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第七二話 逃げ上手の原点


 自然と諸葛亮は、少年期の記憶を、曹操軍の手による徐州虐殺を思い出した。

 瞬間、冷ややかなものが若者の腹底ふくていを占めた。

 興ざめする思いだったのである。


 彼の人生があの出来事を境に一変したことは、劉備も知っているだろう。

 徐州虐殺を話題にもちだせば共感を得られる、とでも劉備が考えているのだとすれば、そんな安っぽい感情論は願いさげであった。


「中平四年、いまから二十年前のことだ。私は幽州で賊軍と戦った」


 諸葛亮の予想は外れた。

 劉備があげた地名は、諸葛亮ではなく、劉備自身の故郷である。


「賊の首魁は、張純という男だった」


 当時、劉備は二十七歳。奇しくも、いまの諸葛亮と同じ年齢であった。




 義勇軍を結成したものの、劉備はまだ特筆するような功績を立てられずにいた。

 もっと功を立てて、名を売らねば。

 彼の思いをよそに、月日ばかりが流れていく。


 名をあげるには、賊を討つしかない。劉備たちは官軍の指揮下に加わり、幽州であばれまわっていた張純の討伐に挑んだ。


 その結果、劉備はさんざんに蹴散らされ、ひとりで戦場跡をさまようはめになった。

 とうに戦は終わっていたが、仲間の姿はどこにも見あたらない。関羽や張飛の生死すらわからなかった。


 どこに逃げればいい……。どうすれば助かる……。


 賊軍に捕捉されれば、敗残兵として狩られるだけである。劉備は思案した。夜まで生きのびることさえできれば、逃げきれもしよう。


 そして、彼は身を隠せそうな場所を発見した。

 積みあげられ、放置された死体の山――京観けいかんである。


 近づくと、見たくなかったものが見えてくる。

 そこに積まれたしかばねの半数は、劉備の部下だったのだ。


「…………」


 劉備は涙を流しながら、京観のなかに体をうずめた。

 昨日まで笑いあっていた仲間の死体に身をひそめ、人間が冷たい土に還っていくのを肌で感じながら、彼は生をつないだのであった。




「さすがにあれはこたえた。私がもっとうまくやっていれば、みんな死なずにすんだろうに。それ以来だ。私が負け戦を早く見切るようになったのは。どうせ負けるのなら、さっさと逃げたほうがいい。戦場に踏みとどまって、死んで、なんになる? 仲間にも自分の命を優先するようにいいふくめてある。危ないと思ったら逃げていい、降伏したってかまわないのだ、と」


 凄絶せいぜつな体験が、劉備を逃げ上手にさせたのだ。

 諸葛亮は絶句するしかない。


「私の過去は特別なものでもなんでもない。曹操だって百戦百勝の将ではないのだから、似たような経験はあるだろう。それでも彼はおくすることなく戦をしかけ、危険な賭をくり返して、勢力を強めていった。それだけなら、優秀で勇敢な人物だと敬意をもてたのだが……」


 劉備ははっきりと顔をしかめた。

 自分の凄惨せいさんな過去を語るときは、かすかに眉をひそめただけであったのに、曹操のこととなると、どうにも嫌悪が先立つようである。


「……曹操はそれだけではなかった。あの男は異様だ。敵に勝利して勢力を増すのは当然だが、敗北してすら、なぜか勢力を増してゆく。まるで敵だけでなく、味方の血肉をも養分としているかのように。味方すら喰らって、際限なくふくれあがってゆく」


 劉備の感性的な曹操評を、諸葛亮はによってひもとこうとする。


 曹操とて人だ。味方の死に涙したこともあろう。

 だがその後が、劉備とは決定的にちがった。

 曹操は形勢を挽回して、結果を出した。


 成功してしまったがゆえに、曹操のなかで、味方の死は必要な犠牲へと昇華されたのだ。割りきったのだ。最短距離を歩むために必要な犠牲なのだ、と。


 だからこそ、自軍をも焼きはらいかねない、燎原りょうげんの火のごとき軍事行動をくり返せるのだろう。


 曹操にとってはそれが正しいのかもしれないが、犠牲にされるほうからしてみればたまったものではない。


 その覇者のありようは、劉備には欺瞞ぎまんに感じられたであろうし、非道にも見えたであろう。


「そんな男が造る天下など、ろくなものにならないのは目に見えている。私はごめんだ」


「……なるほど、よくぞ打ち明けてくださいました」


 諸葛亮は己の不明を恥じた。

 劉備は小細工や感情論をろうせず、最初から本音をぶつけていたのだ。


 恥じながらも、諸葛亮は瞬時に理解した。

 劉備が嗅ぎとったという曹操の血の匂い、おそらく半分は勘違いであろう。


 悲惨な光景をくり返さぬよう、劉備は越えてはならぬ線を引いて、己の行動を律した。その線のむこう側にいる曹操を見るたびに、過去の記憶を刺激されていたのである。


 残り半分はというと、本能が警鐘を鳴らしたのだ。


 劉備が引いた一線を越えて、曹操は権力の座をつかんだ。

 その存在は、劉備個人の価値観を否定するのみならず、彼を中心とした劉備組ともいうべき、任侠的結合集団の絆を根幹から破壊しかねない。


 曹操が相容れない敵であることを、劉備は本能的に察知したのである。


「かさねて失礼なことをもうしあげますが、血で血を洗う道を歩んでいるのは、劉備さまも曹操と同様でございます」


「むうっ……。まったくそのとおりだ」


「劉備さまが許都におられたころ、曹操は劉備さまを気に入っていたと聞きおよんでいます。おそらく、自分と似た匂いを嗅ぎとっていたのでしょう。……ですが、劉備さまは隔意かくいを抱いておられた」


「…………」


「戦乱に身を投じたのは同じであれど、そこにはたしかにちがいがあるのです。曹操の価値観は苛烈にすぎる。受けいれがたい、と劉備さまは感じたのでございましょう」


 曹操にも己が定めた線はあろう。劉備はその内側におさまった。

 だから曹操は、敵意や憎悪ではなく、親近感や好意を抱いたのだ。


 諸葛亮は判断せざるをえなかった。

 劉備の器量は、曹操にはおよぶまい。


 しかしながら、彼の慧敏けいびんな知性は、そこに絶望ではなく希望の目を見いだしていた。


 峻烈しゅんれつかつ衆に先んじた曹操の価値観は、その怪物じみた行動力の源泉でもある。

 ただし、行動力はともかく、価値観というものは優劣や上下ではかれるものではない。


 血塗られた道を歩む劉備ですら、曹操にはついていけずに、嫌悪を示すのだ。

 常人ならば、なおさらであろう。


 人々の価値観の先に劉備がいて、さらにその先に曹操がいる。

 民衆がどちらに親近感や好感をおぼえるかといえば、当然、劉備のほうである。


 劉備を「大徳」と呼ぶ者がいるのが、その証左であった。


 漢朝の威徳が失われて久しい。

 各地の群雄は、ありとあらゆる手段を用いて覇権を争っている。


 そんな大乱世にあっても、劉備は彼なりに、一線を越えぬよう生き抜いてきた。

 その姿勢が、民衆の目には、「徳」や「情」として映っているのだ。


 民心をえる。これほどありがたいことはない。


 制御できるものではないが、民衆は無尽蔵ともいうべき巨大な力を秘めている。

 漢朝を滅亡の淵に追いやったのが、農民反乱であったように。

 民心をつかんでいる劉備であれば、あるいは曹操の野望を打ち砕けるのかもしれない。


 それにしても、軍事力、政治力、国力、人材の層……。

 あらゆる観点から盤石に思われた曹操陣営であるが、まさか最大の強みと思われた曹操自身に隙があろうとは。


 いや、これを隙と見なすのは曹操にきびしすぎる見方であろう。


 道理や利害であればいくらでも諸葛亮は説けるが、情義で人を動かすことなどできはしない。

 劉備陣営に立つことで、はじめて、つけいる隙が見えたのだ。

 劉備の器量が、曹操のほころびを浮かびあがらせたのだ。


 彼は天のめぐりあわせに感謝した。

 劉備は曹操に対抗しうる、稀有けうな人傑であった。

 曹操には一段とどかなくとも、まぎれもない英雄の器だった。


「私も劉備さまと同じ思いでございます。曹操の天下を認めれば、戦乱が治まったそのあとですら、民草の苦しみはつづくことになるでしょう。それだけは、ふせがなければなりませぬ」


 諸葛亮の力強い言葉に、劉備は目を輝かせ、姿勢を前のめりにする。


「そ、それでは、私のへいに応じて、ともに戦ってくださると……」


「はい。この諸葛孔明、不肖の身ながら犬馬の労をつくし、どこまでも劉備さまのお供をさせていただきたく存じます」


「おお……」


 感極まったかのように、劉備は声をのみこんだ。


 こうも感激されれば悪い気はしないが、諸葛亮としてはいっしょによろこんでもいられない。

 彼が劉備の帷幕いばくに加わるのは、ともに戦うためではなく、ともに戦って勝つためなのだ。


 まずは、献策を受けいれてもらわなければ、はじまらない。


「我が君、かさねがさね失礼なことをもうしあげますが」


「またか」


「はい、またでございます」


 もちろん、彼らは大まじめである。


「新野一城の主でしかない我が君が、曹操に立ちむかわんとすること、蟷螂とうろうの斧というよりほかにございません。現状のままでは、痴人ちじんの夢とのそしりをまぬがれないでしょう」


「それはわかっている。わかっているから八方ふさがりなのだ」




 蟷螂の斧とは、力のない者が自分の力量もわきまえずに、強大な相手に挑むことをたとえたことわざである。


 昔、斉の荘公が狩りに出かけようとしたとき、一匹の蟷螂かまきりが馬車の前に立ちはだかった。前脚を振りあげ、車輪を打つその虫を見て、荘公は従者に問うた。


「この虫はなんという?」


「かまきりといいます。前に進むことしか知らず、後ろに下がることを知りません。自分の力もかえりみずに、どんな相手にも戦いを挑むのです」


 荘公は、


「この虫が人間だったら、天下の勇武となっていたであろう」


 と感心して、馬車を迂回させたのであった。




 こうして生まれたのが、蟷螂の斧ということわざである。

 無謀な行為をたとえた言葉なのはまちがいないが、ときに戦う相手を選ばない、真の勇者を称賛する意味合いがふくまれることもある。


 まさに、彼らの置かれている立場を的確にあらわす言葉といえよう。


 とはいえ、劉備はかまきりとはほど遠い。退くことの重要性を、誰よりもよく知っている。


 諸葛亮もまた、はかりごとをなすために劉備に仕えるのだ。無謀であるはずもない。若者らしい清澄せいちょうな声には、才気の響きがあふれている。


「さて、ここに痴人の夢と捨ておくわけにはいかない、噂話がございます。ちまたで流れる『天下三分の計』なる噂話を、我が君はご存じでしょうか?」




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― 新着の感想 ―
[一言]  史実を見れば、劉備と諸葛亮こそが、三国志という要らん地獄を作り出した張本人なんですけどね。曹操vs孫権なら、曹操が勝ってさっさと統一か、孫権が跳ね返して南部は独立国になってしばらく併存で済…
[一言] まあ現代から観れば、徳や情の政はその人の寿命までと言う期間限定セールだからなぁ・・・
[良い点] 曹操に届かずとも比肩しうる英傑である劉備を通すことで初めて曹操の隙を見出した臥龍。 それに飛び付いてしまうのは若さ故、という感じが伝わってきて今までに読んだことのない三顧の礼だったなと思い…
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