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第六三話 兵貴神速


 大粒の雨が降っている。長く快晴がつづいていた河北の空は、曹操軍が幽州に再侵攻すると同時にぐずりだした。すすり泣くようだった雨は次第にはげしくなり、濁流と化した河川は氾濫し、洪水をのみこんだ海は荒れくるっている。


 五月、曹操軍の前進は、右北平ユウホクヘイ郡の無終ムシュウ県にて停滞を余儀なくされていた。

 彼らの行く手をはばんだのは、敵軍ではなく、天候であった。


 進軍予定だった海沿いの街道が、大雨によってぬかるみ、通れなくなってしまったのである。


「十万の袁紹軍を倒し、海内かいだい八州を征すとも、泥河でいがに道をはばまれるか……。なに、ほかに通れる道もあろう。地理にあかるいものを召しだせ」


 この曹操の命令に応じて馳せ参じたのが、同郡の徐無山ジョムサンで隠棲している田疇デンチュウであった。


 田疇は、袁紹が何度礼を尽くしても、ついに召し抱えることができなかった男である。人望(あつ)く、徐無山には彼を慕う人々が集まり、むらができるほどであった。


 それほどの人物が即座に駆けつけたのだ。曹操はたいそうよろこんだが、田疇にしてみれば、袁紹ではなく曹操を選んだ、という単純な話ではない。


 当然のことながら、そこには相応の理由があった。


 恨みである。

 この時代、ありふれた話かもしれないが、田疇の半生は厄災と怨恨に塗りつぶされていた。


 彼に世の不条理を植えつけた最初の敵は、烏丸ウガンだった。


 かつて、右北平郡に侵入してきた烏丸は略奪のかぎりをつくし、吏民を多数殺害していったのだ。それ以来、彼にとって烏丸は、なんとしても討伐せねばならぬ讐敵しゅうてきとなった。


 また、この地で強勢を誇った公孫瓚と袁紹も、恨みの対象であった。


 公孫瓚は、田疇が仕えていた劉虞リュウグを「皇帝を僭称せんしょうしようとした逆賊」として処刑したのだが、いいがかりもはなはだしい。


 劉虞を皇帝として擁立し、利用しようとくわだてていたのは袁紹であり、劉虞自身はその誘いをはっきり拒絶していたのだ。


 田疇の主君は、野心とは縁遠い人物だった。

 しかし、乱世を生き抜くには柔弱にゅうじゃくすぎたのだろう。

 汚名を着せられ、殺された。


 公孫瓚と袁紹、真に野心家だった彼らの争いに巻きこまれ、命をうばわれたのである。


 郷里を寇略こうりゃくする烏丸を討たねばならぬ。

 だが、公孫瓚や袁紹は主君の仇であり、頼るわけにはいかない。


 臥薪嘗胆という言葉を胸に、田疇は徐無山に雌伏して、時機をうかがった。


 行くあてのない人々が集まってくると、周りに推される形で、彼は指導者となった。決まりごとをつくり、武装を整え、そうこうしているうちに公孫瓚が討たれ、袁紹も病に倒れた。


 残る敵は烏丸のみ。

 そこへ曹操軍がやってきたのである。


 この柳城リュウジョウ遠征が成功すれば、右北平郡は安寧をとりもどせる。

 そのためなら、田疇はすべてをなげうつつもりであった。

 さいわいなことに、彼はとっておきの道を知っている。


盧龍塞ロリュウサイから柳城へと抜ける細い道がございます。二百年前に崩落があって以来、公には使用されなくなった古道ですが、いまでも地元の民は利用しております」


「ほう……」


 待ち望んでいた知らせに、曹操は目を輝かせた。


「烏丸は曹司空の大軍勢をおそれ、各地の間道を封鎖しているもよう。ところがその古道には、烏丸の部隊はおろか斥候せっこうの姿すら見あたりません」


「なんと、烏丸はその道をまったく警戒しておらんのか」


 待ち望んでいた以上の知らせである。


「はい。この田疇と徐無山の部曲五百名。願わくは、烏丸討伐の先導を務めさせていただきたく存じます」


 道は見つかった。

 ただし、田疇のしめした古道は、予定よりもさらに険しい山道である。

 山道をいくとなると、船舶による兵糧の運搬はあきらめざるをえない。


 兵站へいたんに不安を抱えながら、前進すべきか。

 海辺に近い道が通れるようになるまで、待機すべきか。

 それとも、遠征自体を不毛と見なして、撤退すべきか。

 

 議論が紛糾するなか、曹操は郭嘉と荀攸を自室に呼んだ。


退くわけにはいかぬ」


 それが曹操の第一声であった。断言しているものの、さすがに不安は隠せないようで、力強さを欠いた声である。


「ここで天候を理由に引き返せば、天意が袁譚を生かしたのだ、と河北の民衆はうわさするであろう。退くわけにはいかぬのだ。しかし……」


 頬をこわばらせたまま、曹操は口を閉ざした。


「悪路はもとより覚悟のうえ。問題は補給と将兵の士気っすね」


 郭嘉が指摘すると、曹操はうなずいた。


「うむ。おまえたちの献言をいれて、兵の半数を輜重しちょう隊にあてているが、それでも柳城まで兵站をつなげられるかどうかわからぬ……。すでに不退転の覚悟を決めている余でも、飢餓きがへの恐怖をぬぐいさることはできんのだ。みながおそれるのも無理はない」


 決断するのは曹操だ。

 曹操が命令すれば、将兵は前へ進む。

 だが、彼はそれ以上のことを部下にもとめていた。


 行軍速度である。


 烏丸の不意をつくには速いほうがよい。

 士気の低下を最小限におさえるためにも、短い日数のほうがよい。


無理強むりじいではなく、自発的に進軍させねばならぬ。いやいや進ませたところで、行軍速度を保てるのはほんの数日であろう。それではまずい。まだまだ道程は長いのだ。しかも、そのさきには袁譚だけでなく、烏丸との戦いも待っていよう。将兵には意欲をもって前進してもらわねば困る」


 曹操が眉間のしわを深くすると、荀攸もそっくりな表情で、


「……兵站が途切れることはない。そういいはるしかありますまい……」


 不景気な顔をつきあわせていても、事態は好転しない。

 郭嘉はやれやれといわんばかりに嘆息し、ふてぶてしく腕組みをする。


「諸将の尻をたたく役目となると、オレが適任でしょうかね。まあ、一発かましてやりますよ」




 翌日、侃々諤々(かんかんがくがく)と議論しているにもかかわらず、どこか空虚な印象のある広間に、郭嘉は遅刻してやってきた。


 そので立ちを見て、諸将は首をかしげた。

 まるで宮中に参内するかのような正装を、郭嘉はしていたのである。

 彼らしくもない、堅苦しい姿だった。


 郭嘉はまっすぐ曹操の前に進み出ると、流れるように拱手きょうしゅした。


「曹操さま、おめでとうございます」


 水害によって足止めをくらっている現況の、なにがめでたいというのか。諸将はいぶかしんだ。


 奇異の目をむけられても、郭嘉は意に介さなかった。右手を高々と掲げ、人さし指で、力強く天井をさししめす。


「はげしく降りしきるこの雨は、わが軍に勝利をもたらす天の助けとなるでしょう」


 その瞬間、ざわついていた室内に静寂がはりつめ、雨音を際立たせた。

 一瞬を長く引きのばすかのような沈黙は、つづく郭嘉自身の口上によって破られる。


「予定どおりに進軍していれば、烏丸が万全に防備をかためている地が、戦場となっていたでしょう。しかしいま、前に進めずにいるわが軍を見て、敵は油断しています。その隙をついて古道を急行すれば、当初の予定より柳城に近い地、敵の予期していない地が戦場となるのです。これを天佑てんゆうといわずしてなんといいましょうや」


 反駁はんばくの声があがる。


「お待ちください、郭嘉どの。議題とすべきは敵軍の動向ではなく、兵站でありましょう」

「さよう。戦場がどこであろうとかまわぬ。しかし糧秣りょうまつがなければ、敵と戦うどころではなかろう」


 郭嘉は涼やかに場を見まわして、


「兵站が不安? これは異なことを。その昔、武帝の遠征軍は、柳城のはるかさき、王険オウケンにまで攻め入って、衛氏エイシ朝鮮を滅ぼしているではありませんか。わが軍の輜重隊は厚く、かの軍勢に劣るものではありません」


「……輜重隊の数を増やしておいたのは、こうした状況に対処するため。郭嘉どのはそういわれるのか?」


「しかり」


 はったりとは思えぬほど得意げに、郭嘉は唇の端に微笑をたたえた。

 そして、あえて冷静な口調でいう。


「柳城までつながる道があり、兵站が途切れることもない。この状況で官軍たるわれらが、田疇どのの部曲におくれをとってごらんなさい。世間の人々は彼らの勇気を賞賛するより、われらの臆病ぶりをあざ笑うでしょう」


 その声に嘲弄ちょうろうのひびきはうすかったが、諸将は目の色を変えた。

 郭嘉が計算したとおり、客観的に聞こえるよう抑えた声音こわねが、かえって彼らの矜持きょうじを刺激したのである。


 いまさらいうまでもないが、この場に無能を自認する者はひとりもいない。

 大小の差はあれど、誰もが己の能力に自負を抱いている。

 雑兵以下とのそしりは、とうてい甘受かんじゅしえないであろう。


 彼らの眼に火がともったのを確認した郭嘉は、心のなかでうなずくと、献策のていをよそおい、主君の思惑を言語化する。


「用兵は神速をとうとぶもの。大雨のために後退すると見せかけ、廬龍塞から柳城へと急進すべし。さすれば烏丸の不備を掩襲えんしゅうできましょう。曹操さま、ご決断を」


 郭嘉と同じものを、曹操も見ている。

 怯弱きょうじゃくの穴蔵から這いでてきた、勇者たちの眼を。

 そこに宿る熱量こそ、彼が部下たちにもとめていたものである。


「よろしい。余は世間の笑いものになるつもりはない。おまえたちはどうだ?」


 返事を聞くまでもない。尻込みする者は、もはやいなかった。




 *****




 いまごろ、曹操軍はどこまで進軍しているのだろうか。

 遠い地にいる私には、郭嘉が無事に生還するよう祈ることしかできない。


 ……かと思いきや、意外とそうでもなかったりする。


 私には援軍のあてがあった。

 強力な援軍、というと語弊ごへいがあるけど、状況が状況だけに、心強い助っ人になると思う。


 ちょうどその人物から手紙がとどいたので、いつになく気合いを入れて返書をしたためる。


 曹操軍が柳城へ遠征に出ていること。

 きわめて苛酷な道のりであること。

 劣悪な環境におかれる将兵たちのあいだに、高い確率で、いやほぼ確実に、疫病が流行するであろうこと。


 そうした状況をひとつひとつ丁寧に書きつらねて、痛切に危機を訴えていく。

 そして、その人物に曹操軍と合流してほしいと依頼する。


「華佗どの。貴殿の活躍の場は、幽州にあり――」




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― 新着の感想 ―
[一言] これで曹操が華佗を、ひいては医学を見直すことになったら歴史の大改編になりますね さす孔明
[良い点] 孔明先生、友人のためとはいえ自覚なしに最善の一手を打ち過ぎじゃないですかね、もうこれ神仙かなにかでしょw [気になる点] この時代、疫病対策、そこに注意を払える人がいるだけで大分違うんだ…
[一言] 成る程、つまり次回「走れ!華佗ス」ですね。郭ヌンティウスの死が訪れる前にたどり着く為に(ヲイ)
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