第七六話 知力VS政治
蒯越の嘆きが聞こえていれば、龐統はへそを曲げたかもしれない。
彼は、彼にしてはめずらしく勤労意欲に目覚めていたのである。
がらにもないが、故郷を守るためと思えば、気合も入ろうというものだ。
それでも走りまわったりせず、悠長に歩いてまわるのが、いかにも龐統らしい。
ふらふらしているように見えるのは、周囲のせいばかりとはいえないだろう。
なにせ、正規の職務に対して不誠実であることは、彼自身にも否定しようがないのだから。
龐統は、零陵の吏僚である劉巴の家を訪問していた。
襄陽から南に進むと、水陸交通の要衝として栄える江陵があり、そこから母なる大河・江水を渡った先に荊南四郡がある。そのひとつが零陵郡である。
劉巴、あざなは子初という。
いわくつきの人物といってよい。
彼の父は孫堅に協力し、結果、民の反乱にあって死亡した。
孫堅に協力したとは、つまり、劉表の敵にまわったことも意味している。
劉巴自身、劉表に命を狙われたことすらあったようだ。
とうてい劉表を信用する気にはなれなかったにちがいない。
彼は荊州の中央から距離を置いて、目立たぬようにつつましく暮らしていた。
「はて? 私には龐統どののおっしゃりようが、まったくもってわかりかねますな」
劉巴は皮肉げにいった。
荊州を戦災から守るには、襄陽の北で曹操軍をくいとめねばならぬ。そのためには荊州の人士が心をひとつにする必要があろう。
龐統の主張は、劉巴の心にまったく響かなかったようである。
「私ごときが口出しするのもはばかられますが、龐統どのほどの明晰な御仁であれば、とっくに解決策は見えておられるはず。戦火をまぬがれたいのなら、降伏なさればよろしいでしょうに」
口調こそ丁重だが、劉巴の瞳の奥には侮蔑の色が見え隠れする。
龐統にむけたものではない。劉表にむけたものだ。
根深い負の感情を見てとった龐統は、ものやわらかな仮面の下で舌打ちした。
「いや、劉巴どの。曹軍二十万というかつてない大軍に占領されれば、荊州各地でとほうもない落花狼藉がくりひろげられよう」
「ならば、なおさら急がねばなりますまい」
「急ぐ?」
「一日も早く朝廷に使者を送り、恭順の意を示すべきかと」
「…………」
「そうですな。まずは手早く、襄陽と江陵をあけわたせばよろしい。この二城を得れば、曹操さまの荊州支配は成ったも同然。大軍を動員する必要もなくなります。荊州に進軍する官軍の規模が二、三万に縮小すれば、民の被害も最小限におさえられましょう」
冷ややかで動じない、劉巴の声と態度は巨大な氷塊を思わせた。
そこには寸分のひびも見当たらない。
お手上げとでもいうように、龐統は後頭部をかいた。
劉巴は表情をやわらげて、
「龐統どのの忠心と愛郷心には、まことに感服いたしました。ですが、私は漢室に忠実でありたいと考えております」
「名士たる者、曹司空の下で漢朝の再建をめざすべきである、と?」
「さようでございます。龐統どのとて、朝廷に背くつもりはありますまい。……どうでしょう。差し出がましいとは思いますが、私から曹操さまの陣営にとりなしてみましょうか?」
やはり、と龐統は思った。
劉巴はすでに曹操陣営に懐柔されている。
「とりなすというと、……さては陳羣どのですかな?」
「……ご存じでしたか」
「ははは。陳羣どのは荊州の名士・学士と幅広く交流しておられるようですからな」
言外に、劉巴が特段に目をかけてもらっているわけではないのだ、と伝えたうえで、龐統はくぎを刺す。
「なに、それにはおよびませぬ。忠孝を尽くしたうえで降伏するのなら、身の処しかたに困ることはないでしょう。河北における戦後処理を見れば、曹司空が許さぬのは、許攸のような不義をはたらいた男であることはあきらかですからな」
曹操につくにせよ、劉表に害をなすような形であれば、不興を買うだけであろう。龐統はあくまでにこやかな表情を崩さない。
緊張感を欠いた、しまらない顔の表面を、劉巴の視線が探るように動く。脅しなのか、忠言なのか、はかりかねているようだった。
「…………肝に銘じておきましょう」
しばしの沈黙ののち、目からも声からも色を消して、劉巴は答えたのであった。
劉巴の家をはなれたとたんに、龐統の雰囲気は一変した。
人懐っこさすら感じさせた双眸は白刃の光をたたえ、頬もするどくひきしまる。
彼は荊州各地をまわって、曹操に味方しそうな人物を牽制していたのだが、手ごたえはかんばしくなかった。
なにかにつけて、陳羣の影がちらつくのだ。
「陳羣、陳羣、また陳羣か」
襄陽城内でも、曹操陣営の親荊州派として、陳羣の名はよく挙げられる。
龐統も例外ではない。
あれは、官渡大戦が終わったころだったか。
唐突に陳羣から手紙が送られてきて以来、交流はつづいている。
名士のなかの名士ともいうべき人物が、なぜ自分に手紙をよこしたのだろう?
当時は首をひねったものだが、思えばあのときから陳羣の手は荊州に伸びていたのだ。
「陳長文……、なんとおそろしい男だ。七年も前から、荊州侵略の根まわしをしていたとは……」
七年前といえば、まだ袁紹が生きていたころである。
最大の敵と戦っている最中に、すでに荊州での工作をはじめていたのだ。
深慮遠謀とはまさにこのことであろう。
敗北感に似たものを抱えながら、龐統は帰路についた。
襄陽に帰還すると、しかし朗報が待ちかまえていた。
劉備が荊州刺史となっていたのだ。
「やられっぱなしじゃあ、癪だからな。これで一勝一敗といったところか……」
自分の策が実を結んだことを知って、龐統はようやく留飲を下げるのだった。
鳳雛と称されるほどの知恵者でも認識を誤ることはある。
陳羣が荊州の士に目をつけたのは、国家を運営するための人材確保が目的であって、戦争を有利にはこぶための離間工作をおこなっていたわけではなかった。
もし、龐統に対抗意識をもたれていると知れば、陳羣は苦笑してこういったろう。
「智謀を競いたければ奉孝とやるといい。私を相手にするより、よほどやりがいがあるだろうよ」
陳羣が自宅に帰ると、その奉孝――郭嘉が、屋敷の主人のような顔をしてくつろいでいた。
鄴にいるはずの彼が、なぜ許都にいるのか?
陳羣はいぶかしげに眉をひそめた。眉間に寄ったしわを中指でほぐしながら、
「……奉孝、いつもどった?」
「ついいましがた」
「連絡はなかったように思うのだが?」
「人事異動じゃなく、ただの休暇なんで。しばらく許都で静養っす」
郭嘉はそういって肉づきの薄い頬を撫でた。
柳城遠征で崩した体調が、まだ万全でないようにも見える。
静養するなら、許都が一番だろう。
鄴は豊かな都市だが、故郷のほうが水は合う。
が、理由はそれだけではあるまい。
陳羣は察した。
「……なるほど。許都のほうが荊州に近いからな。いろいろ都合がよいということか」
「まあ、そういうことっすね。朝廷の権威を利用することもあるでしょうし」
郭嘉は人の悪い微笑を浮かべ、あっさり認めた。
情報収集にしろ、工作活動にしろ、近いほうがやりやすい。
劉表政権解体の絵図面を描くために、彼は帰ってきたのである。
「私はともかく、孔明どのには連絡を入れておいたほうがいいぞ。早めにな」
「おっと、そいつは重要だ」
曹操を鄴に残したまま、郭嘉だけが帰ってきた。
そうと知れば、孔明がなにかしらの助言をたずさえて許都を訪れるであろうことを、陳羣も郭嘉も疑っていなかった。
戦乱から身を遠ざけながらも、天下の情勢に無関心ではいられない。
ひとたび動乱の気配を感じとれば、よりよい結果をもとめて策を講じずにはいられない。
孔明とはそういう男であった。
あまりに多才なために見落とされがちだが、策士としての一面もまた孔明の本質であることを、彼らは理解していたのである。
彼らが予期したとおり、郭嘉の手紙をうけとった孔明は、さほどの間をおかずに許都を訪れた。
荀文若、郭奉孝、陳長文、そして胡孔明。
学問の都・潁川を代表する四人の智嚢が荀彧の屋敷に集ったのは、草木がますます生い茂る三月のことである。
最後にやってきた郭嘉は、荀彧と陳羣が顔をならべているのを見て、首をかしげた。
「おや? 孔明先輩はどちらに?」
「厨房にいる」
と荀彧は肩をすくめてみせた。




