第五三話 まさかの動乱
大都市・鄴を失ったことで、袁家の凋落は決定づけられた。
まっさきに曹操へ恭順の意をしめしたのは、袁譚の従兄弟にして并州刺史たる高幹だった。
「私に并州の統治をまかせてくださるなら、曹司空にしたがう用意がございます」
と高幹は申し出て、曹操はこれをうけいれたのである。
こうして鄴から見て西方面、并州は曹操の勢力圏に組みこまれた。
転じて東へと目をむければ、冀州勃海郡が海までつづいている。
鄴を攻め落とした余勢をかって、曹操は勃海郡へと軍を進めた。
その大軍勢を前にして、諸城に抵抗する力はなかった。曹操軍はつぎつぎと城を占領し、勃海郡の中心である南皮をも、さほどの日を待たずして攻め落とした。
天下の重資といわれる冀州の全域を手に入れたのだ。
鄴に帰還してからも、曹操はいかにも上機嫌だった。
残るは北、袁譚が逃げこんだ幽州である。
その幽州においても、曹操と内通する武将が続出している。
もはや袁家の命運は風の前の塵のように思われた。
「袁譚め」
幽州へと送った降伏勧告の使者がもどってくると、とたんに曹操は不機嫌になった。
袁譚の返答は、徹底抗戦だったのだ。
「時勢が見えぬ男であったか。ならば、望みどおりほろぼしてくれよう」
曹操は眉を怒らせていうと、かたわらにひかえていた郭嘉に、
「残念だったな、郭嘉」
「ええ。主君が降伏しなけりゃ、公則さんも降伏しないでしょうしねえ」
郭嘉も失望を隠さなかった。
郭嘉は、潁川郭氏の同族である公則――郭図の助命を、曹操に願い出ている。
だが、ここまで情勢がかたむいても降伏しないとあらば、袁譚は玉砕も覚悟しているであろう。必然、郭図も最後まで命運をともにする可能性が高い。
「荀攸がいっておった。審配同様、郭図も自分がさだめた主君を裏切ることはないだろう、と。おまえもそう思っているのだろう?」
「まあ、頑固な人なんで。袁家に殉じるつもりでしょうよ」
「そういう男はきらいではない。しかし、余にしたがわぬのなら、生かしておく理由はない」
「そうもいきません。オレもいまでは潁川郭氏の代表者なんで。一族の者のために、手を尽くしてやらなきゃならない立場なんすよ」
「ほう? 意外だな」
曹操が目を丸くした。
「責任感が出てきたか。よいことだと思うが、たとえ余が見逃してやったところで、袁家に殉じるつもりなら、郭図みずから死を選ぶかもしれんぞ?」
「それは本人しだいっすよ。助命を嘆願して、曹操さまに確約をもらう。そこまでやれば、オレはちゃんと責任をはたしたといえませんかね」
「なるほど。おまえのことだ、戦場で手心をくわえるようなこともないだろう。……好きにするがよい。郭図ひとり生きていたところで、さほどの脅威にはならぬ。もし不都合が生じるようなら、そのときは……」
「そのときは?」
曹操は、フッと小さく笑い、
「おまえがその分、余計にはたらけばよい。もうひとり分、余計にな」
「そりゃ大変だ。いまでも十人分の仕事はしてるつもりですが、十一人分はたらかなきゃいけなくなる」
「どういう計算だ。たいして変わらんではないか」
むろん、曹操の声にとがめる調子はなかった。郭嘉の自己申告はたいそうひかえめであったから。実際、十人分では過小評価もいいところだった。
表面上は軽口をたたきながらも、郭嘉はひそかに胸を撫でおろしている。
あえて誤解を誘ったが、郭嘉の責任感は従来のまま、とりたてて変わっていない。
潁川郭氏を背負って立つ? そんなことでかしこまってたまるか、と思うのが郭嘉である。
かといって、郭図の助命を願い出たのは形ばかりのものではなかった。孔明に頼まれたからには、できうるかぎりのことを郭嘉はするつもりでいる。
さしあたって、気まぐれのような自身の責任感を動機としておいたほうが、都合はよかった。正直に話して、孔明が曹操に借りをつくることにでもなれば、郭嘉としてもいい気分はしないだろう。
ともあれ、郭図を生かしておくのはけっこうな難題なのだが、まずはひとつ。
曹操から、好きにしてよい、との言質はとった。
あとはふたつ。
郭図を生け捕りにする。
そのうえで、自死を思いとどまるよう、説き伏せる必要があろう。
建安十年三月、曹操軍は幽州へと出陣した。
すでに袁譚は最大の敵と呼べないが、南に矛先をむける前に、北の憂いは断っておかねばならない。誰もが勝利を信じていたこの遠征は、しかし、曹操の意にそわない形で中断を余儀なくされる。
曹操が高幹の申し出を認めたのは、高幹元才という武将の才幹を高く評価したからではない。并州の価値を低く見積もったからである。
并州は人口が少なく、異民族との紛争が絶えない地だ。大軍を動員して占領したところで、割にあわないだろうとの判断だった。
その并州の晋陽で、政務を切り盛りしているのが高柔、あざなは文恵である。
彼にとって、高幹は従兄であり、恩人でもあった。
郷里の陳留が戦乱に巻きこまれたとき、一族を河北へと呼びよせてくれたのが高幹だったのだ。潼関での大敗以降、高幹が仕事を放り出して放蕩の日を送っていようと、そう簡単に見限るわけにもいかなかった。
「高柔、参りました。何用でございましょう」
高幹の部屋に一歩を踏み入れるなり、高柔は酩酊感におそわれた。
昼間だというのに、室内には退廃的な空気が充満している。酒精と情交の匂いがまざりあい、鼻がまがり、めまいをおぼえるほどであった。
「おお、文恵。軍を動かすぞ。兵糧をたくわえておけ」
ろれつの怪しい声で、高幹は命じた。
彼は衣服をはだけ、牀の上であぐらをかいている。
その背後に、女の裸身がしどけなくうつ伏せていた。
「は? いったいなにが起こったのでしょうか」
「起こったのではない。起こすのだ」
高幹の目に鈍い光がたゆたっている。
「曹操が幽州に攻めこんだそうだ。鄴を攻め落とす好機はいましかあるまい」
高幹は声を立てずに笑った。彼が口をひらくたびに、たちこめる瘴気が濃くなっていくように、高柔には感じられる。
「いやしかし、曹操に降伏してから、まだ半年しか経っておりません。ここで謀反など起こせば、信を失いましょう……」
「謀反しようというのに、信もなにもあるものか。どうせ私は袁家を裏切ったのだ。信などいらん。力だ。力をしめせばよいのだ」
自暴自棄ともとれる態度である。
鍾繇と馬超に惨敗を喫してから、高幹はあきらかに精神の均衡を欠いていた。
彼の中心にあった強烈な自尊心が粉砕され、精神のささえを失ってしまったのだ。自信家で、自分に対する期待が強かっただけに、なおさらであろう。
「元才どの。曹操への降伏は恥ずべきことではない、と私は思います。ここ晋陽の民衆も、あなたの判断を支持しているように見えるのですが……」
「ちがうな。民衆は正直だ。やつらは曹操の力にひれ伏しただけにすぎん。曹操軍が攻めこんでこない、と知って安堵しているだけにすぎんのだ」
「元才どのは、戦火から民を守った。これは変わらぬ事実でございます」
「それがどうした。私は并州のような僻地で終わるつもりもなければ、負けたままでいるつもりもない。そもそも潼関での敗北は、関中から馬超がでしゃばってきたからだ。鍾繇との一対一であったなら、私が勝っていたはずだ」
戦争で一対一をもとめるものいいに、高柔は唖然としたが、沈黙してもいられない。
高幹の不満や屈辱を解消するために、并州が戦火につつまれるなど、もってのほかである。
「ですが鄴を攻めたところで、孤立するだけです。もはや袁譚どのにも、曹操に反撃して、鄴まで攻めあがるほどの力は残されていないでしょう。多勢に無勢ではありませんか?」
「おぬし、……よもや臆したのではあるまいな」
高幹が疑わしげに、高柔をねめつけた。
そのまなざしは、おぼろげに揺らぎ、ひとたび怒りに振れれば、分別など吹きとんでしまいそうな危うさがある。
「いえ……、まさか」
高柔は悟った。これ以上説得を試みたところで、自分の身を危険にさらすだけであろう。
「わかりもうした。急ぎ糧食を集めまする」
「ふん、わかればいい。好機といったはずだ。反乱が起きるのは、并州だけではない」
「と、いいますと……」
「さてな。反曹操の動きをどこまで広げられるかが、肝要であろうが……。おもしろい話だと思わぬか?」
高幹はあいまいに答えて、くつくつと笑った。
退屈だったのだろうか、それとも話が終わったと見たのだろうか、女の白い腕が高幹の胴にまわされる。
高柔は視線をはずした。
女の肌から目をそらしたのではなかった。
高幹の腹のあたりにだぶついた、贅肉を見ていられなかったのである。
かつての高幹は自信過剰な面こそあったが、有能な人物であり、剽悍な武人だった。贅肉とも無縁であったのだが……。
表に出た高柔は、知らず知らずのうちに大きく息をはきだしていた。肺の奥にこびりついた不快感は、容易には洗い流せそうにない。
冬の冷たい風はとうに過ぎ去り、春たけなわ、うららかな陽気がつづいている。その空気すら生ぬるく、どこか不穏に感じられるのは、自然のせいではなく、うけとる人間側の問題であろう。
「元才どのが立ちなおるまで、ささえよう。そう思って献身してきたが……」
高柔は青州への転任を固辞していた。彼がいなくなれば并州の政務は混乱をきたすであろうし、なにより従兄を見捨てられなかったのだ。
だが、その結果が反乱では立つ瀬がない。曹操に対して信義を欠く。そもそもこの反乱自体、信義も道理も地平のかなたに放り投げているのだが。
……それにしても、高幹は妙なことをいっていた。
「おもしろい話、か。まるで、誰かから反乱をもちかけられたようにも聞こえたが……」
ふとした思いつきであったが、案外、うがった見方であるように思える。高幹がかねてから反乱を計画していたのなら、いまになって兵糧を集めるのもおかしな話だ。
「誰だ。誰が元才どのをそそのかした……」
自尊心と覇気の喪失にともない、高幹の野心も燃えつきて灰になっていた。その余燼に、息を吹きかけた者がいるのではないか。
高柔は、高幹の周囲にいる者の顔を、脳裏に並べた。
犯人をつきとめようとしたのだが、やがて首をふって、断念する。
佞言をろうする程度であればともかく、曹操に反旗をひるがえそうなどという、だいそれた人物は見当たらなかったのである。
洛陽にもたらされた最初の報告は、徐州からであった。
「昌豨がまた造反した、か。こりないやつだ」
鍾繇がつぶやくと、主簿に出世していた司馬懿が反応する。
「徐州の昌豨……。たしか、劉備の乱に呼応して、蜂起した人物でしたか」
「うむ。まあ許都には十分な兵力が残っておるし、于禁や張遼もいる。問題はなかろう」
異変が生じたといっても、深刻になるほどではない。
鍾繇はおろか司馬懿ですら、このときは楽観視していた。
だが、直後に青州からも凶報がとどく。
「青州の済南・楽安・東莱で反乱があいついでいるそうだ。ふむ、昌豨に触発されたのかもしれんな。……ところで、賊将のひとりに司馬倶という男がいるようだが、おまえさんの家と関係あるのか?」
「いえ、河内司馬氏とは無関係です」
鍾繇と司馬懿のあいだにあった楽観は急速に減少し、憂慮がとってかわろうとしていた。そうはいっても、はるか東の地、遠方での騒乱である。心配や懸念は、彼らの心中のみにとどめおけた。
とうとう無視していられなくなったのは、高幹叛逆の報に接したときである。
遠方での騒乱は、遠方ではなくなった。
いつぞやのように高幹軍が河東郡に攻めこんでくれば、鍾繇軍が対峙しなければならない。洛陽の官庁は軍事的緊張に支配された。
「おのれ、高幹め。つぎこそは討ちとってくれようぞ。馬超たちがな」
馬超まかせである。強気なのか弱気なのかわからない鍾繇であった。
さいわいにして、高幹の狙いは南の洛陽ではなく東の鄴であったが、それと判明してからも軍事的緊張がとかれることはなかった。
むしろ、より切迫した状況に陥ったというべきであろう。
鍾繇の管轄下にある河東郡と弘農郡でも、反乱が勃発したのである。
河水をはさんだ先にある河東郡はまだしも、弘農郡は洛陽から目と鼻の先にある。
「やれやれ。南方では劉表の手の者が反乱を煽動しているとも聞くし、どこもかしこも反乱軍だらけではないか」
もううんざりだ、と言葉にしないだけ、鍾繇は自制したのかもしれなかった。
「こうも短期間に集中したのです。偶発的な反乱ではないでしょう」
司馬懿の見解に、鍾繇はうなずいて、
「うむ。遠大な謀略の存在を意識せずにはいられんな。……となると首謀者は誰であろうか。さしずめ袁譚か」
「袁譚ではないように思います」
「なぜだ?」
と鍾繇が首をひねった。
「正道を好む袁譚は、謀が少ない人物であるように見受けられます。なにより、袁譚にこれだけの手腕があるのなら、鄴が陥落する前におこなっていたはず。いまさら反乱を煽動したところでもう遅い。悪あがきでしかありません」
「むぅ……。では、誰だと思うのだ?」
予測してしかるべき質問である。司馬懿はすでに当たりをつけていた。
「劉表か、劉備か。おそらく劉備でしょう」
「ふむ。根拠は?」
「劉表の配下が南方で蠢動しているようですが、ほかの地域と比べて、どうにも手際が悪いように見えるのです。もし、一連の異変を主導しているのが劉表なら、もっとうまくやっているでしょう。まず南方で反乱が起こりそうなものです」
「そういえば、乱のはじまりは徐州の昌豨であったか……。反乱の嚆矢となるのは誰しも躊躇するだろうが、たしかに劉備なら昌豨を動かせるかもしれん」
「さらにいうなら、劉備はかつて袁紹陣営におり、いまは劉表陣営にいます。劉備が中心となって裏で手をまわし、袁譚・高幹・劉表らを巻きこむ形で、工作がなされているように私には見えるのです」
鍾繇は慎重に考えこむと、
「……しかし司馬懿よ。劉備も謀略は不得手だぞ」
「いままではそうでしたが、劉備がいるのは荊州南陽郡の新野です」
南陽は、潁川と同様に「夏人の居」と呼ばれる、天下の中心ともいえる地域である。有史以来、人の営みの記録を積みかさね、学問や知識の基層となってきた土地柄ゆえに、
「なるほど。南陽郡は人材の宝庫だ」
鍾繇の顔に理解の色が浮かぶ。
「劉備に欠けていた知謀をおぎなった人物がいる、ということか」
「はい。動きのにぶい劉表を見限った才人が、劉備の人柄や行動力に惹かれて、幕下に参じた可能性を考慮しておくべきかと」
事態の表層に触れただけで、司馬懿の卓絶した洞察力は、策動の全貌を見抜いていた。
もっとも、推測は推測でしかない。蓋然性が高くとも、断定するには証拠が不足している。
司馬懿は千里眼の持ち主ではない。自分の推測が正鵠を射ていることも、劉備のもとに馳せ参じた徐福という男の存在も、知るよしはなかった。
いずれにしても、当面は反乱軍との戦いにのぞまなければならない。
まずは弘農の賊を討伐することになろう。
戦の準備であわただしくなる洛陽において、司馬懿の冷静沈着ぶりは際だった。
だがしかし、洛陽より伊水をさかのぼった新城県からの急使が到着すると、さしもの彼もとりみだす。
「ご注進、ご注進! 弘農郡にて、黒山賊の張白騎が蜂起! 陸渾を占拠しています!」
「ッ!?」
その報告を聞いた瞬間、司馬懿の手から筆がすべり落ち、黒々とした墨痕を残して、机の上を転がった。
建安十年五月、孔明が暮らす陸渾県は賊軍一万に占拠された。
のちにいう、「張白騎の乱」である。




