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第六話 司馬懿


 本物の孔明の宿敵、司馬懿。

 この戦乱の世で最後に笑う人物といってもいい、三国志ファンならおなじみのビッグネームである。


 突然、そんな大物があらわれたものだから、私は当然のように心の中で身構える。


 か、かかってこい。いや、かかってくんな。

 こちとら、三国志随一の人材コレクター、曹操の誘いをこばんだ男だぞっ。

 どんな話だろうと受け流してみせるッ!


 ところが、


「私は見識を深めると同時に、幅広い視野を身につけるために、各地の賢士のもとを訪ね歩いているところです。孔明先生にお目にかかれて、光栄に存じます」


 司馬懿の言葉を聞くかぎりでは、なんてことはない、よくある話のように思えた。


 ふぅむ……。

 司馬懿という名前に対して、警戒しすぎてしまったか?


 私はこの陸渾という地に引っ越すにあたり、戦乱に巻きこまれず、食料が豊富で、名士ネットワークを十分に活用できる場所を入念に選んだつもりでして。


 そこでの暮らしが落ち着いてきたころに、不意打ちのように、「こんにちは、司馬仲達です」ときたものだから。遠ざけたはずの戦乱の気配が、三国志の中心人物である司馬懿の形をとって、近づいてきたように感じてしまったのでしょう。


 考えすぎ、考えすぎ。


 気を取りなおした私は、司馬懿をこころよく迎えることにした。


 連れだってろうを歩き、別室に入る。

 席に座って、しばらく話をしてから、私は年長者らしく鷹揚おうようにうなずいた。


「なるほどなるほど。旅をするには、よい頃合いであろうな」


 今年十九歳になり、きびしい父からようやく旅の許しを得たのだと、司馬懿はいった。


 まだ若いとはいえ、すでに司馬懿の才は名士のあいだで噂になっている。

 二十歳になり成人すれば、仕官の誘いが各方面から舞いこんでくるのはまちがいない。


 その前に各地をまわっておこう、というのである。


「まだまだ浅学の身ですから」


 と世慣れぬ青年は、恥じるように笑った。


 かすかに初々しさすら残るその姿からは、のちの梟雄きょうゆうの姿はみじんも想像できなかった。


 司馬懿はその日、私の屋敷に泊まり、翌日、去っていった。


 小さくなっていく人馬を見送っていると、戦乱に巻きこまれるフラグまで遠ざかっていくような気がした。






 それから約二か月後。

 夏真っ盛りの時期に、また司馬懿がやってきた。


 ちょい待った!

 ここは訪問済みですよッ!? 

 各地をまわるっていってたじゃないですかッ!!


 もちろん、そんなツッコミは口が裂けてもできません。

 要注意人物、司馬懿とは良好な関係を構築しておきたいところ。

 年若い客人を、私はふたたび笑顔で迎え入れる。


 そんなこんなで、私と司馬懿は学堂内にいた。


 門下生の詩を添削する手をとめて、ふと視線をあげれば、司馬懿は門下生たちにまじってそれなりに上手くやっているようだ。


 前回のギスギスした空気がなりをひそめているのは、周生がいないからだろう。

 今日はこのまま顔を出さないでほしい、と切に願う。


 そうしてちゃんと話していれば、司馬懿の学識の高さは自然と伝わるもので、


「まだ若いといっても、孔明先生の客人なだけあるよな」

「司馬家って、温県では名の通った家らしいよ」

「いや、まいった。本当に優秀な人ってのはいるんだなぁ」


 そんな声が、ちらほら門下生たちから聞こえてくる。


 うむ。

 耳を澄ましていた私は、こっそりうなずいた。


 門下生たちが敬意をもって接していれば、問題も起こるまい。

 司馬懿をおこらせる、絶対ダメ!


 そうこうしているうちに、やがて陽は傾いていき、屋敷内の人影は少なくなっていった。






 その夜。

 司馬懿が私の書斎にやってきた。


 椅子に座っていた私は胡床こしょう(折りたたみの腰掛)をすすめ、司馬懿はそれに腰をおろす。

 ちなみに、胡床という座具は、北の胡人から伝わったゆえにそう呼ばれているのであって、私が発明したわけではありません。


「この陸渾県では、ゆったり時が流れているように感じます。洛陽のそばにあるというのに喧騒は遠く、乱世であるというのに、血の匂いも戦鼓せんこの音もしない」


 感心した様子の司馬懿に、私はうなずく。


「うむ。よい土地、よい民であろう」


「はい。民たちはうたいながら畑を耕し、道の辻には笑声があふれている。太平の世には、このような光景がどこでも見られたのでしょうか」


「そうか、おぬしは光和二年の生まれだったな……」


 光和二年というと、西暦だと一七九年だったか。

 黄巾の乱が一八四年だから、司馬懿は太平の世を知らぬ世代といってもいい。


 もっとも、それまでだって地方では戦があり、中央では弾圧があった。太平の世だったかと問われれば、首をかしげたくなる。


 それでも、今ほど酷くはなかった。


 朝起きたら、隣の村がなくなっていた。

 そんな話は、どこか遠くの他人事ひとごとでしかなかった。


 戦に巻きこまれたり、賊に襲われたり。

 あるいは凶作にあえぎ、貧困に耐えかねて。

 様々な要因によって、村の住人がごっそり消えてしまう。

 今ではもう、めずらしくもない話だ。


「戦のない世を知らぬ身とはいえ、私は恵まれていたように思います。士大夫の家に生まれたおかげで、食べるものにも教育にも不自由なく、この年まで育ててもらいました」


「うむ。私たちは恵まれておる」


「ですが、世の士大夫にはそれを理解せぬ者も多い。その恵みを当然のものと思い、驕り高ぶっている者には、陸渾は少々居心地が悪いでしょう」


「ふむ……」


 どういうことだろう?


「はじめてお会いしたとき、孔明先生は農民の服を着ていらっしゃいました。その真意を知り、私は心から感服いたしました」


「うむ?」


 自分で畑を耕すのが、そこまで立派な行為だろうか?


 私の畑はひとりで十分に管理できる程度の小さなものだし、作物の種類や栽培法をいろいろ試す実験場にもなっている。さほど収穫が期待できない作業に、他人の手を借りるのは、さすがに心苦しいのだ。


「名士は士大夫にとっても憧れの的。その名士が農民と同じ服を着て、同じように働いている。階層意識の強い士大夫には耐えがたい光景でしょう。そのような人物は、そのうち陸渾に寄りつかなくなるか、もしくは心を入れ替えるか。そうして、この地はいずれ、道理をわきまえた士大夫のみが集まる場所となるのでしょう」


「…………」


 なんと。

 私の農夫姿にそんな狙いがあったとは。


「天下の乱れは天下の乱れにあらず、官の乱れにある、といいます。孔明先生の志に賛同する彼らの手で、腐敗した支配者層をただしていく。陸渾は洛陽に近く、許都にも近い。なるほど、この国を立てなおすためのくさびとするには、もってこいの場所といえましょう」


「…………」


 なんという遠大な計画……すんごい。

 どう返したらいいのかわからないが、ここはまじめな顔を崩しちゃいけないと思った。


 もってくれ、私の表情筋。


「私の故郷も、陸渾のようであれば……。そう願わずにはいられません。私も孔明先生にならい、世俗の名利にとらわれることなく、いつの日か、故郷を豊かにしたい。そう思うのです」


 落ち着いて話す司馬懿だが、その声には熱があった。


 太平の世を渇望する若々しいまなざしが、まっすぐに私を見すえる。


「先生。私を門下にくわえてはいただけないでしょうか?」




 一瞬、目の前が真っ白になった。


 あの司馬懿が、私の弟子になりたがっている。

 しかも、世俗の名利を離れる……。

 つまり、出仕せずに、私のように隠士となるつもりなのだ。


 それはマズいッ!!


 三国志の表舞台から、司馬懿がいなくなったらどうなる!?

 影響が大きすぎる、先がまったく読めなくなるッ!!


 マズい、マズい、マズいッ!!


 あわわ、なんということだ。

 わ、私が長年コツコツと、虚像を積みあげてきたばっかりに!?


「ならぬ。ならぬぞ。司馬懿よ」


 そういいつつ、私は必死になって理由を探す。

 司馬懿を門下生としてはならない。

 その、もっともらしい理由を。


「おぬしはすでに、どこに出ても恥ずかしくないだけの学を修めておるではないか。もう、私が教えるようなことなど何もないであろう」


 そこで、私はジッと司馬懿をにらみつける。


「そこまで学問に打ちこめたのは、司馬家の教育があってこそ。にもかかわらず誰かの門下に入ろうなど、お父君に申し訳が立たないと思わぬのかっ!」


 私の言葉に、司馬懿は表情を曇らせた。


 名士の名士たるゆえんは、世間からの評判にある。

 道に明るく、徳を積んでいる人物だという名声だ。

 その徳において重要視されるのが、孝行である。


 私を名士として敬い、門下生になりたいというのならば、親をないがしろにしてはならないはずだ。


 おっ。なんかそれっぽい理由ができたぞ。


「……わかりました」


 しぶしぶという感じではあったが、司馬懿は引きさがってくれた。




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― 新着の感想 ―
またしても壮大な勘違いが…笑うしかない
[良い点] 兵卒上がりの張飛さんを見下して諸葛のほうの孔明に注意された劉巴の対応のが当時としては一般的なのに司馬懿さん人格者過ぎる…
[一言] ふぅ、これで一難去ってぬくぬく暮らせるな…
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