第五七話 ひとりぼっちの逃避行
陸渾のみんなは解放されたのに、私ひとりが黒山賊に強制連行されている。
現実が不公平なことばかりなのはわかっちゃいるが、これはあんまりではなかろうか?
……まあ、家族が無事だったからよしとしよう。
できれば私も無事に帰りたいものである。
私はいま、とある亭のそれなりに大きな屋敷の一室にいる。
同じ敷地内に黒山賊がたむろしてるし、屋敷の外の様子もわからないので、自力で逃げだすのはちょっと無理っぽい。
ただ、さしあたって身の危険は感じていない。
わざわざ私を連れていくのは、つまり、利用価値があると判断したからだろう。
だからおとなしくしていれば、命まではとられないと思う。
そんなことを考えながら眠れぬ夜を過ごしていると、ふいにかすかな物音が聞こえた。
一瞬、幻聴かと思ったがそうではなかったようだ。
私が半身を起こして、枕元においてあった宝刀の鞘をつかむのと同時に、ひとりの男が闇にまぎれて、すうっと部屋に入ってきた。
「孔明先生、火急の用にございます」
男は抱えていた木箱を足元において、跪拝した。
「むっ、何用であろうか?」
そういいつつ、私はその男を注意深く観察する。
丸顔の男は呼吸を乱しているというか、どこか殺気立っていた。
物々しい気配をまとっているが、攻撃の意思はないように見える。
どうやら刺客ではなさそうだ。
心中で胸をなでおろした私は、寝台の上で正座した。
「まずは、これをお受けとりください」
と丸顔の男は丁重な手つきで木箱のふたをあけると、私に捧げた。
月と篝火、窓から入るわずかな光では、木箱の中身はにわかに判別がつかなかった。
私は両手で木箱をもち、けっこうずっしりとした重さに――、
「ッ!?」
な、生首いいいいいいいいいッ!?
あ、危うく木箱を落とすところだった。
……小便ちびるかと思った、危ねえ。
木箱には塩が敷き詰められ、男の頭が埋まっていた。
両眼は閉じられているものの、大きくひらいた口は左右いびつにつりあがっている。
よじれたあごが、極端にゆがんだ顔の造作が、今際の際の苦悶を凄絶なまでに物語っていた。
……なんか塩が血で変色してるんですけど。
これ、もしかしなくても、新鮮な生首なんじゃありませんか?
なんてもんを渡すんだ、この野郎ッ!
私は表面上とりすまして、できるだけ遠く、寝台の隅に木箱をおいた。
「その首は、私どもの頭目である張白騎さまのものでございます」
「…………」
張白騎にさらわれたと思ったら、その張白騎が生首になってあらわれた。意味不明である。
……落ちつけ。思考を放棄するな。
おそらく、内輪もめでも起きたのだろう。
「孔明先生はこの国の宝でございます」
男が見え透いたおべっかをいう。
「張白騎さまは、一度手中におさめた宝を手放すことができなかったのでございます。ですが、私どもはしょせん匪賊。国家の宝を手に入れたところで、闇夜に錦を着るようなものでございましょう。張白騎さまは孔明先生のあつかいに悩んだあげく、くわだてました。先生を殺害し、その罪を張琰にかぶせて、張琰の軍勢を奪ってしまおうと」
マジでッ!? 私、殺されるところだったの!?
私は驚愕と動揺とで頭をいっぱいにしながらも、平静を装おうと努めた。
「孔明先生の身に万が一のことがあれば、官軍が私どもを残らず討ち果たすは必定。私めは同志とともに、頭目を説得しようといたしましたが願いかなわず、やむをえず弑した次第でございます」
「……うむ」
ということは、……どういうことだろう?
黒山賊でクーデター発生。
強硬派の張白騎が死亡し、私は無事に解放される。
そんな流れを期待していいのだろうか。
「よくも悪くも、私どもは頭目の強権によって成りたっておりました。張白騎さまの後釜をめぐって、これより弘農黒山賊はもめにもめるでしょう。御身に危険がおよぶまえに、一刻も早くお逃げください」
解放ではなく逃走のススメだった。
「野心を抱く輩、過激な輩は数えきれぬほどおります。彼らは実権を握るためなら、流血も辞さないでしょう。どのような混乱が生じるか、予測がつかないのです。警備の穴は私めがつくりますゆえ、お急ぎください」
ううむ、誘いに乗るべきか否か……。
ここに張白騎の首がある以上、彼の言葉は信用に値すると思う。
野心を抱く輩に、過激な輩か。
なかには己の力を誇示するために、「俺はあの胡孔明を殺した男だ!」と、私の生首を掲げようとする者だってあらわれるかもしれない。
そんな、ひどい……。
ええい、こんな危ない場所にいられるか!
「……わかった。そのあと、おぬしはどうするつもりだ」
「私はこの地に残り、同志とともに混乱の収拾につとめます。どれほどのことができるかはわかりかねますが……」
「そのあとは?」
「そのあと……でございますか」
私の指摘に、男は意表をつかれたようだった。
「うむ。この反乱をどう終えるつもりなのだ。いずれは官軍が攻めてこよう」
「……官軍に勝てるなどと思いあがってはおりませぬ。逃げるか、降伏するか……」
男は悩ましげにいいよどむ。状況が状況だけに、さきのことまで考える余裕がなかったのだろう。
「ふむ。それでは、ひとつ助言させてもらう」
私は厳粛な声でいった。
「はっ」
「戦の勝敗が決まってから降伏を申し出たところで、手遅れになる公算のほうが大きい」
「…………」
「降伏するのであれば、できるかぎり早めにしなさい。勝敗が目に見えているというのなら、せめて戦端がひらかれるまえに申し出るべきであろう。張白騎の首はここに置いていく。その首を手土産にするとよい」
私にとってはなんの価値もない張白騎の首級だが、ここにあればいろいろ使い途はあるだろう。
それはともかく、こんな気持ち悪いものは是が非でも返品しておきたい、というのが私の本心である。
これからひとりで逃げなければならないのだ。
生首なんて抱えていたら、私の精神がまいってしまう。
「……ははっ。身に余るお言葉をいただき、恐縮至極に存じます。闇のなかにひとすじの光明を見る思いでございます」
男は一段とおそれいって、床に頭をこすりつけた。
うつくしく晴れわたった夜空には、半月より少しふっくらした月が皓々と浮かんでいる。
人工の灯りがなくても、街道であれば進むのは不可能ではなかった。
亭を脱出した私は南をめざしていた。
黒山賊の勢力下を抜けだしたところで、どこかの集落にかけこむつもりだ。
「……!」
ふいに複数の灯りが前方に見えた。
こちらへ近づいているようだった。
こんな時間帯に移動してるのだから、まともな相手とは思わないほうがいい。
本隊に合流しようと北へ移動している、黒山賊の一味にちがいない。
私は街道をはずれ、森のなかに身をひそめる。
黒山賊と鉢合わせすることだけは、さけなければならなかった。
灯りが近づいてくると、集団の様子が見えてくる。
成人男性十人くらい。
いかにも柄が悪そうなので、黒山賊にまちがいない。
身を隠して正解だったようだ。
私のそばを通過して、黒山賊の一団が遠ざかっていく。
ほっと息をつこうとしたとき、どこか遠くで狼が一斉に遠吠えをはじめた。
「……しまった。失念していた」
危険は人間ばかりではない。
狼に、熊に、虎……。
どれも、夜中にひとりでうろついている私にとっては、とてつもない脅威である。
たしか前世の記憶によると、成人男性の戦闘力は中型犬に匹敵するとかしないとか。
切れ味抜群の宝刀があるとはいえ、正直、野犬の群れにも勝てる気がしない。
あたりを警戒する。
頭上をおおう梢が月光をさえぎっていた。
夏の森は鬱蒼としていて、足元はまったく見えない。
樹木と大地が渾然一体となって、闇のなかに沈んでいる。
視覚を刺激するものはなにもなかった。
聴覚に流れこんでくる虫の音が、前後左右どこまでもつづいている。
……心細くなってきた。
やばい、へこたれそう。
気を強くもたなければ。
弓術においては芸術的な凡才ぶりを発揮してしまう私だが、じつは武芸全般がからきしダメなわけではない。
刀や剣であれば、ごく平凡な腕前といっていいだろう。
少なくとも荀彧や郭嘉よりは、私のほうが強い。
兼業農家をやってるぶん、パワーはこちらに分がある。
あいつらの武力を二〇ぐらいだとしたら、私は四〇ぐらいある。
そこに、陳羣からもらった宝刀の効果で+五だ。
武力四五といえば、なかなかどうして捨てたもんじゃない。
四捨五入を二回すれば百になるんだから、そりゃあたいしたもんよ!
……そもそも野生動物に襲われたくなければ、集団で行動すべきなのだ。城壁の外は人間の領域ではないのだ。夜となればなおさらであった。
私は街道にもどり、全方位に注意を払いながら、亀のようにのろまな歩みを再開する。
神経を張りつめて、歩いて、歩いて、どれほど歩いただろうか。
土をかためただけの足場に変化があった。
私の足は平らな石を踏んでいた。
あきらかに人の手がくわえられている石だった。
ここらへんの地理には精通しているつもりだ。
現在地もおおよそわかる。
脳裏に地図を描いて照合してみる。
この付近になにがあるかといえば、
「……廃寺か」
この調子では夜通し歩いたところでたいして進めないだろうし、なにより夜道は危険だ。建物のなかで夜を明かしたほうが安全だろう。
私は移動するのをやめて、廃寺にむかうことにした。
踏み石を見失わないよう、慎重に歩いていくと、
「……あった」
意外と近くに、寺門はあった。
壊れた門扉をくぐった瞬間、梢の天井が消えて夜空がひろがった。
月と満天の星を背景に、平屋建ての堂と背の高い塔が黒々と浮かびあがる。
「……ふぅ」
安堵の息がもれる、緊張もゆるむ。
門は壊れているし、土塀だって崩れている。野生動物の侵入をふせげるような場所ではないが、人の痕跡がある場所にたどりつけて、安心した。
お堂と古塔、どちらのほうが安全だろうか。
両方とも戸は壊れていて、残骸が地面に転がっている。
塔の上階のほうが、まだしも安全なように思えた。
うす暗い塔内に足を踏みいれ、階段をあがる。
一段ごとにギシッ、ギシッと木製の階段が悲鳴をあげる。
古塔は三階建てだった。
最上階につくと、帯の背中に差した羽扇と左腰に帯びた刀をはずして、座りこむ。すると、長いあいだ掃除されていないことに抗議するかのように、埃の匂いが舞いあがった。
「……ああ、疲れた」
たいした距離は歩いていないはずだが、足が重い。
状況が状況だ。距離以上の疲労を感じるのは当然だった。
ともかく、いまは体を休めて、朝になるのを待とう。
この廃寺は、山の裾野を少し登ったところにある。
三階からなら、遠くの様子もある程度は見えるはずだ。
壁にもたれて目をつむる。
……こんな埃っぽいところで眠れるだろうか。
ささやかな懸念は、意識とともに溶けていった――。
――まぶたの裏に明るさを感じて、意識が覚醒する。
目を覚ましたとき、私は壁にもたれた体勢のままだった。
うう、体の節々が痛む。
寝ているあいだに固まってしまったみたいだ。
立ちあがり、体操をして全身をほぐしていく。
それから刀と羽扇を装備して、外の様子を確認するために窓辺に立つ。
「……あれは」
山森のはざまを街道がのびていた。
そのさきに数こそ少ないが、たしかに赤い旗が見える。
距離があるため文字は識別できないが、
「まちがいない。あれは漢朝の旌旗だ!」
友軍来る!
あそこにいる官軍と合流できれば……。
大声で呼びかければ、こちらの存在に気づいてくれると思う。
やまびこヤッホー理論によると、人間の声はかなり遠くまで届くはずだ。
息を吸いこんで、大声を出す直前、思いとどまる。
ダメだ。
この近くにいるであろう、黒山賊を呼び寄せてしまったら元も子もない。
なんとかして、官軍だけに気づいてもらえればいいのだが……。
思案した私はあることを思いついて、宝刀を抜いた。
鏡のような刀身で、朝日を反射して天井にあてる。
思ったとおり、刀の形をした光が天井に映しだされた。
「……よし、いけそうだ」
窓から身を乗りだして、天高く宝刀を掲げる。
そして反射角を調整し、遠くに見える赤い旗へと。
「私の刀が白く輝く! 私を救えときらめき叫ぶッ!」
わが宝刀よ、光を放て!
ウザくてウザくて、無視しえないほどに!
「必殺……じゃなかった。……救命ッ! コウメイッ・ビィィィィムッ!!」
キラッ☆




