第七五話 鳳雛の計
鄴で曹操が水軍を練り、
新野で劉備が伏龍を幕下に招きいれ、
陸渾では戦と無関係な孔明ですら、来るべき大戦の裏で暗躍する決意をかためていたころ。
当事者のひとりであるにもかかわらず、沈黙を保ちつづける人物がいた。
劉表、字は景升である。
病床の身でいたしかたないとはいえ、主君がいっこうに動きを見せないとあって、劉表の家臣団は気をもんでいた。
そこへひとつの報がとびこんできて、主君の穴を埋めるべく政務にはげんでいた彼らをふるえあがらせた。
黄祖死す。
江夏郡の太守である黄祖が、周瑜ひきいる孫権軍によって討ちとられたのである。
袁術や孫家三代の侵犯を、再三にわたってしのいできた古強者が、ついに倒れたのだ。
劉表政権は支柱のひとつを永遠に失い、いよいよもって危急存亡のときにあるかと思われた。
「孫権軍は夏口を攻め落としておきながら、撤退したらしい」
「不幸中の幸いといったところか。……もっとも大量の住民が連れ去られたようだが」
「どこをむいても敵ばかりだ。われわれも身の振り方を考えたほうがいいかもしれぬ……」
劉表の家臣たちは揺れうごいていた。
それが動揺の範囲にとどまり、混乱にまで発展しなかったのは、ひとえに劉表政権の柱礎ともいうべき蒯越が落ち着きはらっていたからであろう。
劉表は老いてなお見る者に威圧感をあたえる大柄な男であるが、主君同様、蒯越もまたたくましい体躯の持ち主である。謀略と弁舌にすぐれ、豪胆をもって知られている。劉表の荊州入り以来、長年にわたって苦楽をともにしてきた間柄であった。
「周瑜が夏口を放棄したのは、江水の北岸を占領したところで維持できぬと判断したからであろう」
蒯越は人知れずため息をついた。
孫権は着実に足元をかためているが、まだ領内に多くの問題を抱えている。
曹操との対決など考えたくもないだろう。
だが、夏口の官吏たちから、曹操軍の南下がさしせまっていることを知らされた。
「われわれではなく、曹操との戦を回避するために、江水の南に引き揚げたのだろうよ。……なめられたものだ」
孫権が警戒しているのは劉表軍ではない。曹操軍だ。
軽く見られたものだが、孫権や周瑜と同じ立場にいれば、蒯越も同様の判断を下しただろう。
「あるいは、われわれの苦境を見てとって、黄祖どのを討つために攻めこんだか」
孫堅の仇・黄祖は、孫家にとってなんとしても討ちとらねばならぬ讐敵だった。
「……いや、それにしては夏口に攻めこむのが早すぎる。やはり、偶発的な事態に遭遇して、即座に撤退したと見るべきであろうな」
蒯越は不愉快そうに口の端をゆがめる。
羨望に近い感情を認識せざるをえなかった。
準備不足は否めないにせよ、孫権軍の迅速な軍事行動には、若さと勢いがある。
それが劉表軍とは対照的であるように、彼には感じられたのであった。
黄祖敗死の衝撃さめやらぬ翌月の二月、劉備が襄陽を訪れた。劉表を見舞うためである。
「おお、玄徳どの、よく参られた。すまぬが、体調がすぐれぬのでな。椅子に座ったままで失礼する」
劉表は肘掛と背もたれに体をあずけたままいった。
劉備は愁眉を寄せ、
「なにをおっしゃる。景升どのに元気になってもらわねば、居候の私が困ります」
面会には、劉表の家臣が数名同席している。
蒯越はいるが、彼と並ぶ重臣である蔡瑁の姿はない。
劉備は胸をなでおろしているだろう。
というのも、蔡瑁は曹操と旧知の仲であり、当然のように劉備に対して隔意を抱いているのである。
劉表は痰がからんだ湿った咳をすると、
「じつは、玄徳どのに頼みがあってな。いや、貴卿にとってもよい話だと思うが……」
「はて? 私にできることであれば」
「荊州刺史となってほしいのだ」
「っ!?」
劉備は息をのんだ。
この場から蔡瑁が遠ざけられたのにはわけがあったのだ。
劉表は劉備に便宜をはかろうとしていた。
それも生半可なものではない。荊州刺史の座である。
蔡瑁がいれば血相を変えて反対したにちがいなかった。
「し、しかし、それでは景升どのは……」
戸惑いの声をあげたのは、ほかならぬ劉備だった。
その態度が偽りではないことを、蒯越は感じとった。
刺史の座を得るよろこびを、困惑が大きく上まわっているのだろう。
顔の筋肉を硬化させた劉備に、蒯越は冷ややかな声で告げる。
「劉備どの、勘ちがいされては困りますな。荊州をゆずるという話ではありませぬぞ。荊州を治めるのは、州牧たる劉表さま。それは変わりませぬ」
「いや、驚きましたが、それを聞いて安堵しました。私に劉表どのの代役を務めろというのは、荷が勝ちすぎるというもの」
臆面もなく韜晦する劉備に、蒯越はわずかに眉をひそめた。
裁判官を思わせる、視線の刃を劉備に突き刺して、
「劉備どのには早合点させてしまったようですが、州刺史と州牧とはなかなかややこしいものだと思われませぬか」
「お役目が混在していますからな」
「さよう。しかし両者が併存するのであれば、州牧が統治をし、刺史がそれを輔弼するのが当然でありましょう」
州牧と刺史はどちらも行政の長官と見なされている。
それもまちがいではないが、そもそもは郡太守を監察するのが刺史の役目であり、刺史の権限では地方の官吏や豪族をおさえられなかったがゆえに、兵権を与えられたのが州牧といえる。
ここに荊州特有の事情が加わる。
劉表は荊州牧とあわせて鎮南将軍を拝命しており、現状、荊州の政務を総攬しているのは鎮南将軍府なのだ。
「名においては荊州牧、実においては鎮南将軍府。荊州の主が劉表さまであることは誰の目にも明らか。劉備どのが刺史に就任した程度のことで、揺らぐことはありますまい。だからこそ、このような話が浮かんだのです」
「なるほど。であるのなら、謹んで拝命いたしましょう」
蒯越の言葉に、劉備は納得の表情を浮かべて拱手した。
勝手に刺史を名乗ることが許されるのか。
いまさら、そのような問いを発する者はいない。
力さえあれば、官職など正当化される時代である。
劉備が荊州刺史に就任するとあらば、朝廷に上表したところで曹操に握りつぶされるやもしれぬ。
気にするほどのことではあるまい、と蒯越は思う。
荊州において力を持っているのは劉表なのだ。
劉表が認めれば、周囲は追認せざるをえない。
それが力の論理というものであった。
うなるような咳払いをしてから、劉表が口をひらく。
「荊州刺史となれば、もはや玄徳どのを居候と思う者はいまい。兵も集めやすくなろう」
「……であればよいのですが。新野一城でまかなえる兵はせいぜい五、六千が限度でしてな……」
劉備は渋い顔をしてみせた。
むろん、劉表は新野の財政事情を把握していた。
「樊城の食糧庫を、貴卿に開放しよう」
「えっ?」
劉備は目と口を丸くして驚いた。
知らされていなかった家臣もざわめく。
劉表の気前のよさは、彼らの想像の域をはるかに超えていた。
樊城といえば、漢水をはさんで襄陽の北に位置する、戦略上の重要拠点だ。
襄陽と対になる城だけあって、新野のような小城とは規模がちがう。
貯蔵されている穀物の量も相応である。
主君の言葉を蒯越が引き継いだ。
「曹操軍の侵攻に備えるべく、兵を養っておいてほしい。劉表さまはそう仰せられたのです」
劉備は目を輝かせ、ふたたび拱手した。
「はっ、承知いたした。この劉玄徳におまかせあれ」
劉備が去り、人払いをすると、蒯越は主君と一対一でむきあった。
「かえすがえすも思い切った案を採用なさいましたな」
「おまえが薦めたからだろうに。発案者は誰だったかな……」
「功曹の龐統です。龐徳公の甥っ子ですな」
龐統の主張はこうだ。
もともと劉備を新野に置いたのは、曹操に対する盾としての役割を期待してのことである。
曹操軍の脅威が増したのなら、盾も強化するのは当然ではないか。
劉備が荊州簒奪をもくろむ可能性は依然として消えていないが、曹操軍の脅威とは比較するまでもなかろう。
ならば劉表が主で、劉備が従なのだと周囲に知らしめる形で、劉備軍の増強をはかるべきである。
「荊州刺史の座ぐらい、くれてやればよろしい。劇薬だろうと、飲み干さねばならぬときがございましょう。いまがそのときであると存じます」
龐統の提言は理にかなっていた。
いずれにしても、劉備という劇薬を用いねば、曹操軍に対抗しえぬ。
もちろん、降伏という選択肢もある。
戦わずにひざを折れば、襄陽が戦火に包まれる未来は、ほぼ確実に回避できる。
冀州の豪族たちが礼遇されているのを見れば、荊州の豪族が無下にあつかわれることもあるまい。
襄陽の大豪族たる蔡瑁がしきりに降伏を主張するのも、無理からぬことであった。
ただし、それは豪族にかぎればの話である。
実力と声望を兼ねそなえた皇族の存在など、曹操にとっては目障りでしかない。
曹操の思惑いかんで、劉表は逆賊の汚名を着せられ、不名誉な死を賜ることになろう。
長年連れだった主君を死地に追いやれるほど、蒯越は節操のない男ではなかった。
ましてや、動乱の災禍にのまれようとしていた襄陽を守り抜き、荊州を平定し、この地に安寧をもたらしたのは劉表ではないか。
ともあれ、執務室にもどった蒯越は龐統を呼びだした。
自分の案が形になったことを伝えてやろうと思ったのだ。
ところが、蒯越のもとにあらわれたのは龐統の同僚だった。
「龐統はどうした?」
「ここ数日、姿が見えませぬ」
「……仕事はどうした?」
「それまでの分はきれいに終わらせていたようですが、留守にしている数日で山積みになっております」
「……あの半賢人め。どこをほっつき歩いているのだ」
嘆きと、怒りと、呆れをこめて、
蒯越は目をつりあげるのだった。




