第五六話 孔明、危機一髪
黒山賊に占拠された陸渾では、城壁の修復工事がおこなわれている。
もともと城壁の拡張工事を効率的におこなうため、旧来の城壁は一部取り壊されていたのだが、その旧来の城壁を修復するよう、張白騎が命じたのである。城壁の不備をついた張白騎が、不備をそのままにしておくはずもなかった。
作業に動員されているのは陸渾の住民たちである。
土嚢をはこびながら、彼らはぼやく。
「天下広しといえども、俺たちほど不毛な作業に従事してるやつらはいないだろうよ」
「まったくだ。自分たちの手で城壁を破壊した結果、黒山賊に占領されちまった。と思ったら、今度は黒山賊を守るために、その城壁を修復させられるときたもんだ。こんな阿呆、ほかにいたら見てみたいもんだぜ」
笑い話にもなりはしない。まったく、誰が好きこのんで賊徒に支配されたがるものか。
彼らは泥と汗にまみれた顔を見あわせた。どの顔にも不平不満が浮かんでいるが、眼光は力を宿している。反発する気力が残されているのは、いまのところ犠牲者がほとんど出ていないからであろう。
「この生活、いつまでつづくんだろうな」
誰かが、心底うんざりした口調でいった。そのつぶやきは一同の心情を代弁していた。
陸渾の日常は不穏と隣りあわせで、かろうじて成りたっている。その日常が薄氷の上にあることを住民たちは理解していた。そう遠くないうちに、氷は割れるだろう。
黒山賊が本性をむきだしにする日が早いのか。それとも官軍が到着して、賊を追い出してくれる日が早いのか。彼らには後者を願うことしかできなかった。
ところが陸渾が解放される日は、思いも寄らない形で訪れる。
「おい、おめエら。陸渾を捨てて、北に行くぞ」
張白騎の命令は、いつものことながら唐突だった。
「せっかく手に入れた陸渾を捨ててしまっていいんですか?」
「県城を手に入れる機会なんて、そうそうないと思うのですが」
「張白騎さま、城壁なら問題ありませんぜ。曹操軍が攻めてくる前に修復は終えてみせまさぁ」
部下たちは困惑するしかない。
張白騎一党の約二十年におよぶ活動において、もっとも華々しい戦果であろう陸渾をそう簡単に手放していいのだろうか。陸渾を去るのなら、城壁の修復を指示した意味はなんだったのか。彼らが戸惑うのも当然であった。
「城壁をなおしたところで、曹操の大軍が攻めてきたら、どうせ守り切れねェだろォが」
張白騎は県令の席に座し、腕を組んでふんぞり返っている。
彼は自身の能力を信じていたが、曹操の強大さも理解していた。出し抜くだけならともかく、まともに戦える相手ではないのである。
「それは……そうかもしれませんが」
「陸渾なんて奥地じゃァ、山に逃げこむ以外、逃げ道がねェ。だから曹操軍が攻めてくる前に、澠池の反乱軍と合流する。どうだ?」
異論があるかたしかめるように、張白騎は部下たちの顔を見やった。
「澠池の反乱軍……」
「たしか、張琰とかいう豪族でしたっけ?」
もたざる者の寄せ集めである黒山賊にとって、裕福な豪族は敵であるはずだった。
困惑を引きずる部下たちを、張白騎は手で制した。
「いまは同じ反乱軍同士だろォ、仲よくしてやろうぜ。張琰と合流したあとは、さらに北だ。河東郡でも反乱が起こっているらしいからな」
「そいつは名案だ。河東郡まで行けば、曹操の大軍が攻めてきても怖かねえ」
「いざとなれば、高幹が治めている并州に逃げてしまえばいい、ってことか」
納得の声がつらなった。追従の声が耳に心地よくひびき、張白騎は満足げに笑声をあげた。
「ハッハァ。そういうことよ。よくわかってるじゃねェか」
「……ですが、奥地とはいえ陸渾は県城です。孔明先生の身柄も、私たちはおさえています」
と丸顔の男が口答えした。長身の男がそれに賛同するように、
「曹操と交渉して将軍位を引き出すつもりなら、陸渾にとどまる選択だって悪くないように思うんですが……」
「黙れッ! 陸渾は動かせねェが、孔明先生は連れてきゃいいんだ。ほかの反乱軍と合流すりゃァ兵力だって増える。曹操との交渉で有利になることはあっても、不利になるこたァねェんだよ!」
張白騎は一転して、感情を昂ぶらせた。
彼が意見を求めていないことを、部下たちは悟った。頭目は絶対的な権力者である。もはや異論は無意味であろう。
「わかったな、おめエら! さあ、出立の準備だッ! 急げよッ!」
「へいっ!」
威勢のいい返事に反して、幾人かの目には不承の光がちらついている。
陸渾を攻めておきながら、河東郡のほうが好ましいという。城壁の修復を命じておきながら、城を放棄するという。あらたな命令で、前の命令を否定すること自体、張白騎の迷走ぶりをあらわしているように、彼らには思えてならなかった。
そうして陸渾を発った張白騎たちは、澠池にむかう途中で、とある亭を襲撃した。
県城と県城のあいだには亭がある。亭が有する武力は、警察力程度の微々たるものだ。
兵力の多寡は血を流すまでもなく明らかだった。亭長以下の吏卒は、黒山賊におそれをなし、地にはいつくばって降伏した。
その夜、亭舎の周囲をふたりの男が歩いていた。
「……雲行きが怪しくなってきたな」
丸顔の男がぽつりというと、長身の男が月を見あげる。
「うん? 雲ひとつない星空じゃねーか」
「夜空ではない。私たちの今後の話だ」
彼らは張白騎の腹心といってもいい立場にいる。もっとも、同じような立場の者は十人近くいるので、特別な影響力をもっているわけではない。
「張白騎さまは迷走している。陸渾を放棄するぐらいなら、最初から河東郡の城を襲撃すればよかったのだ」
「俺が思うに、伊水を船で下るなんて作戦、思いつかなきゃよかったのさ」
と長身の男は肩をすくめた。
張白騎がその作戦をひらめいたのは、目の前を伊水の支流が流れていたからにすぎない。地形を調べ、地図を作成して、編んだ作戦ではなく、偶然の賜物だったのだ。
「そうだな。天啓のようにふってきた作戦だったからこそ、とびついてしまったのだろう……」
「……張燕さまだったら、どうしたろーな?」
長身の男がほんの少し懐かしそうにその人物の名をあげると、丸顔の男はため息まじりに、
「名案を思いついても、それにふりまわされはしなかっただろうな。いろいろ計算できる人だったから」
張白騎が聞いたら激怒しそうな言葉が、自然に口をついて出る。
長年、張白騎と行動をともにしてきた彼らは、自分たちの頭目と張燕のあいだに埋めがたい差があるのを、漠然とではあるが理解していた。
張白騎は単純な男である。目の前にある物事には対処できるが、時間や距離を隔てた、自分からはなれた物事に対して想像力をはたらかせるのが苦手だった。さきを見越して行動していたのであれば、ころころ命令を変えはしないであろう。
これが張燕であれば、陸渾攻略後の展望をあらかじめ考えていたはずだ。そして陸渾を占領したところで無益だと判断したならば、いかにすぐれた作戦であろうと、執着せずに破棄していたにちがいなかった。
対抗心を燃やすだけあって、張白騎の武勇と部隊指揮能力は、張燕にも劣っていない。ただしそれは、あくまで前線の一指揮官としての力量である。両者の本質的な差は、組織の上に立つ者としての視野のちがいにあり、先を見通す目にあった。
「じゃあ、俺は報告に行ってくるわ」
そういって長身の男は亭舎のなかに入った。
階段をあがって、張白騎の部屋に足を踏み入れる。
と同時に、彼はいぶかしげな声を発した。
「張白騎さま?」
奇妙なことに、室内の空気が張りつめていたのである。
張白騎はひどく肝の据わったまなざしで、宙をにらんでいた。
「……オウ、どうした」
「見まわり、異常ありません。……どうかしましたか?」
「ああ、孔明先生にゃァ、死んでもらおうと思ってな」
張白騎はむすっとした表情で告げた。
「え……?」
「考えりゃわかるだろォが。生かしておいて、俺の悪評をいいふらされたらどうすんだ。やっぱ、その前に死んでもらうしかねェ」
驚愕のあまり呼吸すら忘れていた長身の男は、ようやく衝撃から立ちなおると、
「で、ですが、孔明先生を殺せば、俺たちは曹操に皆殺しにされるのでは……」
「そんなこたァわかってる。だから殺すとはいってねェだろォが」
張白騎の声は力強さを増している。口を動かすにつれ、みずからの計画に自信を深めているようだった。
「……といいますと?」
自分はとんでもないことを聞かされている。のどの渇きをおぼえながらも、長身の男は尋ねた。
「張琰に罪をおっかぶせりゃァいいんだよ」
張白騎は歯をむきだして、にやっと笑った。むすっとしていた表情は影も形もなくなり、悪党らしい不敵な面構えに変貌している。
「孔明先生を殺害するのは、張琰の部下だ。で、俺たちは張琰を討って、孔明先生の仇をとる。そして、張琰の軍勢をそっくりいただいちまおう、ッてわけよ。どうだァ、名案だろォ」
「お、おい。大変だ……」
亭舎の一階で、長身の男は丸顔の男にすべてを話して、問いかけた。
「うまくいくと思うか?」
「……張琰に罪をなすりつけたところで、曹操は私たちを見逃してくれないだろう」
「やっぱりだめそうか」
「このままでは、澠池についたら孔明先生は殺される。私たちも官軍に……」
「ど、どうする。明日には澠池についちまうぞ。明日には」
長身の男が狼狽しているさまを見て、丸顔の男は合点がいったというふうに、
「……そうか、張白騎さまは焦っているのだ。本人に自覚はないかもしれないが」
「焦り? 張燕さまとの立場の差が、絶望的なまでにひらいたからか?」
「それもあるが、思い返してみろ。弘農郡にきた当初、私たちの兵力は一万五千を超えていた。それがいまでは七千にまで減少している」
そこには非戦闘員の人数はふくまれていない。純然たる戦闘員、といえるほど立派ではないが、戦える者のみの頭数である。いずれにしても、張白騎一党の勢力は全盛期の半分以下になっている。
かつて張白騎たちは、冀州との州境に近い河内郡東部、黒山を中心に暴れていた。本拠地を弘農郡にうつしてからは、洛陽盆地で、関中で、ほしいままに略奪をかさねた。
しかし馬騰らによって、関中から追い出された。荒廃しきった地域が復興するにともない、治安の乱れは正され、匪賊が跋扈する余地は少なくなっていった。
略奪で生計を立てることがむずかしくなってくると、張白騎は山奥に本拠地をかまえた。糧をえる主体を、隠し畑へと切り替えざるをえなくなったのである。
もちろん豊かな生活とはほど遠い。山奥での生活を疎む者は去っていった。おりしも曹操の屯田政策によって、農地が貸し出されているところだった。
農地を貸しあたえてくれると聞けば、諸手をあげてよろこびたくなるが、無論、いいことばかりではなかった。税は重い。収穫の半分を税としておさめねばならないのである。まだしも救いは、金銭ではなく物納で済ませられることだろう。
税こそないが生産性の低い山奥で隠れ住むのか。それとも、重税を覚悟して帰農するのか。どちらを選ぶかは人それぞれだが、後者を選んで黒山賊を抜ける者はあとを絶たない。
「……なるほどね。どんどん兵力が減っていくんだ。将軍位を夢見る張白騎さまにとっては、今回の反乱が最後の機会ってことか」
納得した長身の男は皮肉げに吐き捨てた。
「ああ。ここで退いたらあとがない、と本能的に察しているのだろう。だから危ない橋を渡ろうとしてしまうのだ」
「俺たちにとっては迷惑な話だがな」
「同感だ。……孔明先生を殺すのは、いくらなんでも下策だろう」
「俺もそう思う。……それに、一輪車には世話になっているしな」
孔明が発明した一輪車は、彼らの生活にも溶けこんでいる。悪条件にかこまれた隠し畑での農作業において、一輪車ほど便利な物はない。孔明の恩恵を、彼らは身近に感じているのだった。
「……ちくしょう。俺たちがなんとかするしかなさそうだ。張白騎さまを説得して、思いとどまってもらうしかない」
「ああ。今夜が山だ」
同志を集めようにも時間がない。そもそも頭目に逆らおうとする者は少数派であろう。
「陸渾を発つときに孔明先生を解放していれば、こんなことにはならなかったのに――」
長身の男の愚痴は、階段をあがったところで、異音にさえぎられた。壁のむこう、張白騎の部屋から、いびきが聞こえてきたのである。
どちらからともなく自然と、彼らは足音を忍ばせた。
「張……白騎……さま……?」
丸顔の男はささやくように呼びかけ、張白騎の部屋に歩み入った。
返答はない。ムーッ、ムーッといびきだけがひびいている。
「……張白騎さま~、曹操の大軍がせまってますよ~。……しかも、敵大将は張燕さまだそうで……」
これまたささやくように、長身の男は偽りの報告をした。
張白騎が起きていれば無視しえない報告であるはずだが、寝台の上で大の字になっている人影は、ぴくりとも反応を示さない。
ただ、いびきだけが規則的にくり返される。
ふたりは視線を交わした。たがいの目には邪念と義憤が、顔には怯懦と決意がそれぞれ等分に浮かんでいる。最後に彼らの背を押したのは、自分たちの生死がかかっているのだという危機意識だった。うなずきあい、無言で会話が成立する。
彼らはそっと腰の剣を抜いて、張白騎の枕元へと、忍び足で近づいていった。




