第七七話 必敗宣言
「ほっとするというか、なんだか懐かしい味っすね。食べたことない料理なのに」
「味わい深くてすばらしいと私は思います。風変わりな食感が上品ですし、のどごしもいい」
郭嘉と陳羣が感想を述べた。なかなか好評のようだ。
私が彼らにふるまったのは、この時代には存在しない料理、茶碗蒸しである。卵を溶き、冷ました出汁と混ぜて、茶碗に入れて蒸しあげた。具は鶏肉と茸と三つ葉。ちゃんと卵液をこしてあるから、現代のものとそう変わらない、とろつるぷるんな食感に仕上がっている。
「ふうむ、茶碗蒸しというのか。食べやすくて、滋養もありそうだ。察するにこれは……病人食を想定しているのかな?」
茶碗蒸しを完食した荀彧が、匙を置いてそういった。私はうなずいて、
「うむ。柳城遠征につづいて、今度の戦においても、曹操軍にとって最大の敵は疫病になるであろう。私はそう考えておる」
赤壁の戦いにおける曹操軍の敗因はいくつかあるが、最大のものはなんといっても疫病である。
もちろん、茶碗蒸しが対策になるだなんて思ってはいない。
茶碗蒸しをつくったのは、外部から口出ししてるだけでなく、私だって真剣に取り組んだうえで発言してるんだからね、と、こざかしくもアピールするためであった。
「たしかに、大軍勢を動かすとなれば疫病はつきものだろう。しかし今回の南征は、柳城遠征のような過酷なものにはならないと思うが……」
荀彧は腑に落ちないらしかった。
大概は一致する私と荀彧の意見だが、当然ながら差異が生じることだってある。
今回はそうした例のようだが、私もこれだけはゆずれない。
「いや、こと疫病に関しては、どれだけ警戒しても足りることはない。襄陽と江陵をおさえれば、その次は江水をはさんで孫権軍と対峙する可能性が高い。そうなればおそらく雲夢沢に布陣することになろう」
雲夢沢は江水北岸に広がる大湖沼地帯である。
湿地帯が疫病の温床になるのは、この時代でも知られている。
荀彧は両眼に戸惑いの色を浮かべて、まばたきした。
「おいおい、皆が君のように先を見据えて物事を考えられるわけではないんだぞ。少し先走りすぎではないか? まずは劉表軍をどう攻略すべきかについて話しあおう。孫権についてはそのあとだ」
その言葉に、虚をつかれなかったといったら嘘になる。
盲点だった。私は劉表軍のことをなにも考えていなかったのだ。
だって……、劉表死ぬじゃん?
後を継いだ劉琮が降伏するじゃん?
劉表軍対策なんて考える必要ないじゃん!
けれど、自分の株を下げたくない私は、口をつぐむしかない。
劉表が死んでから攻めこもう、であれば十分に戦略的な発言といえるが、攻めこむ直前に劉表が死んで劉琮が降伏する、なんて発言は占い師の範疇である。もしくは能天気な楽観論だ。
「劉表陣営は降伏派と抗戦派に二分されているようだが、劉表当人は戦うつもりだろう。そうでなければ、劉備を荊州刺史にはしないはずだ」
荀彧の見立ては正しいと思う。
劉琮降伏を前提に考えていた私も、劉備の荊州刺史就任は気がかりだった。
史実とは異なる動きだ。曹操との対決を決意させるなにかが、劉表の身辺にあったのだろうか。
「いえ、戦になるとはかぎらないかと。まだ降伏の目はついえていません」
反論したのは、荊州情勢に詳しい陳羣である。
「襄陽では、降伏派の中心人物である蔡瑁が、日に日に発言力を強めていたようなのです。劉表はいい気がしなかったでしょう」
「なるほど、劉表が劉備を荊州刺史に任じたのは、あくまで蔡瑁に対抗させるため、という可能性もあるな……」
陳羣の推察に、荀彧が納得の色を見せた。
私のささやかな疑問にも、答えが提示されたように思う。
史実より曹操に勢いがあるだけに、蔡瑁は大きな顔をしていたのだろう。
降伏と抗戦、どちらの選択肢も確保しておきたい劉表としては、家臣団が降伏一色に染まるのはさけねばならない。
抗戦派の中心に据えた劉備にテコ入れすることで、バランスをとったのだ。
……ただ単に、曹操と戦おうとしているだけかもしれないが。
「相手が劉表であれ孫権であれ、降伏してくれるのならそれが一番っすよ」
所見は穏便なくせに、郭嘉の眸は好戦的な光をたたえている。
「けど、万事うまくいってめでたしめでたし、なんて話をするために集まったわけじゃないでしょう? せっかく孔明先輩が来てるんだから、戦になると想定したうえで議論すべきっす」
そんな期待を寄せないで。ハードルを上げないで。
とはいえ、郭嘉のいうとおりではある。
私たちは楽天的な話をするために集まったのではない。
悲観的な予想をしたうえで、不安要素をできうるかぎり洗い出し、その対処法を講じるべく集まったのだ。
……だからといって、私は劉表軍対策を持ちあわせていないわけでして。
議論の前半戦では様子見というか、聞き役にまわらざるをえない。
それでも控えめに口をはさみながら、後半戦の到来を待った。
そしてようやく、孫権軍対策へと議題がうつる。
ここからは、私が場をリードするつもりで発言していきたいところである。
私はできるだけ理知的に見えそうな表情をつくって、重々しく口をひらいた。
「攻勢限界点というものがある。敵地深くに攻めこむほどに戦果は拡張し、それにともない将兵の士気も高揚していくだろう。しかしその一方で、兵站の距離は延び、兵力も損耗し、攻勢はある地点で限界をむかえる」
いちいち説明せずとも彼らは理解しているにちがいないのだが、ここは言葉を端折らないほうがいいと思う。
私は曹操軍を大敗から救いうる、貴重な助言をするつもりでいる。
けれど、それは私の主観にすぎない。
助言にどれほどの価値を見出すかは、聞き手である彼ら次第なのだ。
どうしてその結論に至ったのか。
段階を踏んで、過程から説明したほうが正確に伝わるだろうし、説得力も増すはずだ。
「それまで優勢だった攻撃側が、この攻勢限界点を見誤ったがゆえに、一転して敗北に追いやられた例もめずらしくない。限界点を踏み越えて前進すれば、戦線は間延びする。そこで防衛側が反攻に出れば、間延びして脆弱になった攻撃側の戦線はひとたまりもなく、堤防が決壊するかのごとく崩壊してしまう」
それにつけても、私は誰にむかってえらそうに講釈をたれているのだろうか。
荀彧と郭嘉と陳羣である。
……なんだろう、場ちがい感がものすごい。
いつになく自分が滑稽に感じられる。
気にしない、気にしない、気にしちゃいけない。
真剣な顔をしている彼らに、私はつづける。
「その攻勢限界点がどこにあるのか。彼我の軍事力の差、兵站能力、天候、地形といった、さまざまな条件によって変化するのだろうが、こたびの出兵で重要になるのは、なにより地形であろう」
「……江水か。しかし孔明、君も荊南はとれると判断しているのだろう?」
荀彧に問われ、私は眉間にしわを寄せた。
「うむ、劉表領の荊南はとれる。だが……」
劉表軍の主な軍事拠点は、いずれも江水の北にある。
江水を渡った先の荊南四郡。長沙郡、武陵郡、桂陽郡、零陵郡にたいした戦力はないから、そこは問題ではない。問題はそこではない。
「孫権領を切り取るのは不可能と見るべきだ」
と、私はいかにもむずかしげな表情をした。
「たしかに。孫権の水軍を相手に、江水を制すのはほとんど不可能に近いっすね。玄武池で水練をしてるといっても、正直いって、こちらの水軍は飾りでしかない」
郭嘉が半ばまで賛同して、首をひねる。
「けど、荊州水軍を無傷に近い形で接収できれば、話は別じゃないっすか?」
私は頭を振って、
「一月に、周瑜が夏口で黄祖を撃破している。彼らは劉表の水軍を上まわったのだ。孫権は天下無二の水軍を擁していると見なければならぬ」
これでもかと声を低め、断言する。
「孫権軍と水戦になれば、曹操軍はまちがいなく手痛い大敗を喫する」




