第六七話 柳城陥落
袁家の守護者として立ちはだかる郭図を見やり、曹純はまばたきすると、郭嘉に問いかけた。
「郭嘉どの。わが隊の準備はととのっているが、まずは投降を呼びかけてみようか?」
曹純、あざなは子和。
郭嘉と同年代で、曹操の従弟である。
まじめな性格ゆえに、少年期に父が亡くなると、兄の曹仁に代わって家財をよくとりしきった。
そのころ曹仁は数百人の若者を集めて暴れまわっていたというのだから、えらいちがいである。
気性面では不良だった兄や従兄と似ても似つかなかったが、才能面では同質のものがあったらしい。
武勲をかさねて、いまでは曹操の親衛隊である虎豹騎のうち、千騎をまかされていた。
肩をすくめて、郭嘉は答える。
「いや、公則さんはどうせ投降なんてしないでしょうから、さっさと捕まえちゃいましょう」
郭嘉は郭図のように槍をかまえてはおらず、両手で手綱をしっかりにぎっている。
武器をふるったところで兵士ひとり分の働きにもならないであろうし、そのような状況になるのなら、全力で逃げるべきなのだ。彼は、自分の武勇にはかけらも幻想を抱いていなかった。
「……ところで、アレはどれほどのものなのか?」
曹純のあいまいな質問の理由を察して、郭嘉は苦笑した。
アレとは、むろん郭図のことである。ああも自信満々でいられると、武勇にも長じているのではないかと勘ぐりたくもなろう。
だが曹純にも誇りがある。剛勇と名高い敵将ならともかく、郭図を警戒しているとは思われたくないから、あいまいな言葉づかいになってしまったのだ。
「昔から、鍛錬が趣味みたいな人でしたからねえ。まあ、什長程度の技量と見ておけば、問題ないっす。もう五十歳を過ぎてますし」
手綱から両手をはなせるだけでもたいしたものだが、郭図はあくまで文人である。敵の血を浴びながら戦場を渡り歩いてきた武人ではなかった。
安堵を隠すように、曹純は平静な声で、
「什長か」
「ええ。手はずどおりに、頼むっす」
「抜かりはない。まかせてもらおう」
馬腹を蹴って郭図に接近しつつ、曹純は叫んだ。
「われこそは曹純、あざなは子和! そこな敵将、郭図と見うけるが、相違ないな!」
「なにッ、曹操の一族の者か! 相手にとって不足はないですぞッ!」
うおおおおっ、と郭図は両眼に力をみなぎらせ、敵将を迎え討たんと前に出る。
一騎打ちがはじまるかに思われたが、曹純にその気はなかった。
「ううむ、期待にそえなくて申し訳ない。あいにくと武を競うつもりはないのだ」
曹純の背後からあらわれた二騎の虎豹騎が、指揮官の左右を併走する。
彼らは、通常よりも長い戟をかまえていた。
「おのれっ!? 三対一とは卑怯なりッ!」
どう戦えばよいのか。まごつく郭図めがけて、曹純が槍をふりおろす。
大振りな攻撃を、郭図は槍を上段にかまえて受けとめた。
が、槍を交えることができたのは、わずか一合のみであった。
ほぼ同時に、曹純の右側を併走していた虎豹騎が、郭図をはさみこんで、駆けぬけざまに戟を突きだしたのだ。曹純とは反対側からの攻撃に、郭図は対処のしようがなかった。
郭図の乗馬がどうと倒れ、土煙が舞いあがる。
曹純たちの狙いは、馬であった。
低く突きだされた戟に、郭図の乗馬は後ろ脚を折られたのである。
地に転落した衝撃で、郭図は身動きがとれずにいる。
すかさず別の虎豹騎が近寄ってきて、網を宙に投じた。
こちらの狙いも、おそろしいほど正確だった。
投網に全身をからめとられ、郭図が憤慨の叫び声をあげる。
「ぬおおおおおっ!? ちょこざいなあああッ!」
文句をつけようが、腹を立てようが、それこそ敗者の弁であった。
部下のあざやかな手際に曹純が満足していると、郭嘉が馬を寄せてくる。
そして、あおむけに倒れ、網にからめとられている郭図に、緊張感のない声をかける。
「公則さん、おひさしぶりっす」
「むむむっ、奉孝どの……」
「勝負ありってことで、おとなしく捕虜になってもらいましょうか」
「それがしを生かしておいても、曹操に得はありませぬぞッ! 主君のためを思うなら、即刻、この首をはねられよッ!」
郭図を捕虜にしたところで、曹操に仕えることはなかろう。
かてて加えて、捕虜返還を条件に取引しようにも、いまの袁譚が差し出せるものはなにもない。
郭図のいわんとするところを、いわれるまでもなく郭嘉は理解していたが、そのようなことはどうでもよかった。
なにも、利害によって助命しようとしているわけではないのである。
「袁譚はまだ生きているんでしょう? 主君を残して死に急ぐのが、本当の忠義だといえるんですかね。それに……」
郭嘉は、袁譚軍のしんがり部隊を見やった。
もともと数が少ないうえに、指揮官の郭図を失ったのだ。
もはや、ろくに抵抗もできずに、皆殺しにされるのを待つばかりである。
死地に残った時点で、彼らも死は覚悟していよう。
とはいえ、ときを稼ぐという点においても、抵抗できずに殺されるのと捕虜になるのとでは、どちらがよいともいえなかった。
無駄死にである。見殺しにしていい道理はないはずだった。
郭図はくやしそうに、ぐぬぬ、とうなった。
「……わかりもうした。それがしの身は、奉孝どのにあずけもうす」
返答を聞いて、曹純は攻撃をひかえるよう指示するのだった。
蹋頓を討ちとり、敵の主力を潰走させた曹操軍は、大勝の勢いそのままに柳城に攻めこんだ。
一方、烏丸軍は敗戦の影響から抜けだせなかった。
強力な指導者の死が混迷をもたらすのは、なにも袁家にかぎった話ではない。
蹋頓は、烏丸族にとって替えがきかない存在だったのである。
徹底抗戦か、それとも降伏か。
抗戦するにしても、誰の命令を優先すべきなのか。
単于の楼班はまだ若く、いささか頼りない。
実戦経験の豊富な大人たちの判断に従ったほうがいいのではないか。
意思の統一を欠いた烏丸軍を、攻城戦の名手である曹操が攻めたてたのだ。
わずか一昼夜の攻防で柳城は陥落し、袁譚・楼班たちは遼東へと落ちのびていった。
こうして柳城の住民たちをとりまく環境は一変した。
漢人はある程度好意的に、烏丸族は息をひそめるように、あらたな支配者を受けいれている。
白狼山での大敗と柳城のあっけない陥落は、烏丸族の反抗心をへし折るには充分であったらしく、暴動の兆候は見られない。そもそも暴動を起こすような人物は、楼班のお供をして逃亡したようであった。
烏丸の本拠地はおさえた。
あとは袁譚を討つのみである。
ところが曹操は、「袁譚軍を追撃せよ」との命令を下さなかった。
あれほど積極的に遠征を推しすすめた曹操が、一転して動こうとしないのはどうしたことか。多くの将が、主君の真意をはかりかねた。まさか、柳城を占領しただけで満足してしまったわけではないだろうが。
諸将の気持ちを代弁するように、張郃が具申した。
「遼東郡に逃げこんだ袁譚の討伐。ぜひ私に先駆けをご命じください」
張郃は袁紹に仕えていた降将である。
袁家との戦いにおいて、曹操は積極的に降将を起用していた。
もとの主家と戦うことで曹操への忠義をしめせ、という意図だったが、その要求に応えて、もっとも多くの武功を献じたのが張郃だった。
「ふむ……」
曹操は諸将の顔を眺めやった。
張郃に先を越されたと悔しがる者、自分に命じてほしいと期待する者、それぞれ心情は異なるだろうが、どの顔にも現状に対するわだかまりが浮かんでいる。
説明する必要を、曹操は感じとった。
「張郃、おまえは遼東郡の太守・公孫康をどう見ている?」
「遼東国の王を自称する不逞な輩です。しかし、一郡の太守にとどまらぬ軍事力を有しているのも事実。この機会にたたいておくべき相手かと」
「では、公孫康の父・公孫度はどうだったろうか?」
「公孫度、でございますか」
張郃は目を丸くした。
「公孫度という男は、かつて海を越えて青州を侵犯した。漢朝の混乱に乗じようとしたのだろうが、余が考えるに、海を越えるのは愚策であった」
「はっ。略奪を目的としたのであればともかく、領土拡張の策としては無謀であったように思います」
「そのとおりだ。海でへだてられた飛び地など維持できるものではない。だが、公孫度は海路を使わざるをえなかった。陸路を使えなかったからだ。烏丸領を越えて、西進することができなかったのだ」
遼東国の王を名乗ったのは、公孫度がはじめである。
やり手だったのだろう。が、その公孫度にしても、遼西郡の烏丸族を追い出すことも、服従させることもかなわなかった。そこに遼東国とやらの限界がある。
「わが軍は柳城を占領して、烏丸族を臣従させたのだ。公孫康が父と同様の野心を抱いたとしても、この地でふせげばよい。荒らされるのが遼西郡までなら、たいして痛くはない」
今回の柳城遠征で、曹操軍は距離にさんざん苦しめられた。
これからはその距離が、公孫康の侵犯に対する防壁となろう。
「ですが、それでは袁譚を見逃すことに……」
張郃が憂慮をこめて眉をひそめた。
「ふふふ、心配あるまい。河北に攻め入ることのできぬ公孫康にとって、袁譚はなんの価値もない、ただの厄介者であろうよ」
小さく笑った曹操の双眸を、一瞬、辛辣な光がはしりぬけた。
柳城が陥落し、軟禁状態におかれているとあって、さしもの郭図も意気消沈しているように見うけられた。
監視する兵士たちからしてみれば、捕虜の脱走や自死を警戒しなければならないのだから、暴れずにおとなしくしてくれる分にはありがたい。
毎日、曹操軍を呪うかのような奇怪な動きをしているのが不気味だが、些細なことであろう。
その奇怪な動きは、現代でいうところのスクワットと酷似していた。
二十年ほど前に孔明から教えられた、下半身を鍛える体操だった。
軟禁生活で脾肉がたるんでいては、いざ脱走する機会がめぐってきても逃げきれまい。
状況が詰んでいるように思われても、郭図はあきらめていなかったのである。
神妙にふるまいながらも、彼は警備の穴を探っていた。
その顔がさっと青ざめたのは、監視兵たちの会話にそばだてていた耳が、不穏な言葉を拾ったからであった。
「お、お待ちくだされ! いま、なんとおっしゃったか!」
詰めよられた監視兵たちは、しまった、とばかりに顔を見あわせた。
どうも、口止めでもされているようなそぶりである。
郭図は心臓がとまる思いだった。
いま、彼らはこういったのではなかったか?
「袁譚と袁煕が死んだ」
「これでようやく帰れるな」
胸中で、黒い影が雷雲のようにふくれあがる。
問いただそうとするも、口を閉ざした兵士たちでは埒があかなかった。
「ほ、奉孝どの、奉孝どのを呼んでくだされッ!」
しばらくしてやってきた郭嘉の顔には、いくばくか気づかわしげな色が浮かんでいた。
その表情が答えであった。
聞きまちがいであることを祈っていた郭図は、望みが絶たれたことを悟った。
「公孫康が袁譚と袁煕を処刑して、首を送ってきたっす」
兵士たちに距離をとらせてから、郭嘉は説明する。
遼東郡に落ちのびた袁譚と楼班は、公孫康へ共闘を呼びかけた。
天子に背くつもりのない公孫康はこれを討とうと考えたが、袁譚たちにはまだ五千を超える兵がつきしたがっていた。馬鹿正直に戦えば、公孫康側にも少なからず損害が出てしまうだろう。
そこで彼は一計を案じた。
共闘を歓迎したのである。
そして、兵を伏せておき、叛徒の指導者たちを招いた。
袁譚・袁煕・楼班らは、自分の軍勢とはなれたところを伏兵に捕えられ、ただちに処刑されたのであった。
公孫康の書状に書かれていたことであるから、公孫康自身の心情を述べた部分は信じるに値しないが、袁譚たちの最期に関しては正確とみてよかった。
郭図は、はらはらと涙を流してうなだれた。
「……お、おお……、なんという……。袁譚さまと袁煕さまのご無念、いかばかりであったことでしょうか……」
「公孫康が敵にまわる可能性は、公則さんも想定していたんじゃないっすか?」
「……もし公孫康が協力を拒むようなら、袁譚さまは遼東を奪いとるつもりでございました」
嗚咽をもらしながら、郭図は答えた。
思えば、袁紹もそうだった。
韓馥から冀州を奪いとったことで、地盤を手に入れたのだ。
だが公孫康は、韓馥のような甘い相手ではなかったのだろう。
「それがしは不忠者でございます……。このような最期をむかえるのであれば、袁譚さまの望みどおり、白狼山で果てるべきだったのでしょう……」
戦場で散るつもりだった主君に、いらぬ辱めを味わわせてしまった。
不忠不才のわが身を、郭図は恨んだ。
せめても、と思った。覚悟はとうに決めている。
ズズッ、と鼻をすすり、涙を袖でぬぐう。
「奉孝どの、いろいろお世話になりもうした――」
「袁譚に殉じるつもりなんでしょうけど、そういうわけにもいかないんすよ」
決意をはばむようにいうと、郭嘉はなにごとかをささやいた。
目を赤く腫らした郭図は、最初、いぶかしげな表情を浮かべていた。
つぎに、感情を昂ぶらせて、反論したようだった。
それでも郭嘉が言葉をかさねると、やがて郭図は首をふりながらも、納得の色を見せはじめる。
そしてついに、しぶしぶながらも、なにかを了承するようにうなずいた。
その様子を遠巻きに眺めていた兵士たちは、郭嘉が捕虜の説得に成功したのだと思った。曹操に仕えるよう説いて、郭図がそれを受けいれたのだ、と。
もちろん、そんなことは天と地が逆さになろうとありえない。
このとき交わされた会話の内容は、曹操にも袁家にも関係がなかった。
潁川郭氏についてですらない、ごくごく私的な会話であり、依頼であった。
いずれにしても、この依頼によって、郭図は自死を断念し、あらたな人生を歩むことになるのである――。
郭嘉はさっそく、郭図の命をつなぎとめることに成功した旨を、手紙にしたためた。
その朗報は駅馬を継ぎ、じつに十六日かけて、孔明のもとにとどけられるのであった。




