第七話 門下生の動揺
建安二年の晩秋。
私は主屋の板張りの床にむしろを敷いて腰をおろしていた。そこへ、周生が台所からあがってきてひざをついた。
「お茶をどうぞ」
「うむ」
差し出されたお茶をうけとる。
立ちのぼる湯気が顔にあたれば、ほのかな生姜の香りが鼻をくすぐる。
ちなみに、師の身のまわりの雑務をこなすのは門下生の役割であって、こき使っているわけではありません。
周生は神妙な面持ちをして、そのまま私の前に座った。
「先生、ちょっとよろしいでしょうか?」
「ウム? なにかな」
「世の名士たちは躍起になって、将来有望な若者を門下に入れようとしています。そして、その若者の立身出世によって、さらなる名声を得ようとしている、と聞きおよんでいます」
門下生の栄達は、同時に師の名声にもつながる。当たり前といえば当たり前だが、名声や影響力をほしがる名士は少なくない。
周生は、ちらと壁を見た。
見えないが、その壁のむこうには学堂が建っている。
「聞けば、あの司馬懿は、孔明先生の門下に入り学びたい、と願っているそうではありませんか。なぜ先生は、彼を受け入れようとしないのでしょうか?」
「むっ。門下生たちのあいだに、そのような話が広まっておったか……」
学堂には今、司馬懿がいる。
またまたの来訪である。三顧の礼かな。
「ふむ。……あれほどの才を教えみちびくことなど、私にはできぬよ」
幸いといっていいことに、私は名士たちの競争から無縁でいられた。
なぜかというと……こう見えても私、すでに一流の名士ですので!
書法家としての基礎に、人物鑑定、料理研究、農具開発。
そうした様々な加点を積みかさねた結果、いつのまにやら一流名士の仲間入りを果たしておりました。
そこに、流行の最先端をいくライフスタイルが、芸術点として乗っかっていたりもします。
そう。引きこもりはステータスだ! 加点要素だ!
この国はもうダメかもしれんね。……ダメだったわ。
「才をいうならば、先生のご子息が、司馬懿に劣っているとは思いませんが……」
と周生にいわれて、思わず私は目を丸くした。
「いや、それはない」
「そうでしょうか。ご子息はまだ志学(十五歳)にもならぬというのに、『孝経』、『論語』、『詩経』といった書をよく読みこんだ才子ではありませんか」
私の長男は纂という。胡纂、十二歳だ。
書物に触れる機会が多かったこともあり、陸渾では才子として通っている。けれど、さすがに司馬懿と比較する気にはなれなかった。
「いや。司馬懿の才識を十とするなら、纂の天稟は一にもとどくまい」
「…………ッ」
周生は絶句した。
顔どころか全身をこわばらせているのを見るに、なにやらショックを受けているようだ。
……司馬懿への対抗心でも、抱えこんでいるのだろうか?
「周生」
「は、はい」
「人には向き不向きがある。おぬしも、纂も、司馬懿も。才の形はそれぞれちがうのだ。上下や優劣のみではかっていては、損をするぞ」
たとえば、私の場合。
知識だけなら、三国志の一流どころにも劣っていないかもしれません。
けれど、重責をはねのける力、緊急時における冷静さ。
そういった部分で、やはり大きな壁が存在するのです。
だったら、同じ土俵で勝負することもない。
そもそも、司馬懿と同じものさしではかれる人材が、この大陸にどれほどいるでしょうか。
あんな超英雄ポイントをもってそうな人物と比較して、打ちひしがれる必要なんて、まったくないと思うのです。
*****
今日は父の仕事を手伝う日だといって、周生は主屋を出た。
「才の形はそれぞれちがう、か……」
師の言葉はありがたかった。
司馬懿を見習え、司馬懿に学べ。
もし、そんなふうに口うるさくいわれていたら、反発を覚えずにはいられなかっただろう。
朝方、周生が掃き清めた庭には、はやくも風に乗って落ち葉が散らかっていた。彼は舌打ちして、学堂を横目に門にむかう。
学堂では、司馬懿が門下生たちに、もてはやされているはずだ。そんな場所にいるつもりはなかった。
父の仕事を手伝う。それは師の屋敷をはなれるために、とっさに思いついた口実だった。
周生の父は商人である。
家は裕福で、陸渾では顔が利く。
父の仕事の都合で陸渾に引っ越してきたのは、十年以上も前のことだ。
彼はそれまで、河内郡の温県で暮らしていた。
だから、温県の孝敬里にある司馬家が、力のある名家だということは知っていた。
「なぜ、こんなところにまで、出しゃばってくる……。そのまま、地元で出仕すればいいだろうに」
司馬家の者なら、出仕も出世もむずかしいことではないだろう。周生が必死になって追い求めているものを、司馬懿は生まれつきもちあわせているのだ。
周生は逃げるように門をくぐって、屋敷の外に出た。
まだ陽は高いが、風が冷たかった。秋が深まるにつれ、北西の風が運ぶ寒気は、日に日に鋭くなっている。
踏みかためられた土の道、歩き慣れた道である。
周生は足元に視線を落としながらも、なにを見るでもない。ただただ、思案をめぐらせた。
司馬懿を門下生とするつもりはない。孔明はそういったが、その姿勢はいつまでつづくだろうか。司馬懿は郡をまたいで熱心に通いつめている。いずれは絆されてしまうのではないか……。
父の金と力を笠に着て、門下生たちをまとめてきた周生だが、司馬懿が加われば、その力関係は一変する。家柄と才能を兼ねそなえた司馬懿は、たちまち門下生たちの中心となるだろう。
この地を訪れる名士の目にも、司馬懿ばかりが映るようになる。周生の存在など、目に入らなくなってしまう。
では、司馬懿と仲良くすればよいのだろうか。
孔明にあれほど高く評価されている人物だ。とんとん拍子に出世していくにちがいない。
「出世した司馬懿に取り立てられる形で、官吏をめざすか……」
それで官吏になれるというのなら、周生はいくらでも頭を下げるつもりだった。
世の中は、支配するか、されるかだ。
支配する側に立たなければならない。
なんとしても、官吏にならなければならないのだ。
「いや……無理だ。上手くいくはずがない……」
討論の際に司馬懿が浮かべた表情を思い出して、周生は唇をかみしめた。
今にして思えば、論戦をいどんだのは、あまりに悪手であった。
相手は若年、名家の者に才を誇示する好機だと思ってしまったのだ。
返ってきたのは、虫けらを見るようなまなざしと、口の端に浮かんだ冷笑だった。
今さら頭を下げたところで、あのような冷たい目をした男が周生を認めるとは、とうてい思えなかった。
司馬懿が門下生になったとき、周生の未来は閉ざされる。
「……手遅れになる前に、なんとかしなければ……」
*****
さて、司馬懿対策です。
おそらく、こうして書斎にひとりでいれば、そのうち司馬懿がやってきて、門下生にしてほしいと願い出てくることでしょう。
ふっふっふ、読めている。読めているぞ、司馬懿よ。
お断りしたい、でも嫌われたくない。
そんな気持ちは曹操のときと同じだが、状況は決定的に異なる。
そう。
司馬懿より、私のほうが、ずっとえらい!
私はトップクラスの名士で、司馬懿は有望な若者にすぎない。現時点では。
それに儒教を国教とする後漢において、長幼の序は無視できるものではない。
私三十六歳、司馬懿十九歳。ほぼダブルスコア。
つまり、私のほうがえらい(二回目)!
交渉とは、立場が上のほうが圧倒的に有利なものです。
冷静になって考えれば、断るだけならむずかしいことではありません。
あとは、恨まれないような断りかたをすればよし!
というわけで、「ああ、私には君のような大器は育てられないのだ」といった姿勢をつらぬこうと思います。
ほめて、ほめて、ほめ殺してくれるわッ!
司馬懿の能力を知る私にとっては、造作もないことよ。
まさに完璧な作戦。
そうとも知らずに、司馬懿はのこのこ姿をあらわした。そして、ニコリと笑い、
「孔明先生の門下に入る儀、父から許しを得てまいりました」
お父君ーーーーッ!? と以前の私なら、取り乱していたことでしょう。
思い返せば、司馬懿の名に怯えたり、門下生になりたいといわれてパニクったり。動転してばかりだった。
が、今回はちがう!
「そうか、お父君が許されたか……」
私は落ち着いた口調でいい、首を横に振る。
「いやしかし、おぬしに今さら師が必要とは思えぬ。教えることもないのに師を名乗るなど、厚かましいにもほどがある。そのような恥ずかしい真似、やはり私にはできぬ」
「いえ、先生。私はこれでも、多くの名士と会ってきたつもりです。そのうえで、先生を師とあおぐと決めたのです。孔明先生だからこそ、父も門下に入るのを許したのです」
「……そういえば、おぬしは以前、陸渾をすばらしいといっていたな」
「はい」
「この地にきて、私も常々そう感じておる。……だが、ひとたび敵襲があれば、それらはすべてうしなわれ、人々は塗炭の苦しみにあえぐこととなろう」
「…………」
沈黙する司馬懿。私は悲しげにため息をつく。
「もし、私にそれを防ぐだけの才があれば……。兵を率いて、民を守るだけの将才があったのならば、私は隠士とならずに、出仕していたであろう」
「…………」
「私にはなかったその才を、おぬしはもっている。私はそう確信している」
知ってるし。
ここで、考えに考え抜いたとっておきのセリフを使う。
「鸞鳳の雛を、いたずらに燕雀の家で遊ばせる。どうして、そのようなことができようか」
私は雀にすぎない。鳳雛を育てあげることなどできないのである。
司馬懿は力なくうなだれた。
「……私のような若輩者をそこまで評価していただき、ありがとう存じます……」
その声は落胆を隠しきれず、わずかに揺れていた。
司馬懿は肩を落として退室する。気落ちした姿を見て、少しばかり申し訳ないなとも思う。けれど、これでいいはずだ。司馬懿が師事したい「孔明先生」は、前世の知識によって水増しされた虚像なのだから。
こうして、私は、あの司馬懿を完封するという快挙をなしとげた。
不安が解消されたからか、その夜は、ぐっすり眠ることができた。
そんな私をあざ笑うように。
翌日の早朝。ひとりの門下生が血相を変えて、私の屋敷に飛びこんできたのだった。




