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第七十話 三顧の礼


奉孝ホウコウどののとりなしによって生きながらえておりますが、それがしは洛陽ラクヨウギョウ、そして許都キョトがある潁川郡エイセングンへの立ち入りを禁じられております」


 久しぶりの再会を祝して、わが家で一献傾けていたところ、郭図カクトは前置きするかのように、自分がおかれている立場を語った。


 自分は罪人だから距離感には気をつけたほうがよい、との意図をこめての発言だろう。


 郭図の現況については、郭嘉カクカの手紙に書かれていたので、私も承知している。


 袁譚エンタン袁煕エンキに次ぐ責任者だった郭図は、曹操に仕えぬのであれば、処刑されて当然の身だ。

 郭嘉がとりなしたとはいえ、まったくのおとがめなしというわけにもいくまい。


「主要都市からの追放とは、つまり、それがしによからぬことを画策させぬための処置なのでしょう」


 よからぬこと。すなわち、反曹操の工作活動である。

 とくに天子のいる許都で、クーデターでも計画されてはたまらない。


 そりゃ、うまくいくとは思えないが、潁川に縁故の多い郭図なら、厄介な事態のひとつくらい引き起こせるかもしれない。そうならないよう、曹操も必要最低限の処分はしておいたのだ。


 けれど、見たかぎり、郭図の顔に悔しそうな色は浮かんでいない。

 なんか、こう……あっさりしてるというか、他人事のような感じに見える。


「ふむ、よからぬことか。もとより、おぬしにそのつもりはなかったようだが?」


「ふふふ、奉孝どのの顔に泥を塗るようなまねはいたしませぬ。……それに、それがしは袁紹さまの理念に共感して、戦いに身を投じたのでございます。曹操は倒さねばならぬ敵ではありましたが……」


「曹操を倒すために戦っていたわけではない、か」


 袁紹は死に、父の遺志を継いだ袁譚も死んだ。

 袁紹の一族は処刑されたそうだ。


 なかには難を逃れた者もいるかもしれないが、旗印になれるような人物は残されていないだろう。

 郭図の志は断ち切られ、彼の戦いは終わったのだ。


 袁紹の一族に思いを巡らしていた私の脳裏に、ふと不吉な考えがよぎった。


「そういえば、おぬしの家族は……」


 どうしたのだろう?


 たしか郭図の家族は、鄴陥落時に曹操軍に捕らわれていたはず。

 処刑されたとは聞いていないが、まさか……。


「潁川で無事に暮らしている、と奉孝どのから聞いております」


「そうか」


 ほっと安堵する。


「曹操軍に捕らわれた時点で離縁しておりますので、連絡はとっておりませぬが」


「……そうか」


 むむむ、手放しでよろこべる状況とはいえないのかもしれない。

 それでもなにより、無事であることをよろこぶべきだろう。


 よかった……皆殺しにされた郭図の家族はいなかったんだ。


「ありがたいものでございますな。このようなときに一族を頼れるのは」


「うむ」


 それな。

 まったくもって同感でございます。


 一族の根底には、相互扶助の精神が流れている。

 一族に力があれば、家長になにかあっても、残された家族は路頭に迷わずにすむ。子どもだって、士大夫としての教育を受けさせてもらえるだろう。


 その点、私の家格は潁川胡氏エイセンコシと呼べるほど立派なものではないのだが、幸いなことに、息子が潁川陳氏から嫁をもらっている。

 私になにかあったとしても、潁川陳氏の領袖りょうしゅうである陳羣チングンを頼ればいいだろう。

 性格的にも、つれなくするタイプではないし、じつにありがたい陳羣である。


 それはともかく、これからどうするのだと訊くと、郭図はこう答えた。


「しばらくは陸渾リクコンの近くの城邑じょうゆうに居をかまえ、文字の読み書きでも教えながら暮らそうと思っております」


 手にした酒杯のなかに、郭図は視線を落とす。


「そうこうしているうちに、曹操が天下を統一するのでしょう。その日を見届けることになるのは、なんとも複雑な心情でございますが……」


 悲嘆と寂寥せきりょうのようなものが、影となって郭図の顔をかすめた。

 かつての敵が天下をとるとなれば、さすがに、いろいろ思うところはあるだろう。


 ……さて、どうしたものか。

 曹操の野望がくじかれることを、私は予言すべきなのだろうか?


 普通に考えれば、曹操の天下統一はもう秒読み段階だ。

 だが、曹操は負ける。


 荊州に侵攻した曹操は、かの有名な赤壁の戦いで、劉備・孫権連合軍に敗れ、天下統一をはばまれるのだ。


 けれど、曹操の敗北を郭図に告げることが、私にはできなかった。

 赤壁の戦いで負けた曹操は、こう嘆いたといわれている。


「ああ、もし郭奉孝が生きていれば、この敗戦はなかっただろうに」


 その郭嘉が生きている件。

 これもうわかんねえな。




 *****




「はっきりわかんだよ。俺たちに欠けていたのは軍師だって」


 虎(ひげ)の大男が鞍上あんじょうでぼやいた。

 関羽と並び、劉備軍にその人ありとうたわれる万夫不当の豪傑、張飛益徳(エキトク)である。


「けどよ、その諸葛亮ってのが本物かどうかなんてわかんねえだろ? なにも、こんな足しげく通う必要なんてねえだろうに」


 劉備は、関羽と張飛、数騎の供をつれて、雪の残る田舎道を進んでいた。

 目指すは隆中リュウチュウ、目当ては諸葛亮という若者だ。


 先月に一度、数日前に一度、今回が三度目の訪問である。


 左将軍である劉備が、無官の若者に会うために行ったり来たりしているのだから、張飛が不平のひとつもこぼしたくなるのは当然であろう。


「まあ、そういうな。徐福と司馬徽シバキが高く評価しているのだから、会ってみる価値はあるだろう」


 関羽にたしなめられると、張飛は肩をすくめてみせた。


「へえへえ。『なにせ、あの孔明先生が推挙しようとした若者らしいからな』でござんしょ? わかってるって」




 ――兵を用いずに、謀略によって曹操を揺るがす。


 徐福がしてみせたことは、劉備たちに衝撃をあたえると同時に、ひとすじの光明をもたらした。


「正面から戦うには、曹操はあまりにも強大だ。だが、謀略を用いれば、勝機を見いだせるかもしれん。徐福のような人材を、すぐれた軍師を集めれば……」


 そこに、劉備は一縷いちるの望みをかけた。


 劉表が治める襄陽ジョウヨウには、各地の戦乱から逃れてきた知識人が集まっている。

 このところ劉表は体調が思わしくなく、劉備は毎月のように見舞いにいっては、在野の士と面会をくり返していた。


 水鏡スイキョウ先生こと、司馬徽の屋敷を訪れたのは、つい先月、十一月のことだった。


「劉備どのは賢才を探しもとめているようですが……。どうやらその様子では、うまくいっていないようですな」


「はぁ、水鏡先生のおっしゃるとおりで。立て板に水のごとき弁舌の士はいても、どうにも言葉が軽いというか……。理想論ばかり聞かされているような気持ちになってしまうのです」


「よきかな、よきかな。学問のために学問をしているような者の言葉では、劉備どのの心には響きますまい」


 もっと早く、司馬徽と会うべきだったのかもしれぬ。劉備は後悔した。

 じつは、このときまで、劉備は司馬徽に対してよい印象を抱いていなかった。


 理由は明白で、劉表の司馬徽に対する評価がかんばしいものではなかったためである。

 いわく、「知識はあっても、世間に関心がない。役に立たない隠士の典型である」と。


 徐福の師だとは知っていたが、あくまで学問上の師であって、学だけの人物だろうと思っていたのである。


 しかし、実際に会ってみると、その印象はがらりと変わった。


 学問を過信せずに、物事の根底をつかもうとする。

 司馬徽の知性はなかなかどうして、軽佻浮薄けいちょうふはくな学士たちとは一線を画しているように感じられた。


「水鏡先生。どうか、この玄徳に力をお貸しください」


「はははは。劉備どのが探しているのは、治国安民の経策であり、曹操を倒すすべ。私のような凡夫では、貴殿の要望には応えられますまい。……もし、そのような大略を知る人物がいるとすれば……」


「いるとすれば?」


 劉備は床に手をつき、身を乗りだした。


「襄陽から西に二十里、隆中という地に、臥龍がりょうと呼ばれる若者がおります」


「隆中の、臥龍……」


「姓は諸葛、名は亮、あざなは孔明。彼ならば、あるいは……」


 ようやく大賢の手がかりをつかんだ。

 これで無為の日々に別れを告げられる。


 思い立ったが吉日。襄陽からの帰路、劉備はさっそく隆中へと足をはこんだ。

 だが、諸葛亮は留守にしていて、応対に出たのは弟の諸葛均ショカツキンだった。


 悄然しょうぜん新野シンヤに帰った劉備は、未練たらしく、徐福に事の経緯を伝えた。


「それは残念でございましたな」


 徐福によると、諸葛亮の才は自分の数倍であり、陸渾の胡孔明にも認められているほどだという。


 まだ見ぬ諸葛亮という若者は、いったいどれほどの才能を秘めているのだろう。

 いやおうなく劉備の期待はふくらんだ。


「それにしても、徐福は諸葛亮を知っていたのだろう? なぜ教えてくれなかったのだ」


 劉備の愚痴に、徐福は苦笑まじりに答えた。


「劉備さまと無関係の水鏡先生であればともかく、私が紹介したところで、彼はへそを曲げるだけです。自分まで巻きこむな、と」


 気むずかしい人物なのだろうか。

 劉備は一抹の不安をおぼえたが、はきちがえてはならなかった。


 この際、性格は二の次である。

 必要なのは人格者ではない。軍略家であり、策謀家なのだ。


 十二月になると、雪が降るなか、劉備はふたたび隆中を訪れた。劉表の見舞いにいく途上のことであった。


 諸葛亮はまたしても留守であったが、それでもまったくの徒労とはならずにすんだ。


 諸葛均はこういったのである。


「兄は明後日あさってには帰る予定でございます」


 かくして、諸葛亮のいおりを辞した劉備は、襄陽で劉表の見舞いをすませてから、また隆中へとむかっているのだった。


 これで三度目の訪問となる。


 今度こそ、諸葛亮と会える。

 騎手の心を反映してか、劉備の馬の足どりはかろやかに見える。


 一方、張飛はというと、おもしろくなさそうにふてくされていた。


「なあ、雲長ウンチョウ。徐福と司馬徽、それに孔明先生まで認めてるんだ。諸葛亮ってのは、それなりに才があるんだろう」


「おそらくな」


「けど、それなりじゃ意味がねえ。それなりで曹操を倒せるのか、って話でよ」


「…………」


 関羽は反論しなかった。

 彼らは黙って、先頭をゆく劉備の背中を見やった。


 張飛とて徐福のことは認めているから、軍師の重要性は理解している。

 だからといって、劉備の心情は理解しがたい。

 なんの実績もない青二才に、どうしてこうも熱をあげられるのか。


 期待ばかりつのらせていく主君に、いささか辟易へきえきしていた張飛は、やがて名案を思いついたというふうに、


「そうだ。どうせなら諸葛孔明なんかじゃなく、本物の孔明先生に軍師になってもらおうぜ」


「ばかをいうな」


 無茶をいいだす張飛に、関羽はあきれかえった。




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― 新着の感想 ―
陸渾の方は「元祖・孔明」で、これから誘う方は「真・孔明」で良いんじゃね?
これは言わねばなるまい、あのセリフを! バッカモーン!そいつが本物の孔明だ!
[良い点] 本物と偽物が逆転してるw [一言] 郭嘉って本来の歴史で生きていたとしても赤壁の疫病で死にそうですよね… 赤壁はそもそも行ったら負けだと思うけど郭嘉がいる事で如何なるか楽しみです。
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