第六九話 郭嘉と郭図の生還
若かりし日、華佗は官吏になるか医師になるかで悩み、医学を志した。
長い研鑽のすえ、典医となり、医師として望みうるものはすべて手に入れた。
しかし、頂点に立って、立ったからこそ、痛感させられる。
彼が登ってきた山は、その頂は、
道のりの険しさに比べて、あまりにも低かったのだ。
官吏となって出世した、同期の友人にいわれたことがある。
「おまえは優秀だったから、官吏になってたら、もっと評価されていただろうに」
よけいなお世話というものだが、その言葉は華佗の心の弱い部分に刺さった。
指摘されるまでもない。
医師という職業の限界を感じるたびに考えさせられる。
あのとき官吏の道を選んでいたら、と。
医術は人を救える。自分が歩んできた道のりには価値がある。
そう信じていても、どうあがいても、後悔の念は胸の奥底でくすぶりつづけた。
だがこの瞬間、その鬱積した思いから、長年の懊悩から。
ついに、
とうとう、
ようやく、華佗は解放されたのだ。
もし官吏の道を歩んでいたとしても、これほどの賞賛と敬意を一身に浴びる日は、訪れなかったにちがいない。
彼は医師への偏見に打ち克つと同時に、ありえたかもしれない官吏の自分にも勝利したのである。
望みはなにかという曹操の問いかけにも、晴ればれとした気持ちで返答する。
「てまえは医師としての務めを果たしただけでございます。褒美を求めての行為ではございませぬ」
「ははは。なんと欲のない男だ。宮中から去ったのもうなずける。それでは、これはどうだ」
曹操が視線をやると、役人たちが百金を捧げもって進みでた。
華佗は礼を失しないように、うやうやしく固辞する。
「上医は国を医すともうします。てまえは、ただただ天下の義兵を医すために来たのでございます。金銭を受けとるわけにはいきませぬ」
せっかく用意した褒賞金を拒んだのだ。曹操は不快に思うかもしれない。
華佗は緊張に身をかたくしたが、その心配は無用だった。
自身の遠征を天下の義兵といわれれば、曹操も悪い気はしない。
なにより、この場はあくまで華佗の功績を称えるためにひらかれたのだ。
些細なことで不快な顔をしていては、曹操のほうが天下人としての度量を問われるであろう。
こうして謁見を終えて広間を退出すると、華佗は多くの声にかこまれた。
「華佗どの。貴殿のおかげで、わが隊の兵も救われた。感謝をいいあらわすには、どれほど言葉を尽くしても足りぬ」
「私の息子は秘書省で勤めておるのですが、華佗どのの青嚢書を絶賛しておりましたぞ」
「褒賞金も断るとは。いやはや、なんと無欲な御仁であろうか」
耳に心地よい、甘美な声ばかりだったが、しょせんは主君に追従しているだけであろう。曹操が華佗を批判すれば、彼らの態度も豹変するにちがいないのだ。
華佗としては流される気分ではなかった。
驕らぬよう、にこやかに応じながらも、皮肉っぽく自己分析する。
誰が無欲なものか。
栄誉と名声、欲してやまなかったものは、すでに手中にある。
その価値をさらに高めるために、自分は清貧な人格者を装ったにすぎないのだ、と。
師の帰りを待っていた呉普・樊阿と合流して、華佗は内城を辞した。
鄴の街中を歩み、謁見の場であったことを話す。
すると、弟子たちは奇妙な顔をした。
「先生、どうして褒賞金を受けとらなかったのですか?」
樊阿が疑問を口にした。率直な弟子である。
「ふむ……」
どう説明すべきだろうか。華佗は思案した。
彼は官職にも金にも執着していない。
医師が就ける官職では満たされないから栄誉を求めたのだし、金にしても困っていなかった。
うなるような大金があったところで、老い先短い身である。
あの世へ持っていけぬ以上、さして惹かれるものではなかった。
しかし、それは華佗個人の心情にすぎない。
弟子たちの疑問には、医道の先達としてむきあうべきであろう。
「今回の遠征で、私はようやく上医の域に足を踏み入れたように思う」
「なにをおっしゃるのですか? 先生が上医でないとしたら、誰が上医だというのです」
と樊阿は目を見ひらいておどろいた。
もっともな意見だが、今回の遠征によってようやく実感できたものが、華佗にはあった。
「国を治める、病人を治療する。同じ『治める』という文字を使うのは、滞った気の流れを正すという意味合いで、しばしば同種の行為とされてきたからだ」
「私はその考え方に納得いきません。だって、やってることはまったくちがうじゃないですか」
呉普は不服そうに声をとがらせた。正直な弟子である。
「春秋外伝にある『上医は国を医す』という言葉もきらいです。たしかに正しい政は、多くの民を救うでしょう。すぐれた為政者は、すぐれた医師より大勢の人々を救えるのかもしれません。……けれど、それは為政者の仕事であって、医師の仕事ではありません。病人や怪我人を救うのは、結局のところ、医師ではありませんか」
「私も呉普と同じ思いです。官吏が医師を蔑むのも、政にたずさわる者はすべからく上医とみなされるべきだ、などという歪んだ思いがあるからでしょう……。ですが、官吏が大勢の人々を救いうるとしても、それは巨大な組織を介してのこと。ならば戦を起こしたとき、彼らは殺人の罪に問われるのでしょうか? 天子や宰相の治療にあたった医師は、天下を救ったことになるのでしょうか? ……役割も立場もちがうのに、優劣を決めつけられるのは、医師にとって迷惑な話です」
「私もそう思っておった。だがのう、この幽州遠征でいままでにないほど多くの将兵を救えたのは、私たちが大局にもとづいて行動したからであろう」
「…………」
弟子たちの顔から不満げな色がかき消えた。師の言葉をひとことも聞き漏らすまいと、集中しているのだ。
「もし宮仕えをやめていなければ、私は許都で座しているだけだったろう。あるいは軍医として従軍していたとしても、患者を看取ることしかできなかったはずだ。上に命じられて用意した薬だけでは、とてもではないが量が足りなかった。……胡昭どのの判断にもとづき、幽州で発生するであろう風土病を調べ、その病に効く薬を事前に集めておいたからこそ、多くの将兵を救えたのだ」
「…………」
「天下の中心で学べる医術に関して、私はすべてをおぬしらに教えたつもりだ。だが、技術と知識だけでは、上医とはいえぬ」
座していては救えない。
命じられるままでは足りない。
みずから判断し行動できるようになって、はじめて上医への扉はひらかれる。
華佗にしても、この老齢であらためて学んだのだ。
たやすいことではないだろう。
しかし、弟子たちの目には決意が宿っているように、華佗の目には映った。
巣立ちの日は近い。
呉普も樊阿も、すでに立派な医師である。
旅に出て経験を積めば、医師の頂点に立つ日がくるかもしれぬ。
そのとき、彼らも職業の限界に直面するのだろうか。
たとえそうであったとしても、華佗が切りひらいた道は、彼らの前途をわずかなりとも導くはずであった。
そう、華佗は個人として宿願を果たし、医道を歩む者として後進に道を切りひらいた。
ここに、彼の人生は結実したのである。
*****
年の瀬が近づき、ふと一年を振り返ってみるのは、別にめずらしいことでもないだろう。
この一年は、じつに平和でおだやかな一年だった。
少なくとも、陸渾近辺では。
私にとってはそれで十分だけど、あくまで狭い範囲での平和にすぎない。
ちょっと天下を俯瞰してみれば、当然のように各地で紛争はつづいていた。
まあ、乱世なので。やむをえなし、いたしかたなし。
世はすべてことばかり。
自分に火の粉が降りかかるのでなければ、いちいち気にしていられるかと思う。
そんな私でも、ずっと気がかりだったことはある。
曹操の幽州遠征――郭嘉と郭図は死すべき運命を乗り越えて、生き残れるのだろうか。
その気がかりを払拭してくれたのは、二通の手紙だった。
一通目は柳城の郭嘉から。郭図が生きているという報告である。
二通目は鄴に帰還したこれまた郭嘉から。あやうく風土病にやられて死ぬところだったという連絡である。もちろん、生きているから手紙を書けるわけで。華佗のおかげで助かった、と名医を派遣した私への礼も書かれていた。
曹操の河北平定戦は、私にとって申し分のない結末だったといえるだろう。
これでスッキリした気分で年末を迎えられる。
いざ年越しの大宴会。
その前に準備をしなきゃいけないので、私は酒屋へと足をはこんだ。
「いらっしゃい、孔明先生」
「年越しの手配を頼みたいのだが」
「それなら、こちらからうかがいましたのに。……例年どおりでよろしいですか?」
酒屋の主人の確認に、私はうなずく。
「毎度ありがとうございます。……ところでその件につきまして、耳寄りな話がありましてね……。へっへっへ」
酒屋の主人は、唇を三日月の形にして笑った。
とてつもなくうさんくさい笑顔である。
まるで詐欺師みたいな。いや、詐欺師ほど人当たりのいい人間はいないだろうから、詐欺師とは正反対の、いかにもあくどいことを企てていそうな笑顔であった。
「じつは例のブツを仕入れたんですよ」
「ほう、例のブツを」
「どうでしょう? ご所望でしたら、こっそりおとどけすることもできますが……」
「ほほう、よいではないか……。それでは誰にも知られぬようにな。ふふふ……」
なんだか悪代官と越後屋のノリだが、ふざけてるだけで、けっして悪事を働いているわけではない。
例のブツとか思わせぶりにいってるけど、なんてことはない、葡萄酒のことだ。
「へっへっへ、宴会の目玉にはピッタリでしょうよ」
と主人がいうように、この時代の葡萄酒はとてもお高い希少品であらせられる。
葡萄酒さまが登場すれば、宴会もさぞや盛りあがるであろう。
正直、ただの葡萄酒をそこまでありがたがるのは、「なんだかなあ」と思うし、散財してるような気がして抵抗を感じてしまう。
けれど、どうせ金を使わずにためこんだところで、いざというときに金が頼りになるならともかく、暴力で根こそぎ奪われかねない時代なのだ。
だったら、けちと思われるより、太っ腹な行動をとっておいたほうがいい。
贅沢だと批判する人もいるかもしれないが、あえていわせてもらおう。
贅沢は素敵だ!
誰からも搾取せず、みんなと分かちあうのであれば、誰にもはばかることなんてないのであるッ!
まあ、華美な方面に興味の薄い私の贅沢なんて、たかがしれているのだが。
用事を済ませて、酒屋を出る。
市にはそこそこ人影があった。
陸渾は田舎だけれど、のぼり調子の街だから、年々、人も物も増えている。
そうでなければ葡萄酒なんて手に入らなかっただろう。
さびれてこそいないが、にぎわっているとも形容しがたい。
そんな通りを、城門のほうから、駄馬をひいた見慣れぬ男が歩いてきた。
男は私を見て、おどろいたような顔をして立ちどまる。
自然、私も男の顔を確認する。まじまじと。
その男は、郭公則――郭図に、とてもよく似ているような気がした。
生まれたときから眉を立てていそうな厳めしい顔には、寄る年波のために深いしわがきざみこまれている。
髪も髭も、だいぶ白いものが多くなっていて。
郭図が歳をかさねれば、ちょうどこんな感じだろうか。
男はどことなく気まずそうに、小さく、本当に小さく笑った。
「……孔明どの。恥ずかしながら、生きて戻りました」
「おかえり、公則」
これにて河北争乱編は終了となります。




