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第六四話 孔明と郭嘉の野人暮らし


 海沿いの街道を中心とした各所に、曹操はつぎのような立て札を立てさせた。


「大雨によって道が通れないため、秋冬になるまで進軍を延期する」


 実際に、曹操軍は西に引き揚げてみせた。

 撤退する姿を人々に印象づけておいて、夜になると転進し、東にむかって進軍を再開する。


 進む道は、柳城リュウジョウに抜けるという山道である。

 当初は軽々と行軍していた曹操軍だったが、進むにつれて、峻厳な道はさらに険しくなるばかり。しだいに行軍の速度も鈍っていった。


 羊の腸のように曲がりくねった坂道は、とりわけ車にとって天敵であった。

 車輪をとられて破損するだけならまだしも、谷底へ転落していくことすら、一度や二度ではなかった。


 樹木のあいだには熊がうずくまり、虎や豹が兵士にむかって吠えかかる。

 曹操軍は山を切りひらき、渓谷を埋めながら前進をつづけた。


 無終県ムシュウケンを出発して、ふた月。

 いまだ柳城は見えない。

 今夜の宿営地は、平岡県ヘイコウケンの廃城である。


 城壁の上から、旅路をふりかえるように西を見れば、つらなる山々の稜線を黄金こがね色にふちどり、日が沈もうとしている。


 雄大な自然が生みだしたつかの間の光景は、郭嘉に息をのませた。


 郷愁きょうしゅうにも憧憬しょうけいにも似た、不思議な感慨が胸をつく。

 だが、彼の心をより強く揺さぶったのは、足の裏に感じる城壁の存在だった。


 漢朝の城……。

 この地にも、たしかに同胞が住んでいたのだ。


 かつて漢朝の領土だった平岡県は、いまでは鮮卑センピ領となっている。

 より正確には、空白地帯というべきであろう。


 漢朝の勢力圏は、鮮卑や烏丸といった異民族におされて、南へと後退させられていた。


 燕・秦・漢と、どの国も莫大な資金と労力を費やして北に長城を築いたが、それでも異民族の侵入をふせぐことはできなかったのである。


「秦の始皇帝にすら、大地に国境をきざみつけることはできなかった、か……」


 郭嘉は胸中で独語した。


 国境の内外、長城の内外。

 人によってとらえかたに差異はあれど、つまりは天下の内と外である。


 この地にいた漢人たちは、どのように暮らしていたのだろうか。

 化外けがいの地で暮らす異民族は、どのように暮らしているのだろうか。


 不便ではないのか。心細くはないのか。


 彼らほど壮大な話ではないが、郭嘉にも似たような生活をしていた時期があった。


 自身の経験にかんがみると、この地で暮らしていた漢人たちや異民族の強靱さに、驚嘆するしかないのだった。




 郭嘉が孔明・荀彧たちとともに、冀州を脱出したあとのことである。

 荀彧が曹操に仕えるのを見届けると、郭嘉たちは故郷の潁川にむかった。


 彼らの故郷は、董卓配下の李傕に襲撃されたという。


 話には聞いていたが、廃墟と化した街並みを目の当たりにして、一行は呆然と立ちつくした。


 ものさびしい風が吹きぬけ、瓦礫がれきの山から石のちりが舞いあがる。

 焦げた屋敷跡をあさっていた幼い子どもたちが、獣のような目をして、こちらをじっと見つめてくる。


 街をおおう悪臭に顔をしかめ、孔明が声をしぼりだした。


「糞尿と死体の匂い……ひどいものだ。これでは疫病がはびこるのをとめられまい……」


「城内には住まないほうがよさそうっすね……」


 郭嘉は同意しつつ、あたりを見渡した。


 破壊の爪痕は、城壁にまでおよんでいた。

 崩れ落ちた城壁は、とうてい外敵の侵入を防げそうにない。

 ちょっとやそっとの労力では、修復もできそうになかった。


 その残骸を住民たちがはこびだしている。

 建築素材として再利用しよう、せめて自宅のへいだけでも補強しておこう、というのである。


 いつまでも立ち尽くしているわけにもいかない。

 話しあった結果、一行は城外の大きな屋敷に目をつけた。


 彼らの人数を考慮しても、広さには余裕がある。

 塀ややぐらを手直しすれば、最低限の防衛機能は備えられそうだった。

 いまの状況でそれ以上を願うのは、ぜいたくというものであろう。


 無人となっていたその屋敷を勝手に拝借し、彼らは共同生活をはじめた。


 城外で暮らす人々は野人と呼ばれてさげすまれているのだが、郭嘉と孔明も晴れて野人の仲間入りをはたしたのであった。


 いつ、どこから匪賊が襲ってくるかわからない。

 数百、数千と人が集まってくるにつれ、気を張りつめる必要性はうすれていったが、常日頃、城壁があるのを当然だと思っていた郭嘉は、どうあっても落ち着かなかった。


 野人という蔑称は、ただ見下すだけでない。

 そこに厳然として存在する、生活格差のあらわれでもある。


 外敵に対する安全のみならず、安心という面においても、城壁がもたらしてくれる恩恵に自分は依存していたのだ、と郭嘉は痛感する日々だった。


 結局、曹操軍が潁川を支配して城壁の修復に着手するまで、彼らの野人生活はつづいた。


「…………ふ、ふ」


 郭嘉は思い出し笑いをもらす。

 野人生活にもとめられるたくましさは、辺境で暮らす人々に通ずるものがある。


 たとえば、猪や野犬が出没するや、


「肉だ、肉が出たぞっ!」

「追えっ、囲めっ!」


 と口々に叫んで、木の棒を手に追いかけまわすのだ。


 郭嘉も参加したのだが、いっしょに野犬の群れを追いかけた村人たちは、彼が官軍に号令をかける立場になろうとは、想像もしなかったにちがいない。


 遠い地にいるゆえの里心もあったろう。郷里での奇妙な生活を思い出していた郭嘉は、ある気配を感じてふりかえった。


「ずいぶん遠くまできたものだ」


 感慨深げに声をかけ、歩みよってきたのは曹操である。


「山岳地帯を行軍しているだけで、ひとつの季節が過ぎようとしている。いったい一日に何里進めていることやら……。ままならんものだな」


「兵は神速を貴ぶ、なんていっといて、このざまっすから。……オレの失態です」


「ならば余の責任ということになる。なに、忍耐強く進めばいい。この道を進めば、めざす場所にたどりつくことはわかっているのだ。反省も後悔もいらん」


 異郷でながめる落日はやはり郷愁を誘うものらしく、曹操は懐かしそうに両眼を細めた。


「それに余は、戦乱がおさまらないのを憂えているのであって、時が過ぎていくのをおそれているわけではない。……おぼえているか。おまえが余に仕えた日のことを」


「もう十一年になりますか。忙しかったせいか、あっというまだったっすねえ」


「余なら天下をおさめられるとおもねる者、余こそが天下人だとへつらう者はいくらでもいる。……だがな、後にも先にもおまえだけだよ。余に天下をとらせる、といってのけた男は」


「オレは天下統一をめざす。それだけはゆずれなかったんで」


 主君選びは生涯の岐路である。


 曹操個人の資質や器に魅力を感じたという理由だけで、郭嘉は主君を決めたのではなかった。


 もしそうであったなら、彼はもっと早い時期に、おそらく荀彧と同時期に曹操に仕えていただろう。


 どのような人物を主君として仰ぐべきか。


 荀彧が潁川を救える人傑をもとめたのに対し、郭嘉は天下を統べる覇者をさがしもとめた。


 現実的な選択肢から曹操を選んで導いてきた荀彧とくらべれば、彼の望みは尊大といえるほどにわがままであったかもしれない。


 だが、郭嘉は思うのだ。

 天下統一を志してなにが悪い。

 覇道を歩んでなにが悪い。

 戦乱を終わらせるには、絶対的な力を手に入れなければならないのだ、と。


 曹操が郭嘉の主君たりうる条件を満たしたのは、天子を迎え入れたまさにその瞬間であった。


 このとき、朝廷のあらたな庇護者となった曹操のもとには、多くの人材が集まっている。


 権力者に取り入ろうとする者、曹操ではなく漢朝に仕えるのだという者、それぞれ思惑はあったろうが、郭嘉ほど不敬な人物はいなかったであろう。


 彼は、朝廷の権威を、天下を統一するための踏み台と見なしていた。


 覇王への道はひらかれた。

 古い秩序を利用すれば、天下統一にとどきうる。

 いや、己の才知でもって、とどかせてみせよう。

 そう判断したからこそ、彼は曹操を選んだのだ。


「曹司空は、郭奉孝カクホウコウをひいきしておられる」


 と口さがない者はいうが、そうした者にかぎって視野がせまい。


 たしかに、曹操には郭嘉を偏重しているきらいがある。

 だがそれは、この主従関係の一面でしかなかった。


 郭嘉がすぐれた軍略をしめすことで、主君の要求にこたえつづけているように。

 曹操もまた、覇道をけという参謀の要望にこたえつづけているのである。


 そう、彼らの関係の原点は、曹操が偏重するしないより前にある。

 郭嘉が曹操の目の前にあらわれたその日その時から、経典をきざんだ石碑のように、変わらずにありつづけている。


 夕暮れの異郷を、冷気をはらんだ風が吹きわたった。

 季節を先走った寒気に、曹操は両手をこすりあわせて、


「もし生まれた年が逆だったなら、余はよろこんでおまえのもとに馳せ参じたであろうよ」


「ははは。オレの天分は軍師っす。いかにして敵をほろぼすか。自軍の兵士たちを土人形のように使いつぶして、どれだけ多くの敵兵をほふれるか。そんなことばかり考えてる人間が人の上に立とうだなんて、ばかばかしいっすよ」


 本心であって、郭嘉は卑下したわけではなかった。

 が、自嘲のひびきがまざったのは否めない。

 露悪ろあく的な発言をとがめるように、曹操はまなじりをつりあげた。


「軍師は自軍を勝利に導くのが職務であり、謀士は人をあざむくのが本分であろう。結果を出せば人はついてくる。そのうち、おまえが世間の毀誉褒貶きよほうへんに目をむけず、ただひたすらに泰平の世をもとめていたのだ、と人々は理解するであろうよ」


 実績をあげれば、官職もあげざるをえない。

 人の上に立つ準備をしておけと、曹操は要求しているのだった。


「遊び歩いて夜中に道ばたでぶったおれても、無事に朝を迎えられる。そんな時代がくれば、オレは満足なんですがね……。まいったなあ」


 感激ではなく困惑の表情で、郭嘉は肩をすくめた。

 徳行は担当外だとも思ったが、そのまま口には出せなかった。

 わがことながら、さすがに責任放棄ではないかと感じられたのである。


 いずれにしても、彼の役割に大きな変化が生じるのは、戦がなくなってからのことになろう。


 戦乱が終結する日はまだ遠い。


 彼ら主従は誰よりも遠くまで覇道を歩んできたが、それでもなお、乗り越えなければならない山は、ひとつやふたつではないのだった。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 胡孔明先生がいないだけで、とてもシリアスな描写になるな。 郭嘉と曹操の関係は色々と想像できていいよね、主従でありながら、お互い期待に応え合う仲っていいですね。 重圧もあるだろうけど、この世…
[良い点] おいやめろ! いきなり昔のことを振り返ったり、主君とちょっとイイ話したりするのは不安になるからやめろ!
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