第六六話 白狼山の戦い
司馬懿いわく。
「柳城へ逃げこんで烏丸の庇護下に入ることは、烏丸に対しても曹操に対しても、主導権を手放すに等しい。たとえ不利とわかっていても、袁紹なら自領を捨てずに、自分が総大将となって、生きるか死ぬかの決戦を挑んでいたはずです」
「うむ。気位の高い袁紹が異民族の庇護下に入るとは、とうてい思えぬな」
異民族に協力を要請するにしても、その下につくことはなかったように思う。
「はい。袁譚に名門の誇りがないとまではいいませぬが、彼は異郷に逃げた。なぜ逃げたのか。袁紹にはない武器が、袁譚にはあるからです」
「袁紹にはない武器?」
「彼には、『待つ』という選択肢があります」
「……若さ、か」
待つ。
曹操より年上で、病におかされていた袁紹には、選びようがない選択肢だ。
「年齢という一点において、袁譚は曹操にまさっています。極端な話、曹操が没してから、烏丸軍とともに動いたとしてもおそくはない」
「ふむ……」
曹操が柳城へ攻めこんできたら、もっとも有利な形で戦える。
攻めてこなかったとしても、さきに亡くなるのは曹操だ。
距離と時間。
ここにいたってふたつの意味で、袁譚は袁紹よりも厄介な敵になっていたのだ。
となると、柳城遠征の意義も少し変わってくる。
とてつもない負担のわりに利益が小さいように思えたが、曹操にとっては、袁譚の「待つ」という選択肢をつぶす意味合いもあったのだろう。
「まともに戦っても勝ち目がないなかで、唯一残された勝ちうる選択肢を、袁譚はとったように思えます。戦略的に正しい行動をしていれば、えてして幸運も転がりこんでくるものです……」
司馬懿の懸念は正しいと思った。
けれど、同意するだけではよろしくない。
ほかの視点から切りこんでみなけりゃいけないときが、私にはある。
こういう結果を知っている歴史イベントがらみのときにこそ、それっぽいことをいって、師としての威厳を貯蓄しておかねばならんのですッ!
「仲達は知っているだろうか? 二十年ほど前、元中山太守の張純が、烏丸族の大人・丘力居と組んで反乱を起こした」
「はっ、存じております。公孫瓚に敗れた張純は鮮卑の地に落ちのび、そこで部下にそむかれ落命した、と」
「うむ。朝廷の命をうけた公孫瓚は、張純・丘力居軍を相手に大勝して、拉致されていた多くの漢人を救出した。しかし、丘力居の反撃にあって、烏丸を平定するにはいたらなかった……。ここで注目すべきは、烏丸にも公孫瓚を倒す力はなかったということだ。公孫瓚は烏丸と、鮮卑と、袁紹と戦いつづけた。最終的に、袁紹は烏丸・鮮卑と合力して、ようやく公孫瓚をほろぼしたのだ」
「なるほど……。烏丸の兵力がわからずとも、公孫瓚との戦歴から類推すれば、おおよその見当はつきます……」
得心したというふうに、司馬懿は二度うなずいた。
柳城遠征の最大の障壁は距離である。
が、不安要素はそれだけではない。
郭嘉の手紙には、敵戦力の予測を立てられないことが懸念材料だ、と書いてあった。
司馬懿がひっかかっているのもおおかたそんなところだろう、と私は考えたのだが、反応を見るにどうやら正解だったようだ。
本来、軍事力は戸数をベースに割りだすものである。
AはBより強い。BとCは同等。だからAはCより強い。
そんな乱暴な計算をするものではない。
けれど、どうせ正確な情報は手に入らないし、この際、不正確でもよかった。
いいかげんだろうと、私が曹操の勝利を確信している論拠になりさえすればよい。
というのも、この遠征が成功することを、私は知っている。
知っているだけなのだ。
現状を分析して、予測しているわけではない。
だから……、
さも予測しているかのように、見せかけねばならないのであるッ!
「曹操軍は公孫瓚軍よりはるかに強大なのだ。しかも、鮮卑は曹操に恭順の意を示している。こたびの遠征は成功のうちに終わるであろう」
太鼓判を押しながら、ふと思う。
……絶対に成功すると、いいきっていいものだろうか?
前世の歴史と現状とは、まったくのイコールではない。
たとえば烏丸に落ちのびるのは、袁尚と袁煕だったはず。
それが袁譚と袁煕に変わっている。
そうした変化によって勝敗がくつがえる可能性だって、かぎりなくゼロに近いような気もするが、ゼロではないのかもしれなかった。
*****
「申しあげます! 烏丸軍がこちらにせまっております! 大軍です!」
曹操の乗馬の前にひざをつき、斥候が報告した。
「大軍では数がわからぬではないか!」
との叱責を、曹操はしなかった。叱りつけたところで無益であったし、わからないことから、わかることもある。
敵軍の規模を把握する余裕が、この斥候にはなかったのだ。
急いでもどらなければ、敵に捕まりかねなかったのだ。
それほどまでに、烏丸軍の行軍速度がすさまじかったのであろう。
「さて、どうしたものか」
曹操はあごひげをつまみ、思案した。
いまだ曹操軍の大半は、険しい山道を行軍中である。
間道を脱した兵士、戦力として数えることのできる兵士は、全軍の一割にも満たない。
しかし、その一割に満たない部隊のなかに、曹操自身がいるのはけっして偶然ではなかった。
総大将がいるべき中軍の指揮を荀攸・徐晃らにあずけて、曹操が前軍にうつっていたのは、このような事態の急変にそなえるためであった。
馬を寄せて、郭嘉が進言する。
「ときが経つにつれ、こちらの兵力は増えていく。敵がそれを理解しているのなら、一気に攻勢をかけてくるはずっす」
「うむ。とりあえずは、動かせる兵のみでしのがねばなるまい」
こちらはわずかな兵力、敵は烏丸突騎として名を轟かせる騎馬民族である。
平地での戦いはさけたほうがよい。
しばし考えてから、曹操のきびしい視線が、ある一点にとまった。
「あの山はなんという?」
「白狼山といいます」
田疇が短く返答した。その声に緊張があるのは、自分が道案内を買ってでた結果、不利な状況で戦がはじまろうとしているからであろうか。
曹操は剣を抜いた。
鞘走りの音をたてたのは、おのれの一挙手一投足に周囲の注目が集まっているからである。将兵を鼓舞するためには、ときにわざとらしい挙動も必要になる。
剣先で白狼山を指して、曹操は高らかに号令をかけた。
「これよりわが軍は、高所に布陣して烏丸軍を迎え撃つ! 白狼山をのぼれっ!」
天下の過半を手にしておきながら、異郷に屍をさらす。
そのような無様な最期を遂げるつもりは、むろん曹操にはなかった。
間一髪だった、というべきであろう。
戦がはじまる直前に、曹操軍は白狼山に布陣することに成功した。
曹操たちのいる場所からは、せまりくる烏丸軍の全容が見下ろせる。
さすがに騎馬民族だけあって、疾風迅雷と形容するにふさわしい、おどろくべき速度である。
だが、巻きあがる砂塵の先頭に蹋頓の旗印を見つけ、曹操は冷徹に断じた。
「拙速である」
蹋頓はというと、敵の総大将にひとことで切って捨てられたことなど知るよしもない。
彼は勝負を急いでいた。
持久戦になれば、曹操軍の兵力がふくれあがるのは目に見えている。
敵の後続部隊が間道に取り残されている、いまこそ好機である。
乗馬をあおって、声を張りあげる。
「進めッ! 敵の数は少ないぞッ!」
陣立てを見たところ、曹操軍はせいぜい一万ほどであろう。
対して、烏丸軍は客将の袁譚軍を合わせて三万である。
高みを攻める不利はあれど、三倍の兵力があれば蹂躙できるはずだった。
喊声を空にひびかせ、烏丸軍は斜面を駆けあがる。
その気勢にたじろいだのか、曹操軍の反応はひどく緩慢であるように思われた。
敵はひるんでいる。戦場の熱狂につきうごかされ、烏丸軍はさらに勢いづいた。
だが、いかに馬術に長けていようと、彼らは斜面を駆けあがっているのだ。
平地を駆けるごとく、とはいかない。馬の足は重くなり、隊列が崩れはじめる。
蹋頓が部下を叱咤激励しようと口をひらきかけたそのとき、彼の背骨を怖気がはいあがった。全身が総毛立つような、戦場独特の感覚だった。
つぎの瞬間、それまで沈黙していた曹操軍がうごめいた。
矢羽根が風を切る音とともに、空がかげり、矢の雨が烏丸軍に降りそそいだ。
曹操軍はひるんでいたのではなかった。敵をひきつけていたのである。
「どうっ、どうっ」
暴れる乗馬を、烏丸軍はけんめいに馭そうとする。
馬がいななき、兵士の怒号と悲鳴がいりまじる。
前進の勢いが完全に削がれたところへ、さらに無数の矢が降りそそぐ。
槍で矢を払いながら、蹋頓はうめいた。
「む、むむ。しまった。焦りすぎたか」
烏丸軍の突撃にさらされれば、敵軍は恐怖にふるえあがり、統制を失うのが常である。三倍の烏丸軍を見れば、同じ騎馬民族の鮮卑であろうと、戦う意志など消え失せてしまうものである。
ところが、眼前の敵は寡兵であるにもかかわらず、過去の例にあてはまらなかった。
統制を失うどころか、冷静に烏丸軍を待ちかまえ、これ以上ないほど効果的な斉射を浴びせてきたのだ。一糸乱れぬ統率とは、まさにこのことであった。
油断したわけではないにしろ、蹋頓は軽率だった。
敵戦力を、兵数のみで推しはかるべきではなかった。
たしかに曹操軍は寡兵だったが、そのうち五千が虎豹騎だったのである。
実力と胆力を兼ねそなえた精鋭部隊の存在が、彼の計算を致命的なまでに瓦解させたのであった。
槍でさばききれず、一本の矢が、蹋頓の乗馬の首に突き刺さった。
荒れくるう馬から放り出され、彼の体は弧を描いて、地上にたたき落とされた。大地を転がり、苦悶の声をもらしながらも、すばやく跳ね起きる。
視線をあげたさきで、曹操軍の動きに変化があった。
騎兵が陣頭に並んで、長柄の穂先をそろえたのだ。
不吉な音が、烏丸軍の耳朶を打った。
陣太鼓の音である。
曹操軍の、突撃の合図であった。
堰を切ったように、曹操軍の騎兵が斜面を駆けおりる。
烏丸軍はたちまち恐慌状態におちいった。
四方から絶叫がほとばしり、味方の人馬が倒れてゆく。
流血と混乱のなかに、袁譚はいた。
「蹋頓どの、戦死ッ!」
「王修隊壊滅! 王修さまが敵に捕縛されるのを見たという者がおります!」
伝令によって、つぎつぎと凶報がもたらされる。
またたく間に、決着はついた。
立て直しようがない、あきらかな敗戦であった。
袁譚にとっては、またしてもの敗戦である。
彼の双眸は、絶望に染まっていた。
まるで、おのれの心臓に突き立てられた槍でも見るかのようなまなざしだった。
「……こ、ここまでして……ここまでしても、曹操に勝てぬのか……」
慟哭とともに、無形の血が口からこぼれ落ちる。
領地を捨て、誇りを捨てて、蛮族に庇護をもとめた。
この戦に参加するために、蹋頓に頭を下げて、兵士たちにあてがう馬を借りた。
烏丸軍の疾風のごとき行軍におくれまいと、必死にくらいついてきた。
その結果が、無残な、一方的な敗北であった。
柳城に逃げこんだ時点で、地の利を得たのは袁譚のほうであるはずだった。
しかし、この白狼山の戦いにおいて、地形上の優位を得たのは曹操だった。
百里千里の尺度で得た地の利は、あっけなく、くつがえされてしまったのである。
あっけなく、と彼は思った。
曹操からしてみれば、あっけないどころではない。気が遠くなるような困難を乗り越えて、ようやくこの地にたどり着いたのだが、少なくとも袁譚にはそう感じられたのだった。
「兄者! 気をしっかり持てっ!」
「うっ、うむ……」
深淵にのみこまれようとしていた袁譚を、袁煕の声がかろうじてつなぎとめた。
そこへ、郭図が馬をとばしてかけつける。
「袁譚さま! 袁煕さま! もはやこの戦いに勝機はありませぬ。お逃げくだされッ!」
袁譚は首を縦にふらなかった。
「わ、私が柳城に逃げたのは、勝つためだった。勝つために、恥をしのんで逃げたのだ……。ここで逃げだしたところで、勝機は見えぬ。生き恥をかさねるだけであろう。ならば、せめて敵に背をむけずに――」
「なりませぬッ! 生きねばなりませぬ。生きてさえいれば、いずれ勝機も訪れましょうぞッ!」
郭図は半白の眉をつりあげた。
袁譚は、砕かれた気力のかけらを拾いあげるような、弱々しい声で、
「……『待つ』か。なんとも気の長い話だ」
「消極的な献策しか思いつかなかった、非才のそれがしをお恨みください」
「いや……私が曹操に勝てなかった。ただそれだけなのだ……。わかった。だが、そう簡単には逃げられそうもないぞ」
「それがしが、しんがりをつとめまする」
郭図はためらいもせずに申しでた。
曹操軍の自信と勢いに、戦場は支配されている。
誰かがこの場に残って敵をくいとめなければ、逃げきれぬだろう。
袁譚はなお躊躇したが、悩んでいる暇はなかった。
ただひとことに、万感の思いをこめる。
「すまぬ」
こうして袁譚軍は撤退をはじめた。
郭図は、死地に残ったわずかな兵士たちに感謝を伝えると、両手で槍をにぎりしめた。
主君を無事に逃がすために、曹操軍の目をこちらにひきつけておかねばならぬ。
「郭公則ここにありッ!!」
馬上で大音声をあげ、頭上にかかげた槍をぐるんぐるんと回転させる。
「それがしを殺せる者はおるかああああッ! チョエエエエエエエッッ!!」
血の匂いに満ちた戦場を、甲高い雄叫びが切り裂いた。
その郭図を生け捕りにしようと、虎豹騎の一隊を借りうけて前線に出ていた郭嘉は、ぽかんと口をあけた。
「なーにやってんすか。あの人は……」
郭図の勇ましすぎる姿には、あきれるしかない。
とはいえ、彼がしんがりを買ってでるであろうことは想定していた。
戦況はすべて、郭嘉の掌の上にある。
このとき、張遼隊が蹋頓を討ちとり、張郃隊が王修を捕縛している。
部隊の指揮や武勇では、彼らにかなうはずもない。
郭嘉は戦況の推移を見計らい、敵軍の呼吸を読みきった。
袁譚が撤退するであろうとき、郭図がしんがりとなるであろうそのときに合わせて、部隊を前進させたのである。
結果、ほかの味方部隊にさきんじて、郭図と接触することに成功したのであった。




