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第六十話 高幹の最期


 河東郡と隣接するヘイ州では、高幹軍一万五千と曹操軍一万八千が対峙している。


 四月、袁紹の甥・高幹が進軍を開始すると、鄴からは楽進を大将、李典を副将とした討伐軍が即座に出陣した。


 楽進は戦歴のゆたかな猛将で、四十七歳である。


 曹操に仕えた当初は、小柄で頭がよかったため記録官にまわされたのだが、これには納得がいかなかったようだ。


 彼が真価を発揮するのは、郷里で千余人の兵をつのった功績によって、仮司馬・陥陣かんじん都尉として取り立てられてからである。


 彼は戦場において常に先頭を駆け、負傷しようと臆すことなく、一番乗り・一番槍のほまれをつかみとっていった。


 一番槍の楽進。

 その勇名は、誇張ではなくまぎれもない事実として、敵味方に鳴りひびいている。


 いまひとりの李典は二十五歳で、出自はエン州の豪族である。


 もともとは叔父の李乾リケンが、一族をひきいて曹操に仕えていた。だが李乾は呂布軍に殺されてしまい、李乾の子・李整リセイが後を継いだ。その李整も父の死から数年で亡くなり、部曲を託されたのが李典であった。


 軍事より学問を好む李典は、兵権をあずかることに少なからず困惑したようだったが、本人の志向をよそに、彼は軍事的才能にめぐまれていた。

 とくに敵軍の狙いや弱点を見抜く洞察力にすぐれており、曹操軍の次代を担う逸材であろうと噂されている。


 彼らは、高幹に冀州の地を踏ませない勢いで、進軍した。

 州境を越え、高幹軍の先遣隊を撃破して、なお前進した。


 一度、楽進が狭隘きょうあいな道の出口で包囲されそうになったが、そのときは李典が救援に駆けつけて、窮地を脱している。


 かくして包囲に失敗した高幹は壺関コカンまで後退し、楽進たちは壺関攻略の糸口をつかめぬまま、戦況は膠着こうちゃくしているのだった。


「聞いたか李典。司隷シレイでは反乱を平定したそうだ。それも三か所すべて、わずか三か月でだ」


「はい。ありうべからざる迅速さです」


 朗報なのはまちがいないが、楽進としては感心してばかりはいられなかった。

 同じ日数をかけて、彼は高幹を討てずにいる。


「これで高幹は孤立した。われわれも鍾繇どのに負けてはおれんぞ。さっさと壺関を陥落させなければならん」


「お待ちください、楽進どの。司隷の反乱軍とちがい、高幹は壺関にこもっています。壺関は堅城。落とそうと躍起になれば、手痛い反撃をうけるでしょう」


「うぬっ……」


「できうるかぎり兵の損耗をおさえるべきです。ここは鄴で軍を再編しておられる曹操さまの到着を待つべきかと」


 兵の損耗をいいだされたら反論のしようがない。

 李典の主張に理があることを、楽進は認めざるをえなかった。


「……李典か。……なんともやりづらい男だ」


 と彼は思ったが、おたがいさまである。

 経歴と戦術観の相違からか、彼らの意見はことあるごとに対立してしまうのだ。


 とはいえ結果だけを見れば、ほとんど最速といっていい形で高幹軍を并州におしこんだうえで、兵の損害も軽微におさえている。問題は、彼らの私的感情のみにとどまっていた。


 勇猛果敢な楽進と冷静沈着な李典の組みあわせは、ほかに類を見ないほど効果的だったのである。


 むろん曹操は、このふたりの能力がみあっていることを見逃さなかった。


 それゆえ当人たちが望むと望まざるとにかかわらず、彼らは多くの戦場で行動をともにさせられてしまうのであった。




 十月、曹操ひきいる四万の軍が壺関に到着した。

 正攻法においても、からめ手においても、曹操は城攻めの名手である。

 壺関陥落は間近と思われた。


「よし、いよいよだな。壺関の一番乗りもゆずらんぞ」


 よろこび勇んだ楽進は、翌朝、肩すかしをくらった。

 曹操軍が攻めるまでもなく、城門があけはなたれたのである。


 部下に後ろ手に縛らせ、自分のひつぎをひいて降伏を申し出てきたのは、高幹の従弟・高柔コウジュウだった。


「高柔、なぜおまえが責任者のような顔をしている。高幹はどうした」


 曹操は冷ややかに問いかけた。


「高幹は、夜陰やいんに乗じて逃げだしたようでございます。曹司空の軍勢におそれをなしたのでしょう。……もともとが、高幹の私心による反乱だったのです。首謀者が逃亡したのに、抵抗をつづける意味がどこにありましょうか」


 高柔はそう述べると、平伏したまま、兵士たちの助命を嘆願した。

 せめて兵士たちだけでも守り、恥ずかしくない最期をむかえよう。

 そう決意していた彼は、さらに曹操の任命責任をそれとなくほのめかす。


「あんな男でも并州刺史でした。兵士たちは上官の命令に従っただけなのです」


 ひきつづき高幹に并州刺史の座を任せたのは、曹操なのだ。

 そこに言及すれば、曹操の怒りを買うかもしれない。 

 しかし、これが最期の仕事と腹を決めている高柔はひるまなかった。


「よかろう」


 意外にも、曹操は鷹揚にうなずいた。

 そればかりか、高柔の潔い態度を高く評価して、彼をゆるした。


 高柔が示した覚悟は、かえって彼自身の命をつなぎとめたのだった。




 太陽が隠れた灰色の空の下、荒涼とした土と岩の大地が広がっている。


「はぁ、はっ、はっ……」


 高幹は単騎、馬を走らせていた。


 長旅でやるべきことではなかったが、兵士の一団と遭遇してしまったのだからやむをえない。追われながらの、敵になりうる集団をさけながらの逃避行であった。


「はぁ……、はぁ……」


 周囲に人影がないのを確認して、馬の足をゆるめる。

 彼も、彼の馬も疲れきっていた。


 壺関を脱出したときにつきしたがっていた十数騎の従者は、一日、一日と姿を消していき、ひとりも残っていない。


 彼が壺関を見捨てたように、従者たちも主君を見かぎったのだ。


 かまわない、と高幹は思う。


「いまは……生きのびることが先決だ。……劉備だ。劉備を頼るしかない」


 彼は河東郡から洛陽盆地を通りぬけて、新野の劉備のもとへ身を寄せるつもりでいる。


「劉備なら、私を曹操に売りとばすようなまねはしまい」


 劉備はかつて曹操暗殺をはかった男だ。

 不倶戴天ふぐたいてんの敵に便宜をはかりはしないだろう。


「そもそも反乱をそそのかしたのは劉備ではないか。なぜ、やつは動かなかったのだ。……くそっ」


 劉備にも事情がある。


 新野一城では、許都に攻めこめるだけの兵は集まらない。

 劉表が兵を貸してくれなければ動きようがないのだ。

 しかし、その劉表軍が孫権領の柴桑サイソウを攻略中であったため、兵を借りることができなかったのである。


「…………む?」


 前方に騎影を発見し、高幹は馬をとめた。


 騎影はひとつではなかった。ふたつ、みっつ……と数える気にもならないほどの騎兵が、隊列を横に広げ、高幹の前方をふさいでいる。


「…………っ!?」


 高幹はとっさに逃げ道をさがして、愕然とした。


「いつのまにっ!?」


 前後左右、完全に包囲されている。

 包囲の輪がせばまってくると、見覚えのある顔が高幹に呼びかけた。


「やあ、高幹。ひさしいな」


呼廚泉コチュウセン……」


 馬上で猛々しい殺意を放っているのは、南匈奴(キョウド)単于ゼンウ・呼廚泉だった。


 つい先日、高幹逃亡の知らせを早馬から聞いた彼は、高幹が落ちのびてくるであろうと予測し、待ちかまえていたのである。


 異民族の地へ逃げるのでなければ、呼廚泉たちが暮らす地の近くを通るしか道はない。逃走経路はかぎられていた。


「高幹よ、このような場所でなにをしているのだ。おまえの軍は壺関で曹操軍と戦っているはずではなかったのか」


「…………っ」


「恥知らずにも、部下を見捨てて逃げだしたのだろう? ……なにも変わっておらんな。いやしく、あさましい……それが、おまえの本性よ!」


 呼廚泉の声に浮かんだ嘲笑の波紋は、またたく間に憤怒ふんぬの大波にのみこまれた。


 かつて彼は、高幹の誘いに乗って鍾繇・馬超軍と戦い、多くの兵を失っている。

 判断を誤ったといえばそれまでだが、だからといって高幹への憎しみが消えたわけではない。


 その敗戦直後に、呼廚泉は曹操に帰順した。

 そして、高幹に復讐する機会をうかがっていたのだが――。


 鄴が陥落すると、高幹までもが曹操に降伏してしまったのだ。


「おまえが曹操に降伏してゆるされたと聞いたときは、怒りではらわたが煮えくりかえる思いだった……。ふふふ……よくぞ反乱してくれた。おかげで、武器を手にして相まみえる機会を得られた」


「……ま、待て。私を生かして曹操のもとへつれていけば……、恩賞が、でるはずだ――」


「部下も領土も失ったおまえに、そのような価値はない。これで決着おわりだ、高幹!」


 零落れいらくした敵にむけ、南匈奴の単于が手を振りおろす。

 合図と同時に、弓弦ゆづるをひきしぼる音が共鳴し、一斉に矢が放たれた。




 塩漬けにされた高幹の首は、鄴に帰還した曹操のもとに送りとどけられた。


「もうよい。見ていて気分のよいものではない。市中にさらしておけい」


 曹操はつまらなそうに手をふって命じた。


 高幹の首は、袁家の終焉と曹操にさからう無益さを、河北の大衆に知らしめるであろう。


 役人が首のおさめられた木箱をもって退室していく。

 その背中から視線を切って、郭嘉がカラッとした口調でいった。


「これで并州の反乱もかたづいたっすね」


「うむ。……それにしても、まっさきに乱をしずめたのが司隷だったとはな。これも鍾繇の仁政が功を奏したのであろう……」


 その鍾繇が「もう少し軍備に力を入れるべきであった」と自省していたことなど知るよしもなく、曹操は正反対の感想を抱いた。そうなると自分の施政しせいのまずさを直視させられているようで、曹操は少々めんどくさい男になった。


「荀攸。おぬしの友は、余よりもまつりごとけているようだぞ」


 すねた少年のような、誇りを傷つけられたような声だった。


「……洛陽は商工業の中心です。富国に務めれば、どこよりも大きな実入りを期待できます」


 荀攸が鍾繇との比較をさけたのに対し、郭嘉は直截ちょくせつ的な論評をつきつける。


「張りあうようなことじゃないっすね。用武ようぶを軸にすえなきゃ、戦乱の世を終わらせることなんてできないんすから」


 ともあれ、どちらも天下取りへの自覚をうながす言葉であったから、曹操はあっさりと機嫌をなおした。


「ふむ。場所もちがえば、立場もちがう、か。……立場がちがうといえば、胡昭にあたえる褒美も考えねばならんな」


 曹操は自分の言葉に、二度うなずいた。やや早口になって、


「単身で賊軍一万を投降させたのだ。胡昭の舌鋒ぜっぽうのするどさは、一万の兵にも匹敵しよう。いにしえの蘇秦ソシン張儀チョウギと並んでも引けをとるまい。この偉功にどう報いるべきであろうか? 光禄大夫コウロクタイフ博士祭酒ハクシサイシュ、いや、大司農ダイシノウに任じたところで、文句をつける者はいないはずだ」


 どのような官職であれ、孔明は辞退するにちがいない。

 そうと知っている郭嘉と荀攸は、もの問いたげな視線を主君に投げかける。

 と、曹操は視線を宙にさまよわせ、やがて白状した。


「……そんな顔をされてもだな……。もう招聘しょうへい状も送りつけてしまったぞ……」


 郭嘉は片手で顔を覆って天を仰いだ。

 そこまで露骨ではなかったが、荀攸も小さく頭をふって、ため息をついた。


 孔明に出仕する意思がないことを、もちろん曹操も知っている。

 ようするに、褒美にかこつけて召し抱えようとしているだけなのだ。


 曹操は、たまにこういうことをしようとする。


 そのたびに許都では荀彧と陳羣が、それ以外の場所では郭嘉と荀攸が協力して、両者の対面が実現しないよう、未然にふせいでいるのであった。


 なにしろ、顔をあわせたところで、万事うまくおさまるはずがない。

 あちらを立てればこちらが立たず、不満がくすぶるに決まっている。

 当然、全力で阻止しなければならないのである。


「孔明には私から、来なくてよい旨を伝えておきます」


 荀攸がきっぱりと告げると、


「むう……」


 曹操はしぶしぶながら、招聘を断念するのだった。



 孔明の隠遁生活は、潁川エイセン名士たちの巧妙な連携によって守られている。




 *****


 蘇張の弁


建安10年(205年)、各地で反乱が勃発し、5月には1万の黒山賊が蜂起して陸渾県を占拠した。

胡昭はみずから人質となることを申し出て、代わりに陸渾の住人を解放させた。その際に黒山賊の頭目である張白騎と討論になり、武器を捨てて降伏するようさとしたとされる。言い負かされたことで張白騎は人望を失い、部下に背かれて寝首をかかれた。

その後、黒山賊が胡昭の言葉にしたがって朝廷に帰順すると、この降伏がきっかけになって、各地の反乱は次々と終息していった。

この胡昭の功績に対し、曹操は「胡昭の弁舌は蘇秦・張儀にも劣らない」と賛辞を送り、あらためて麾下きかに招こうとしたが、胡昭はこれを拒んだという。


 胡昭 wiikiより一部抜粋


 *****


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― 新着の感想 ―
蘇張の弁って言うか、誇張の弁って言うか…。
[良い点] >潁川名士たちの巧妙な連携 ありがてえなあ
[良い点] めちゃめちゃ面白くて一気に追いつきました! 文章も台詞も読みやすいけど丁寧で、素晴らしいです。応援してます!
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