第五五話 孔明を救出せよ
建安十年(二〇五年)夏、同時多発的に生じた反乱の輪は、一時的にせよ曹操の野望を拘束することに成功している。曹操は幽州遠征を中断して、鄴へと引き返す途上にあった。
一方、許都では、荀彧と夏侯惇が顔をつきあわせていた。
曹操がはるか北の地にいる現状、許都において兵権を握るのは彼らである。各地で生じた反乱に対し、どのように討伐軍をさしむけるかも、彼らの裁量のうちにあった。
「夏侯惇どのには、張白騎の討伐にむかっていただきたい」
「それはまた、どういう風の吹きまわしであろう? 張遼が徐州に派兵されているとはいえ、まだ于禁がいるではないか」
夏侯惇は疑問を呈した。けっして臆病風に吹かれたのではない。許都を守るのが彼の役目なのだ。朝廷をとりしきる荀彧が都をはなれられないように、曹操の代理人たる夏侯惇もできるかぎり都をはなれるべきでない立場にいる。
「張白騎のひきいる黒山賊は一万と称しているが、実数はそれを下回っているだろうとの報告もある。于禁に一万の兵をあたえれば、鎮圧するのはさしてむずかしくないように思うのだが」
夏侯惇の見解に、荀彧はうなずいた。
そもそも、許都に張遼と于禁が待機していたのは、このような反乱に対処するためなのだ。
反乱の規模こそ想定を超えてしまい、遠征を中断するはめになったものの、曹操も自身が不在のあいだに領内で異変が生じるのではないかと警戒していた。緊急事態にそなえ、十分と思われる兵力と優秀な将軍たちを許都に残していたのである。
すでに張遼は出陣し、徐州の賊と対峙している。つぎは于禁の出番であろう。
だが、うなずきから一拍おいて、荀彧は首を横にふった。
「こたびの出兵では、賊と交渉の場をもつ可能性も考慮してほしいのです」
「うむ?」
「謹厳実直は于禁どのの美点です。彼の剛直さは軍規や法令と一体であり、批難されるようなものではありません。しかし、その一方で容赦のなさにも通じてしまうでしょう」
「……なるほど、于禁はきびしすぎるか。まずまちがいなく、賊徒相手に譲歩は不要、と判断するだろうな。あいつは」
夏侯惇は得心したように苦笑を浮かべた。
「一将として正しい判断をくだし、反乱を鎮圧する。それだけでは足りませぬ。賊徒を皆殺しにするような状況になれば、孔明の身も危うくなりましょう」
荀彧にしてみれば、賊を倒すことだけを目的とされては困る。となると、頼れる相手は夏侯惇をおいてほかにいない。
人質をとられた場合、その人質にかまわず敵を討ち滅ぼすのが通例であり、法令である。夏侯惇も于禁もそうした規律にきびしい将であることに変わりはない。
ただし、夏侯惇はきびしさにとらわれない、柔軟な思考の持ち主でもあった。
曹操の代役を務めるときは軍政家として物事を俯瞰し、兵卒にまじって土嚢を運ぶときは兵卒の視点で物事を見ることができる。隻眼の将の稀有な資質はそこにある。
外見から想像されるとおり、はげしい気性をしている夏侯惇が、それでも部下から慕われているのは、人情の機微に通じているからであった。
案外な人たらしである彼ならば、賊徒が相手であろうと、硬軟おりまぜた交渉ができるだろう。
「孔明のような人材は、天下にふたりといないでしょう。彼はこの国に必要な男です。公私混同といわれようとも、私はその考えをあらためるつもりはありませぬ」
荀彧は鉄の意志を感じさせる表情でいった。
「胡昭どのはわが軍にとっても大恩人だ。私情まじりだなどと恥じることもあるまい。……それにしても、胡昭どのは無事であろうか」
沈黙が重くのしかかった。沈黙は憂慮であった。
手紙のやりとりがあるだけの夏侯惇でも、孔明の身を案じているのだ。
当然ながら、荀彧の心中には安からぬものがある。
荀彧は身じろぎと同時に、口をひらいた。
「……孔明の性格なら、安易に賊徒に喧嘩を売るようなまねはしないでしょう。賊徒側からしても手を出しづらい相手ではある。無事だとは思いますが……」
論こそ簡潔明瞭だが、語調は明瞭からかけはなれていた。荀彧らしくもない、冴えない声に、夏侯惇は力強くうなずいてみせる。
「あいわかった。張白騎の討伐、私が行こう」
「お頼みもうす」
「なに、胡昭どのとは個人的なつきあいもある。それにだ――」
なにを思い出したのか、夏侯惇は得意げに唇の端をつりあげた。
「私が盲夏侯と呼ばれるのをきらっているのは、おぬしも知っていよう」
「ええ」
「だが、胡昭どのの文章にあった『独眼竜』という呼称は、悪くないと思っているのでな」
東の許都で、歴史上初めての例となる「独眼竜」という異名を、夏侯惇が誇示していたころ。西の関中では、錦馬超が大声でさけんでいた。
「なんだとっ!? 孔明先生が黒山賊にとらわれただとっ!?」
至近にいた馬騰は、鼓膜を破らんばかりの大声に顔をしかめつつ、洛陽からやってきた急使の張既に問いかける。
「して、張既どの。孔明先生はご無事なのか?」
張既は知るかぎりを説明した。
陸渾では城壁の工事がおこなわれていたこと。
張白騎は船で伊水を下り、陸渾を急襲したこと。
陸渾は一夜にして陥落してしまったこと。そして、
「どうやら陸渾城内の治安は一定に保たれているようです。おそらく胡昭どのも無事でありましょう」
それを聞いて、馬騰は胸をなでおろした。
「そうか、それはよかった。……しかし、張白騎とはな。ひさしくその名は聞かなかったが」
数年前、張白騎たち黒山賊は、関中にも出没していた。邑々を荒らされた馬騰たち関中軍閥は、賊を退治すべく出撃した。
精強で鳴らす関中軍を前に、かなわじと判断したのだろう。黒山賊は逸散に逃げだしたのだが、こざかしかったのは山奥へと逃げこんだことであった。
関中の騎馬軍団が無類の強さを発揮するのは、平野部においてである。山林深くにわけいれば、彼らの強みは失われる。
なにも匪賊ごときに躍起になって、不得手な場所に誘いこまれる必要はなかろう。結局、馬騰たちは本格的な山狩りを断念したのだった。
それ以来、張白騎たちの姿は関中から消えうせたのだが、いまとなっては詰めが甘かったのかもしれない。あのとき討ちとっていれば、と馬騰は奥歯を噛みしめた。
「張既どの。わが軍は、弘農郡の豪族・張琰が起こした乱の鎮圧にむかう予定であったが、さきに張白騎の討伐を優先させたほうがよいかもしれん。陸渾も同じ弘農郡にあるのだ。問題はなかろう」
馬超を大将、龐徳を副将とした一万の軍勢は、出陣の準備をほぼ済ませている。
少し前に、洛陽の鍾繇から反乱鎮圧に協力するよう要請されていたためである。
その時点で、まだ張白騎は動いておらず、討伐対象は張琰だった。
だが、孔明が張白騎にとらわれているとなれば、すぐに陸渾にむかうべきであろう。
馬騰の左右にひかえる家臣たちが、主君の言葉に賛同するようにうなずいた。まるで、そろって前に進みでたかのような迫力があったが、張既は気圧された様子もなく、
「張白騎を討伐しようにも、関中から陸渾にむかうには、澠池を通らなければなりません。張琰の反乱は、まさにその澠池で起きているのです」
「澠池を迂回して陸渾にむかうことは?」
馬騰の率直な質問に、張既が答える。
「不可能とはいいませんが、日数がかかります。陸渾に急ぐなら、澠池を通り抜けたほうが、あきらかに早いでしょう。張琰を相手にせず、素通りしてしまう手もあるかと存じますが……」
「それでは行軍中に奇襲をうけかねん。われわれが張琰を無視したところで、張琰がわれわれを無視するとはかぎらないであろう。……いや、張琰の兵は少ないと聞いている。わが軍におそれをなして、城に閉じこもるかもしれん。そうなればしめたものだが」
「張琰の兵数は多く見積もっても、張白騎の半分にもとどかないと思われます。ですが、懸念もあります」
「懸念とは?」
「真偽は不明ですが、……じつは澠池県令の賈逵どのが、張琰の反乱に加担しているとの噂があるのです。もし噂が真実であれば、県令が協力しているのです。張琰の兵も増えているでしょう」
張既は初めて困惑をのぞかせた。その声には、混沌とする弘農郡の情勢そのままのひびきがあった。
「なんと、賈逵どのが!?」
馬騰は驚愕に目を見ひらいた。ほんの一瞬で、その目が険しく細められる。
「だとしたら張琰もあなどれぬ。……ううむ、状況が流動的すぎる。いったいどうしたものか……」
逡巡する父の姿を見て、業を煮やした馬超が口を差しはさんだ。
「父上、なにを迷っておられるのです。まずは澠池へと急げばよいのです。あとのことはそのとき考えればよいのです」
気が急いているゆえの発言だったろうが、馬超の言葉は本質をついている。
状況が二転三転して、関中にいては把握できないのであれば、現地で判断するしかない。
兵馬を駐めて張琰と対峙し、これを討ってから陸渾にむかうのか。それとも無視して、陸渾へ急行するのか。
あるいはほかの方法をとるかもしれないが、その場で臨機応変に判断するしかないのである。
かくして東からは夏侯惇、西からは馬超が、同様の任務を帯びて出陣する。
張白騎を討伐せよ。否、胡孔明を救出せよ――。




