第六一話 襄陽の策士たち
建安十一年(二〇六年)、夏の終わり。
龐統が自主的に半休をきめて、沔水の中州で釣り糸を垂れていると、ふいに背後から声がかかった。振りむくと、そこにいたのは徐福(徐庶)である。
「おや、徐兄。襄陽に来ていたのですか」
「ああ。劉備さまのお供でな」
と徐福も龐統の横、木陰の草地に腰をおろした。
新野を間借りしている劉備は、定期的に劉表のもとへと足をはこぶ。
徐福はそれに随伴して襄陽を訪れ、ついでに龐統に会いにきたのであった。
「曹操に対する反乱は……残念ながら収束したようだ」
川面に険しい視線を送りながら、徐福は告げた。
「……すみません。劉表さまは、曹操より孫権との戦を選びました」
「なに、士元があやまるようなことではないさ。孫堅・孫策・孫権……孫家は三代にわたって荊州侵犯をくり返している宿敵だ。山越討伐に動いた孫権の隙をついて、柴桑を狙う。劉表どのにしてみれば当然の判断だろう」
曹操とほぼ同時に、孫権までもが隙を見せたのだから、間が悪いにもほどがあった。
劉表と孫権の関係に、改善の見込みはない。
劉表の配下、江夏太守の黄祖は、孫堅の仇である。
もし父の仇を討てぬまま、劉表と講和する姿勢をみせれば、孫権は宿将たちの心を失うであろう。
劉表もまた、黄祖を売るわけにはいかなかった。
劉表が刺史として赴任したころ、荊州は麻のごとく乱れていた。
彼にはひとりの部下もおらず、自力で荊州をまとめあげることなど望むべくもなかった。
そこに手を差しのべたのが、蒯越、蔡瑁、そして黄祖だった。
劉表が荊州を治めていられるのは、彼らのおかげなのだ。
もしも黄祖を犠牲にして、孫権と誼を結ぼうとすれば、劉表の家臣団は不和と不信とに切り裂かれ、外敵と戦うどころではなくなってしまうであろう。
劉表にも孫権にも、譲歩する余地はない。
双方、退くことは許されぬ戦いであった。
「ああ、まったくもって妥当な判断でしょうよ。結局、柴桑攻略に失敗して、なにも得ることなく撤退しましたがね」
龐統の声には苛立ちがある。
劉表の立場は理解しているが、天下の状勢を考えれば支持はできなかった。
孫権を討つ機会ならば、あとでいくらでもつくれよう。
曹操を倒す好機はまたとなかったのだ。
龐統はがっくりと肩を落として、
「うちの陣営は失策ばかりですよ。せめて汝南方面の煽動だけでも成功してほしかったのですが……」
「張遼だな」
「ええ、見事に潰されました」
劉表陣営も煽動工作をうけもっていた。
担当したのは、江夏と接する汝南を中心とした地域である。
汝南は、官渡大戦の折に袁紹側についた有力者が多かったため、戦後きびしい取り締まりにさらされた。
いまでは反曹操の旗を振れるような人物は一掃されてしまい、比較的従順な、火付けのよくない地になっている。
そこへやってきたのが張遼だった。
音に聞こえし驍将がにらみをきかせるや、不穏分子は水を浴びせられたかのように意気消沈し、反乱軍としての形をなすことなく沈黙させられてしまったのだ。
「汝南での煽動が失敗したとはいえ、反乱軍の総数は、少なくとも六万を超えていた。それを一年余りで平定するとはな……。曹操軍はよく動く。厄介なのは曹操だけではないということだ」
徐福も感嘆するしかなかった。
前年十月に高幹軍を撃破した曹操は、春になると夏侯淵・楽進・李典らをひきいて、みずから青州の反乱軍をほろぼした。
さらに夏侯淵は徐州へと転戦。単独で賊と対峙していた張遼、許都からの援軍である于禁らと合流し、徐州の反乱をまたたく間に鎮圧した。
その後、張遼が汝南にまわり、反乱の芽をあざやかに摘みとっていったのである。
「働き者ばかりでうんざりしますね。……そうだ。働き者といえば、徐兄の使いは、どうやって張白騎と連絡をとったのですか?」
「ん? ああいう手合いには、ねぐらとは別に縄張りがある。黒山賊の息がかかっているであろう集落で、『張白騎に会わせろ!』と騒がせただけさ」
「そりゃひどい。使者のかたも気の毒に」
龐統は苦笑いを浮かべ、徐福の部下に同情した。
どうやら、曹操より人使いの荒い人物が身近にいたようである。
「なに、張白騎にとっても悪い話ではないからな。嗜好品などをいくらか包ませれば、使者の身に危険はおよばんよ。……もっとも、黒山賊が陸渾に攻めこんだのは計算外だったが……。結果的に、反乱軍全体の気勢を削ぐことになってしまった」
徐福は苦々しげにいった。
黒山賊は陸渾を占拠したあと、曹操軍と戦いもせずに、あっさり降伏してしまった。
黒山賊一万、胡孔明に説き伏せられ、ことごとく投降す。
その一報が、各地の戦況にあたえた影響ははかりしれない。
曹操軍は奮いたったであろうし、反乱軍は浮き足だったであろう。
なにより、反乱に参加しようと画策していた者は尻込みしたにちがいなかった。
「徐兄の出身も潁川でしょう? 胡先生はどんな人だったんですかい?」
龐統の興味は孔明にむけられた。徐福は首をふって、
「直接の面識がないから、なんともいえないな。水鏡先生に聞いたほうがいい」
徐福は社会的に力がない、いわゆる単家の生まれである。
こうした家に生まれた者の例にもれず、若かりし日の彼は、名士社会とまったく縁がなかった。
孔明のことについてなら、同じ潁川名士である水鏡――司馬徽のほうが、よほど詳しいであろう。
「聞きましたよ」
「ほう?」
「当時の胡先生は、ただ書をよくするだけの、風変わりな人物だと思われていたそうです。ですが、すぐれた人物ほど彼のことを高く評価していた、と」
「ふうむ……。才能を矜るような為人ではないのだろう。なにしろ栄達は思いのままだろうに、出仕を固辞するような御仁だからな。……おっと、迎えが来たようだ」
遠くから足早に歩んでくる武人の姿をめざとく見つけ、徐福は立ちあがった。
用事をすませた劉備が、迎えを寄こしたのであろう。
その武人は、襄陽で見かけるどの武将よりも鎧姿が堂にいっているように、龐統の目には映った。
鎧兜に身をかためているというのに、不思議なほど動作がなめらかで、まるで不自由さを感じさせないのだ。
「彼は?」
釣り竿を手に座りこんだまま、龐統は尋ねた。
「聞いたことはあるだろう。あれが趙子龍だ」
「なるほど……」
趙雲、あざなを子龍という、公孫瓚に仕えていた河北の勇将である。
立ち去る徐福の背よりも、趙雲の偉丈夫ぶりをながめていた龐統は、やがて視線を川面にもどしてつぶやいた。
「関羽、張飛に……趙雲か。劉備どのには豪傑・勇将の心を収攬するなにかがあるらしい……」
魚が食いつき、竿先があばれるが、龐統は微動だにしなかった。
彼の頭には、郷里・襄陽を戦火から守る、ただそれだけがある。
鳳雛と称される鬼謀の持ち主は、思考の翼を天下へとひろげた。
あれほどの隆盛を誇った袁家は、辺境の幽州に追いやられ、もはや風前の灯火である。
華北を平定した曹操軍が、大挙して荊州に攻めこんでくる日はそう遠くない。
かつてない脅威に、いかにして立ちむかうべきか。
劉表は、襄陽を戦乱から守ってきた英明な君主であった。
だが、寄る年波には勝てず、往年の覇気を喪失している。
「やはり曹操に対抗できるとしたら、劉備どのだけか……。彼のもとに兵を集めるしかあるまい」
龐統は劉表の家臣ではあるが、目的のために立場があるのであって、立場に拘束されるつもりはなかった。
天下を鳥瞰していた彼は、一転して劉表個人に狙いをさだめ、その内側に思考を潜りこませる。
劉表は、曹操に対する備えとして、劉備を新野においている。
その一方で、劉備が兵を集めることを、劉表は警戒していた。
当然であろう。兵力の増加は、軍事力のみで完結しないのだから。
ふくれあがった軍勢を維持するには、武器糧秣とそれを支える労力が必要になる。
物資を集め、人が集まり、そうして劉備の存在感と影響力が増していけば、荊州を乗っとられかねない。
自身の統治を根底から揺るがすような方法を、劉表はけっして認めないであろう。
が――、
「打つ手は……ないこともない。せっかく徐兄が稼いでくれた一年だ。有効に使わせてもらうとしよう」
決意すると、龐統はようやく竿を握る手に力をこめ、魚釣りを再開するのだった。




