第七一話 劉備と曹操をわかつ壁
「バカとはなんだ、バカとは。雲長だって、孔明先生だったら文句はないだろうがよ?」
これが陸渾の孔明を軍師に迎えるためであったなら、張飛だって労を厭うつもりはない。
関羽を皮切りに、いまでは劉備軍の他の将も、孔明に手紙を送るようになっている。
普通の名士であれば、劉備はともかく、張飛の存在など無視されてしまうにちがいないが、そこはさすがに天下の名士たる懐の深さというべきか。孔明は張飛相手にも、丁寧に返信してくれるのだった。
放浪の劉備軍は、世間からはあくまで傭兵軍団と見なされており、名士とは縁が薄いのだが、孔明は数少ない例外といえた。
「益徳、文句のあるなしではない」
関羽はあきれの色を隠さず、片眉をあげて、
「陸渾は曹操領だ。われわれが行って、何事も起こらぬと思うのか?」
「ぐぬっ……」
劉備も関羽も張飛も、ひときわ目立つ風貌をしている。
彼らが曹操領に入りこめば、すぐに騒動になるだろう。
そもそも、陸渾へ勧誘に行くこと自体が不可能なのだ。
関羽はつづける。
「それにだ。剣と共に生き、剣と共に死すのが、われらの道。孔明先生を巻きこめば、われらは民衆に恨まれよう。それでは本末転倒ではないか」
彼らの道に孔明を巻きこむことは、民から孔明を奪うに等しい行為である。
そうなれば彼らは民草の敵となり、救世済民の志すら失いかねない。
「でもよぅ……」
口をとがらせるが、張飛も本気で孔明を勧誘しようと提案しているのではなかった。ほとんどは劉備に聞かせるための会話である。
その劉備はというと、彼らの会話を背中で聞くにとどめていた。
張飛の不満はもっともである。劉備としては口を差しはさむ余地がない。
諸葛亮という可能性に前のめりになっていることを、劉備も自覚していたのである。
関羽・張飛とは挙兵以来、二十年以上のつきあいになる。
彼らは不平不満を口にしても、けっして劉備を見捨てようとはしなかった。
関羽と張飛だけではない。
挙兵以前からの知己である簡雍。
富豪でありながら私財のすべてを劉備に投じてくれた糜竺。
甲斐性のない自分についてきてくれた部下に、仲間に、報いてやりたい。
そうした思いが、任侠である劉備の心を前のめりにさせていたのである。
現状の不遇が劉備のせいであるならば、それを打破するために率先して行動するのも劉備であるべきだった。
忘れてはならなかった。
前を指し示すのは、劉備の役割である。
期待はいくらでもしてよいのだ。
失敗したなら、飲んで騒いで、そしてまた、次の可能性を探しもとめるだけのことである。
劉備たちは馬にゆられて、ゆるやかな坂をのぼっていった。
禿げた梢には雪が積もり、小鳥の可愛らしいさえずりが律動的に響きわたる。
昼下がりの隆中は、冬の寒さをやわらげる、おだやかな陽光につつまれていた。
ようやく諸葛亮の庵が見えてきた。
しばらくすると、門の前にふたりの男が姿を見せた。
劉備たちの来訪に気づいて、出迎えようというのだろう。
遠目にも判別できる。
ひとりは諸葛亮の弟、諸葛均であった。
その隣に立つ、諸葛均より背の高い男が諸葛亮だろうか。
頭に綸巾をいただき、白地に黒いふちどりの鶴氅を着た若者は、白い羽扇を手にして、凜とした英気をまとっている。
才気煥発そのものの若々しい立ち姿をながめ、劉備は心にうなずくのだった。
諸葛亮の目にも、当然、劉備たちの姿は映っている。
見事な髭をもつ、赤ら顔の大男が関羽であろう。
その隣に馬を並べる、関羽に次ぐ体格の持ち主が張飛。
そして、先頭にいるのが劉備玄徳にちがいなかった。
大耳で髭がうすい。聞いていたとおりの容貌だが、それ以上に、道をよく尋ねられそうな話しかけやすい顔立ちと表情が印象的である。
荒くれどもを束ねる大将にしては、威厳や威圧感が不足しているようにも感じられるが、むしろ諸葛亮にとってはありがたい。
たとえば劉備が、野獣のごとき眼光でこちらをにらんでいる張飛のような人物であれば、今後の苦労が思いやられるところであった。
このとき諸葛亮は、現代風にいうならばモラトリアムとの決別を迫られていた。
風の便りとはよくいったもので、曹操軍が烏丸を制圧したという知らせは、またたく間に、この荊州にも伝わった。
曹操の南下に対抗するつもりならば、もはや一刻の猶予もない。
司馬徽が劉備に諸葛亮を紹介したのは、諸葛亮にむけた最後通告であり、同時に、劉備に仕える心をかためつつあった彼への後押しだったのである。
庵に着いた劉備は、馬をおりて、慇懃に挨拶する。
「漢の左将軍、豫州牧の劉玄徳ともうす。諸葛先生にお会いできる日を楽しみにしておりました」
「徐州琅琊出身の諸葛亮、あざなを孔明ともうす。劉備さま、私ごとき若輩に先生はおやめください。ただただ恐縮するばかりでございます」
頭を下げながら、諸葛亮は内心、舌を巻いた。
自分のような若造を下にも置かぬ態度。
上辺だけのものではない。劉備の瞳と声には、熱意と誠意がある。
劉備という人物が、いかに人望を集める術を心得ているか。
その一端を垣間見た思いだった。
お供のもてなしは弟に任せ、諸葛亮と劉備は書堂に入った。
余人を排し、正座してむかいあう。
「諸葛亮どの。漢朝の衰兆あきらかにして、主上は洛陽をはなれ、朝廷は奸臣にほしいままにされている。曹操の専横に憤りをおぼえるも、私には対抗する力がありません。どうか、あなたの叡智をもって、この劉備に策をさずけていただけないか」
劉備は頭を下げて、思いの丈をぶつけた。
「劉備さま、頭をお上げください。……いまや曹操の権勢は絶大。劉備さまは、敵わぬと知りながら、どうして曹操に立ちむかおうとするのでしょう?」
「漢室の血を引く者として、主上をお救いせねばならぬ」
「漢朝の護持、大いに結構でございます。ですが失礼ながら、血筋や立場に強制力があるのでしたら、たとえば荊州の主である劉表さまは、劉備さまよりよほど強く、曹操との対決姿勢を打ち出さなければなりますまい。しかし、現にそうなってはいない」
「むっ……」
劉備は言葉に詰まった。
漢室の血を引くといっても、劉備の血はうすい。疎族もいいところである。
血の濃さに応じて責務が発生するのなら、劉備よりも戦わねばならぬ者はいくらでもいるはずだった。
「劉備さまが、かつて董承の曹操暗殺計画に加担していたこと。計画が露見して、曹操と相容れない身になったことは存じております。……ですが、奇妙に思うのです」
「奇妙とは?」
劉備は首をかしげた。
「董承の計画が分が悪い賭けであると、劉備さまは気づいておられたのではありませんか?」
「…………」
指摘され、劉備は目をみはった。
その唇が笑みをかたどるのを見て、諸葛亮は、疑念の淵から鎌首をもたげていた自分の推測が、確信の岸へとたどりついたことを知った。
もともと許都――許県を支配していたのは曹操なのだ。
許都での曹操暗殺は、至難のわざであったろう。
朝臣だろうが将軍だろうが、名ばかりで実権のともなわない董承ではなおさらである。
危険に対する嗅覚が並外れている劉備であれば、成功の余地は少ないと勘づいていたはずなのだ。
それでも、劉備は曹操暗殺に参画した。
「なにが、あなたを曹操暗殺に駆りたてたのか。その動機が。血筋によるものではなく、劉備さまご自身の戦う理由と意志が知りたいのです」
諸葛亮の切れ長の眸が、劉備の顔を正面から見すえた。
劉備は茶をすすると、襟をただした。
「曹操はすごい男だ。あれは、私が乗り越えられなかった壁の先にいる。一生かかっても、私は曹操のようにはなれないだろう。……だが、ああなりたいとも思わない」
劉備は眉間にしわを寄せ、
「あの男からは、血の匂いがする」
露骨に嫌悪をあらわした。
「許都にいたころは、息がつまるような日々だった。許都の風は澱んでいて、瘴気に蝕まれているようにすら感じられた。曹操がそばにいるときなど、鼻がまがるかと思った」
「血の匂い、ですか……」
「時代が時代だ。海内に戦乱の起こらぬ地はなく、破壊と流血は果てがなく、万民が塗炭の苦しみにあえいでいる。私自身、部下や民の犠牲の上に生きていることは否定しない。……それでも、あの男がただよわせる血の匂いは尋常ではなかった」
過去の血臭を振り払うかのように、劉備は頭を振った。
「いまにして思えば、私の鼻はまんざら外れてもいなかった。曹操がゆくところ、常に大量の血が流れる。あの男がいる場所で大戦が起こる」
劉備は顔をしかめたまま、
「曹操と自分の現状を比較して、自分の無力を嘆くことはある。だが、羨望の念を抱いたことは一度もない。あの男は、人が越えてはいけない壁を越えてしまった」
「壁……。越えてはならない、その壁とは……?」
秀眉をひそめて、諸葛亮は問うた。
劉備は表情をやわらげると、陽だまりのような微苦笑を浮かべていった。
「京観」
聞きまちがえたのではないか。諸葛亮は自分の耳をうたがった。
それほどまでに、
劉備のおだやかな表情とは不釣り合いな、陰惨きわまりないひとことであったのだ。
京観とは、戦場に積みあげられた死体の山のことである。




