勝敗が決まり、天下の流れを変えた事例はいくつもある。

 けれど、そうした戦においても、戦闘そのものはあくまで陸でおこなわれていたように思う。


 今までの歴史がそうだったから、水上で不利に立たされようと陸上で挽回できる、と彼らは考えてしまっているのではないだろうか?

 私と彼らとでは、思考の前提となる歴史的事実が、正反対をむいているのだ。


 私が考えこんでいたからだろう、荀彧がわずかに眉をひそめた。郭嘉と陳羣も口をつぐむ。


 いぶかしげな表情を浮かべる彼らを、私は説得しなければならない。

 水戦の不利は取り返しがつかないのだと、説き伏せねばならない。

 私は手のひらに汗を感じながら、口をひらいた。


「水戦の不利は、一戦場の勝敗にとどまらず、戦略にも大きな影響を与えるであろう。もし荊州水軍が大打撃を受ければ、曹操軍は優秀な水兵を失うと同時に、水軍の教導官をも失うことになる。水軍を再編するのに五年、十年といった年月が必要になろう」


「五年、十年か。……長いな」


 荀彧はうなった。

 その間、江水を往来するのは、孫家の旗を掲げた船舶である。

 当然のことながら、孫権の水軍基地がある柴桑サイソウや、本拠地である呉に攻めこむ機会も失われる。


「五年、十年ですむのであれば、まだよいのだ。水戦の有利不利が明確になり、孫権軍が江水の支配権を確立させた時点で、孫権との戦はその意義を転じるであろう」


「意義を転じる、ですか?」


 陳羣はつぶやくように声をこもらせた。

 私は小さくうなずいて、告げる。


「孫権を帰服させるための戦が終わり、江陵を防衛するための戦がはじまる」


 頭の中で、前世における歴史の流れを思い描く。

 赤壁の戦いで勝利した孫権・劉備連合軍は、その勢いに乗じて江陵に進軍し、これを攻め落とした。


 荊州最大の水軍基地がある江陵は、水陸交通の要衝であり、兵家必争の地といわれる。

 もし、ここで曹操軍が江陵を守り切れていれば、三国志という物語は成立していなかっただろう。

 そのまま、曹魏の天下が訪れていたはずだ。

 思えば、曹操の天下統一の野望が砕かれたのは、赤壁で負けた瞬間ではなく、江陵が陥落したそのときだったのかもしれない。


「それはまずいっすね。江水を支配された状況で、江陵が戦場になるのはまずい」


 郭嘉がはっきりと顔をしかめた。

 江陵攻防戦を想像して、曹操軍が不利な状況に置かれることを悟ったんだと思う。


 江陵という城は攻めるにしろ守るにしろ、江水を活用できるか否かで大きく難易度が変わる。

 水上の優位をかためた孫権軍は、船舶を利用して、兵や物資を自由に運搬できるのだ。

 この状況で江陵を守り切れるとは、郭嘉であってもいえないのだろう。


 荀彧は嘆息して、ゆっくり首を振った。


「江陵を維持できなければ、たしかに五年や十年ではすまなくなるな……」


 部屋全体に重苦しい空気がたちこめた。

 不吉な予想が、彼らの頭の中を占めているにちがいなかった。


 今度は手ごたえを感じる。これで彼らは、孫権との戦を回避する、あるいは荊州水軍の被害をおさえる方針に立って、作戦を立案してくれるはずだ。


 荊州兵は元々敵だったから、使いつぶしたってかまわない。

 そんな考え方もあるにはあるが、水軍だけは大事にあつかわねばならないのである。

 水軍が壊滅的な被害を受ければ、取り返しがつかない結果になるのだから。


 どうやら、説得の山場は越えたみたいだった。

 けれど安堵感にひたるのもつかの間、議論はすぐさま再開される。


 私もまだ気を抜くわけにはいかなかった。いろいろ意見を出していく。

 とくに、火計を警戒するように、口をすっぱくして注意しておかねばならない。


 赤壁の戦いで、曹操軍の船団は大炎上してしまうのだが、そこで鍵となる計略がふたつある。

 すなわち、「苦肉の計」と「連環の計」である。


 苦肉の計の主役となるのは、孫堅・孫策・孫権と三代にわたって孫家に仕える、宿将の黄蓋である。


 彼は大都督の周瑜と反目していた。「若造には従えぬ」と命令に従おうとしない黄蓋を、周瑜は軍機を乱したとして、棒叩きの刑に処してしまう。


 衆人の前で刑罰を受けた黄蓋は、屈辱に耐えかねて曹操に投降を申し出るのだが、これらはすべて、曹操の信用を得るために周瑜と共謀した黄蓋の策略だった。


 まんまと曹操をあざむいた黄蓋は、曹操軍に接近したところで、その船団を焼き討ちすべく、自分たちの船に火を放って突入した。


 この火攻めによる被害を拡大させたのが、連環の計である。


 これに先立ち、北方の人間が多い曹操軍は、船の揺れに悩まされていた。そこで、一時的に曹操のもとにいた龐統が進言する。


「船と船を鉄の鎖でつなげば揺れは少なくなり、船酔いに悩まされる者も減るでしょう」


 じつは龐統は周瑜と内通していたのだが、曹操はこの提案を受け入れて、船を鎖でつないでしまう。こうして船が密集して動けなくなってしまったために、火が燃え広がってしまうのである。


 なので、私は次のように述べた。


「孫権陣営から投降者が出るとしても、黄蓋、韓当といった宿将が裏切ることだけはありえまい。もし、彼らが投降を申し出てくるようなら、どのような状況下であれ、偽計と疑わねばならぬ」

「船の揺れをおさえたいからといって、船同士を鎖でつなぐのは愚策というしかない。身動きのとれなくなった大船団など、火計の餌食になるだけであろう」


 ただし、私の知識はどちらかというと三国志演義がベースになっている。

 史実をもとにしているとはいえ、三国志演義は後世に創作された物語だ。


 赤壁の戦いはとりわけ脚色された部分が多く、正史との乖離がはなはだしかったとの記憶がある。

 それでも、曹操の船団が大炎上したことは、正史にも記載されていたはずだから、私の助言だって、どこかで何かの役に立つだろう。助言するだけしておいて、損はない。


 こうして、私たちは明け方まで意見をぶつけあった。

 とりあえず、伝えるべきことは伝えた。自分にやれることはやった。

 史実の二の舞をふせぐための布石は打てたように思える。

 心地よい疲労とそれなりの睡魔に包まれつつ、私は夜明けのあまざけをあおるのだった。




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― 新着の感想 ―
[気になる点] 赤壁は演技ベースが有名すぎるからなぁ…… 正史だと、曹操ってまともに戦わないで疫病が原因で撤退するのよね 周瑜はこの疫病を予想していたとかいう話もあるし、この疫病は風土病ではないかって…
[良い点] ついに、赤壁に向かっている。。 [気になる点] さてさて、軍師達が一枚二枚、どう動くのでしょう? [一言] む、むむむ。避ける事をすればする程、避けれないもの、なのでしょうか?笑。
[一言] 一度制海権?を失うと、造船はなんとかなっても訓練場所がなくて困るというのもあったり。
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